劇場公開日 2013年7月20日

「誰もが羨む存在の挫折」風立ちぬ ナスさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5誰もが羨む存在の挫折

2013年7月20日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

知的

難しい

誰もが羨む存在の挫折が心に刺さる映画。
文学小説にも似た、「誰が何を描いているのか」を踏まえて観る映画。

宮崎駿監督は、日本人なら誰もが知る、国民的アニメ映画監督。
飛行シーンにこだわり続けた監督が、飛行機設計士の物語を描く。
しかもただの設計技師ではない。日本を代表する設計技師だ。

これを宮崎駿監督に重ねずに見ることはできないし
なにより、誰からも羨まれる才能と地位にいる人物として共通する。
そんな「憧れの人」の「人生を賭した先にある挫折」が描かれる。

以下、ネタばれを含む。

作中主人公は、「ただ美しい飛行機を作りたかった」と繰り返し発言する青年。それが彼の唯一単純な夢。

しかし、戦時下にある日本で「飛行機」は
「戦闘機」としてしか存在を許されない。
現実と折り合いをつけながら「美しい戦闘機」を作る主人公。

早い段階から頭角を現し、才能を認められ、プロジェクトを任され、失敗し、そして傑作と呼べる作品を残す。しかし、その作品によって、「国が滅びる」。

私は、今年30歳。
小学校時代、教育の中にジブリがあった。
ジブリの歌を合唱で歌い、吹奏楽ではラピュタやトトロを何度も聴いた。

当時、公害問題から社会現象となっていた自然環境保護の精神を
ジブリの『ナウシカ』『となりのトトロ』や『もののけ姫』から学んだし
言ってしまえば「水の旅人」なんて最たるものだった。

つまり、積極的に教育現場に浸透していったことからもわかるように
ジブリは国民的映画になる過程で
日本国民がとるべき行動や感受性の指針を背負っていた。

毎年8月に『火垂るの墓』がテレビで放送されることも象徴的だ。
ジブリは日本の国民性を作るミッションを結果的に担っていた。

これは、ただ「美しいモノを作りたい」という青年の葛藤に重なる。

つまり、宮崎駿監督はただ「美しいアニメを作りたい」と考えてきた。
しかし、ただ美しいロマンを突き詰めるだけでは、映画は存在できない。
商売であるし、お金が絡むし、国民的映画監督となれば、社会的責任も背負う。

そのロマンティシズムを監督自身が否定していたわけではない。
「美しい戦闘機」は傑作で、監督の夢が形になったものでは確かにあった。
ジブリの送り出した価値観は、監督の信じるロマンであったことは確かだろう。

ただし、結果として「国を滅ぼした」。
「だれも帰ってこなかった」。「悪夢かと思ったよ」。

監督は、現実を魅力的に描くことができなかった。

言いかえると、
平均的に働き、子を育み、死んでいくという
現実的な人の営みを魅力的に描くことができなかった。

監督の作品は、冒険や不思議な存在、魔法の力など
現実には存在しない、ロマンティックな力や心の優しさを
物語のクライマックスシーンでの、「解決策」に描き続けた。

『魔女の宅急便』が象徴的だ。
魔女の少女が、街に出て特技を生かして働く物語だが
最終的には、働くこととは関係のない、飛行船に友人が吊下げられるという大事件を、魔法の力で解決し、彼女は街のヒロインになる。

魔女の宅急便として頑張った先ではなく、本人がもともと持っていた彼女にしかない資質で、誰にも出来ないことをやって、ヒロインになる。

監督の「美しいと思うモノ」はそのロマンの中にあった。
その生き方は、多くの人には真似の出来ないものだ。

しかし、子どもたちは「その自己実現」を衝撃的に受け取った。

自分の才能を信じて街に出て、例え一時は認められずスランプに陥っても
信じて続けることでいつか大きな花を咲かせる。この生き方だ。

結果として、
働くことを描いたアニメで、才能による一発逆転を賛美してしまった。

エンターテイメントとしては最高の映画だし
細部まで拘りきった映像伏線が張られていて何度見ても感動する。
ただ、働くことそのものを、魅力的に描くこと
物語のクライマックスに持っていくことに失敗したのだ。

