ヒア・アンド・ゼア

劇場公開日:2025年10月31日

ヒア・アンド・ゼア

解説・あらすじ

スペインの新鋭アントニオ・メンデス・エスパルサ監督が、出稼ぎ先から久々に帰郷した父親の姿を通して、家族の絆やその裏にある喪失感をリアルにつづったヒューマンドラマ。

アメリカで出稼ぎしていたメキシコ人男性ペドロが、数年ぶりに故郷メキシコの村へ帰ってくる。ペドロは家族との距離感や変わりゆく村の暮らしに戸惑いながらも、少しずつ家族との絆を取り戻そうとするが……。

登場人物の多くに実際の村人を起用し、フィクションとドキュメンタリーが交錯する独自のスタイルで描いた。劇中歌をペドロ本人が手がけている。2012年・第65回カンヌ国際映画祭の批評家週間でグランプリを受賞。日本では2012年・第25回東京国際映画祭の「WORLD CINEMA」部門で上映され、2025年に特集上映「アントニオ・メンデス・エスパルサの映画」で劇場初公開。

2012年製作/110分/スペイン・アメリカ・メキシコ合作
原題または英題:Aquí y allá
配給:反射光
劇場公開日:2025年10月31日

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(C)Aquí y Allí Films

映画レビュー

4.5 普通の家族の愛情の尊さーーアメリカ経済を支えるメキシコ人労働者のリアルが見えてくる佳作

2026年2月8日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

繊細な映画だと思う。ストーリーはシンプルで分かりやすい。メキシコのおそらく30代の平凡な男性とその家族を追い続ける。大きな事件はない。誰にでも起きえる人生の困難や小さな喜びが連なっていく。
僕はこの映画がとても好ましく感じるし、こうした映画をもっと観たいと思った。監督アントニオ・メンデス・エスパルサ監督の作品を見るのは、デビュー作である2012年公開の本作が初めてだ。
彼はネオリアリズモの系譜の監督と評価されているのだそうだ。それは、歴史的名作「自転車泥棒」がその出発点。「スタジオを使わず、現実の街並みで撮影し、素人俳優を器用するなど、現実生活をありのままに記録する方法」とのことだ。
要はドキュメントとフィクションの中間地点。物語はフィクションだけれど、現実にあった出来事を題材にする。物語に近い実人生を生きる素人俳優を器用することが多い。その素人俳優たちの自分自身の言葉や体験を映画に活かすために、ガチガチに脚本を固めずに、ワークショップ的に作っていくことも多い。最近はハイブリッド・シネマとか、ドキュフィクションという枠組みで語られる。

こうして定義がわかってみると、僕はネオリアリズモ映画が好きなのだと思う。定年して、映画をたくさん観るようになった去年、引き込まれた映画の多くがそうしたものだった。
中国のジャ・ジャンクー、ポルトガルのペドロ・コスタ、台湾の侯孝賢、アメリカのケリー・ライカールト、フランスのアニエス・ヴェルダ……こうしたネオリアリズモ的な系譜の作品を、東京の名画座は積極的に扱っていることも去年初めて知ったことだ。面白そうな特集上映を追いかけているうちに、半年くらいでこれらをみることができた。

これらの映画の共通点は、出演者が生きる現実を、彼らが演じ直すような形で撮影されていることだ。
カメラが追い続けるのは、主人公の世界というたった一人の人生なのに、現代社会というシステムが人をどう翻弄しているのかという、普遍的で俯瞰的なビッグピクチャーが見えてくる気がする。同時に、時代に翻弄されつつ、そこでなんとか生きていく人の尊厳みたいなものが立ち上がってくる。
こうした作品は「世界の窓」だと感じる。仕事から離れて時間ができたから、海外を旅しようかななんて思っていたけれど、東京にいて名画座を巡っている方が、もっとよく世界をみられるんじゃないかというのが今の実感だ。

出演者の多くは素人だから、多くの場合、表情は乏しい。というか普通でリアルである。ストーリーの起伏も激しくない。だからこそ、現実世界の手触りが濃厚である。
こうした作品を見ると、別の人生を生きたような感じがする。「主人公は自分だ」という共感もあるし、「現代を生きるということはこういうことだ」という普遍性も見えてくる。人は、時代や社会環境などの巨大な構造(システム)に翻弄されていることが強く感じられる。
切実さという点において、ドラマチックな映画、メジャーなエンタテイメント作品を、本作やハイブリッドシネマの多くは圧倒的にうわ回るも。多分、人生の何度目かの転機、そして締めくくりの時期を迎えた僕に、こうした作品が必要なのだと思う。

この映画の感想や調べてわかったことを書き残しておきたい。
本作は、主人公の30代男性ペドロが、アメリカでの出稼ぎから故郷に戻る場面から始まる。
女性が朝靄の中、じっと一つの方向を見つめている。カメラは動かない。その視線は、そこに現れるはずの人物を待つものであったことが、次の場面でわかる。そして待っていたのは、久々に帰郷する夫ペドロであったことが次第にわかってくる。
観客の僕は、世界のなんの変哲もない場所に、幽霊のように突然置かれた感じがする。そこで見た、普通の異国の人に興味を惹かれて、彼らについていって、しばらく彼らを観続けた……そんな感じの映画であった。
久しぶりの帰郷のせいで、ペドロと、妻・二人の娘の距離感は微妙である。近所の人も歓迎して食事に招いてくれる。みな喜んで歓待してくれている。でも、しばらく会ってなかったから、何か噛み合わない。
ペドロがしばらく出稼ぎしていたニューヨークとメキシコの地方とでは、何もかもが違う。それが影響しているのか、それともただ久々だからだけなのか…。

