「美しい夢の先を、生きねば。」風立ちぬ たけしさんの映画レビュー(感想・評価)
美しい夢の先を、生きねば。
この作品は、あのころと今を比べさせて説教臭く語るものではない。題材にされた人物を褒め称えるためのものでもない。夢を追い求めることの素晴らしさを描いたものでもない。この映画が描いているのは、美しい夢に憧れ、最大限の努力と才能を振り絞って美しい夢に生き、その美しい夢のある到達点を迎える人間の物語だ。つまり、夢に生きた一人の人間の人生。ただそれだけなのである。
しかし、それだけではあまりに悲しい。美しい夢に生きた人間にとって、その夢を描ききったその先に待ち受けているのはあまりにも残酷な生だ。とりわけ、クリエイタ―と呼ばれるような夢を形にする仕事の人間にとって、その想いが純粋であればあるほど、夢の到達点の先というのは、身体とインスピレーションの老いで思い描く美しいものを創れないことに絶望しながら生きていくしかないことは想像に難くない。劇中、夢の中でカプローニが若き堀越二郎に対してしきりに話していた「10年で何ができるかだ」という言葉は、正にそのことを指しているように思う。
そこで現れるのがヒロイン里見菜穂子という存在だ。彼女は、出会うまで美しい夢に関すること以外にまったくの無頓着であった堀越二郎が惹かれていく存在として描かれている。つまり、彼女の存在は美しい夢と同じほどに彼を夢中にさせる存在であったのだ。そして彼女はそれを理解していたことが、彼女が黒川邸を去るシーンで明らかにされる。決定的なのは黒川夫人の「彼女は美しいところだけを見せていたのよ」という言葉だ。そのシーンに合わせるように現れる、冒頭の夢と同じ飛び方をするゼロ戦試作機のテスト飛行の美しい映像もすべてを物語る。
そして、ラストシーン、おそらく最後になるであろう夢の中で彼と再会した彼女はこう告げて、風になる。「生きて」と。
美しい夢に生きた主人公が、他の誰でもない、夢のように美しい彼女に告げられるこの言葉こそ、堀越二郎、そして監督宮崎駿含めすべてのクリエイタ―への救いの言葉なのだ。
Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
「風立ちぬ、生きなければならない」
この言葉は堀越二郎と里見菜穂子が劇中はじめて交わした言葉であり、そしてこの言葉は、すべてを表わしているのではないだろうか。
長文、駄文失礼いたしました。