宮崎監督はロマンの人だったために
普通に働いて生き、そして死ぬことを、魅力的に描けなかった。

結果、日本の子供達が
「普通に生きること」に魅力を感じない一因となった。
仕事をして生活することに魅力を感じない若者が多数生まれた。

夢を追うことに人生を賭すフリーターや
生きることに魅力を感じないニートを多数生み出した。
自殺者年間三万人も無関係ではない、
監督はそう感じているのではないか。

その反省が『千と千尋の神隠し』で見てとれる。
真正面から、「働くこと」を描いた。
子供たちに、働くことの素晴らしさを伝えようとしたのだ。

しかし、この千尋を魅力的に見せることに、監督は失敗している。

作中、働くことで親を取り戻した千尋はトンネルをくぐり現実に戻る。
トンネルをくぐり、異世界へ来た時と同じように、親の腕にしがみついて。
魔女の宅急便のキキのその後と違いすぎて、悲しかったのを覚えている。

監督は信じていない美しさを描けなった。
普通に働いて死ぬことに、ロマンを描けなかったのだ。

思うに、この挫折は相当だったろうと思う。
自分の作る作品が、弱い若者、現実で生きることが出来ない若者を生むとして
自分は映画を作っていいのか。

そこで『ハウルの動く城』では
動く城という表現の面白さをつきつめて取り組んだ。
また、老いて生きること、人の美しさの本質を描こうとした。

物語の整合性はかなぐり捨てた。
あるいは、あえて捨てたのかもしれない。恐ろしくて。

そしてこれもやはり、挫折だったろうと思う。
普通に老いた女性ではなかったし。

もう、何を作っていいのか、わからない。
そこまで来ていたのではないか。

その監督が『風立ちぬ』を描いた。

もはや普通の人の普通の生活を魅力的に描くことは自分にはできない。
どうすれば、「生きる」ことを肯定的に描けるだろうか。
答えは出なかった。

そこで、自分を題材に取ることにした。
特殊な仕事とはいえ、宮崎監督自身も精一杯働いてきた。
そして、人から羨まれる立場にあり、成功を収めたと言っていい。

「男は仕事をしてこそだ」というセリフが作中にあったと思う。
これは、真実、監督がそう感じていると思う。

だから、仕事をしながら輝かなければだめだと
その思いに嘘はないから、表現は踊り始めた。

そして、嘘をつかなかった。
仕事に打ち込んで、それだけの結果を残しながら
監督自身は今、言い知れない上記のような挫折を感じている。
それを最後に描いた。

「ただ美しい表現がしたかった」という本音と
時代の流れの中でやむなくやった部分もあるという懺悔
そして、たしかに「美しいモノ」を生み出したけれど
それが招いた結果に実は愕然としている。

夢をかなえた先に、待っていた挫折。
この先、どこに向かっていいのか、途方に暮れる感じが滲み出ている。

また、創作者としてのピークは「10年」だと
何十年も作ってきた監督が描いている。

自分はもう、純粋な気持ちで映画を作れない
もう長い間作れていない、本当は作っていていい人間ではない、
監督のロマンチシズムがそう言っているのではないか。

その監督が、そんな自身のロマンチシズムに否定され続けながら
苦心して描いた「風立ちぬ」。

夢を叶えた先の挫折を描くことで、
ジブリを見て育った若者に、生きることを問う。
働きながら輝くことの尊さと限界を描き
そこから何を感じるか、どう生きるかは、もう君たちに任せる、と。

敢えて、主人公、ヒロインを強く美しく描き
自分と切り離す理想を描いたように見せてロマンチシズムを鼓舞し
素直な心根を描ききった。

「風が吹く限りは、生きねばならぬ」

宮崎監督にしか作れない、傑作だと思う。

ナス