出稼ぎや移民など、労働者の移動が、地域や親族家族という中間共同体を失わせてしまった。これが近代の孤独の大きな原因であるのは周知のことだ。それを見直す動きが、近年の世界的保守化傾向の背景でもあり、それを告発するような形で物語が展開していくことを予想した。
でも、エスパルサ監督は、分かりやすくメッセージや結論を導くようなことは一切行わない。素人俳優たちの実人生のリアリティを、おそらくワークショップに近いような撮影手法で本作に仕立て上げている。

本作は2012年の公開だ。メキシコからの不法移民や出稼ぎ労働者を「メキシコの壁」という形で象徴的に問題としたトランプ政権誕生の直前である。
アメリカ国民にとって、メキシコから大量に入国してくる人々は、治安悪化や福祉へのただ乗り、雇用の喪失や賃金が上がらない原因とみられることになった。これらは、社会構造的な問題であること、そして、解決策は簡単に見出せるものでないことも周知の通りだ。
そもそもは90年代の北米自由貿易協定で、アメリカの安いとうもろこしがメキシコへ流入し、メキシコの農業は壊滅的打撃を受けた。農村部の人にとっては、アメリカへいくことが唯一の生存方法として残されることになった。
アメリカ側でも、いわゆる3Kと言われるきつくて危険な職業を支える安い労働力としてメキシコ人物労働者を組み込んできた。アメリカの発展を支えるエンジンとしてきた。メキシコのGDPの5%が、こうした労働者からの送金によるものとなるまでになってしまった。
この映画の舞台のメキシコ・ゲレーロ州は特に貧困率が高い地域だそうだ。本作では描かれないが、麻薬カルテルの構想が激しい地域でもあり、多くの成人が出稼ぎに出て、村には女性と子供、高齢者だけが残るという図式があるのだという。
アメリカとの関係において、メキシコは労働を吸い上げられる立場でもあり、国内企業は育たない。現在、保護貿易的な体制に移行する中で、中国からアメリカに近いメキシコに生産拠点を移すという動きもあるようだが、それがメキシコを復活させるものになるという見通しはかなり厳しいようだ。
製造業の製造というコア部分が低付加価値なプロセスになってしまい、その部分は代替可能な安い労働力に担わせるという構造があるからだ。

こうしたことを理屈で理解しても、そこにいる〝人〟はなかなか見えてこない。本作は、こうした世界の今を、体感させてもくれる。自分もその一端を担い、そこに生きていることを教えてくれるものだと思う。同時に、トランプ政権誕生以前の、移民労働者と彼らのメキシコに残った家族の姿の貴重な記録にもなっている。おそらく多くのメディアもジャーナリストも注目しなかったものだと思う。

「亭主元気で留守がいい」という言葉がある。1986年の流行語大賞。「タンスにゴン」のCMで主婦たちの会話で語られる言葉で、ユーモアと共に共感を集めた。
この言葉が流行った背景を考察してみると、高度成長で作られた核家族システムが関係している。女性は専業主婦として子育てと家庭生活を差配し、男性は外で稼いできて経済面を支える。
このシステムでは、男性は長時間労働や単身赴任で、妻や子供からは不在の存在となる。家庭の愛情空間からは浮いた存在でもあった家にいてもらっては面倒なのである。
夫はお金を稼いできてくれればよくて、本人は家にいない方がいいーーこれは、辛い状況を諦め、受け入れた上での皮肉でもあるし、本当はもっと暖かい家族でいたいという本音をユーモアで包み込んだものでもあると思う。
しかし、距離を置いてこの状況を見れば、家族というシステムの中での男性の奴隷化でもあるし、妻と子供だけの不安的な家庭の強要でもある。その不安的な家庭に夫は貢献していないから、「もうお金だけ持ってきてくれて、家族に面倒をかけなければ、それでいいよ」というのがこの言葉だ。

経済的必要が最優先で、身近な大切な人との愛情を深める時間は後回しにしているうちに、それが大事なことすら忘れてしまう。
あるいは仕事とするべきは、自分にとってもっとも稼げる仕事を選ぶべきで、自分が好きを活かせる仕事、あるいは自己表現を目指す仕事などを選ぶのは、青臭くて非現実だというような〝常識〟は、決して普遍的ではなく社会構造から生まれたものだ。
こんなことは理屈であって、今となって見れば、自分もそんな社会システムに流されて必死に働いてきたことを、本作は思い出させてくれる。

そして、この映画の彼らは「亭主元気で留守がいい」などと言って、現状を受け入れたりしない。なんとなく心の距離が離れてしまった夫・父に対して、本当は家に一緒にいて欲しいという気持ちを持ちつつ、つながりを回復しようとしていく。
同時にペドロも、食べるためだけの仕事から、本来のバンドマン、シンガーソングライターとしても生きていくことにチャレンジしようとする。
システムや〝空気〟に無自覚に取り込まれず、無力ながらもなんとかそれに対抗しようとする姿ーーそこに、尊さのようなものを感じるし、個人や大事な人の尊厳を守る覚悟を教えられるような気持ちがする。

配信で自宅で気楽にみられる作品でもないから、映画館で見たい作品だ。商業的成功は難しいだろうし、多くの人に見られることはなかなか少ないかもしれない。これほど素晴らしい作品でも、友人に勧めることは多分ないだろうと思う。

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nonta

5.0 『Aquí y Allá』 こういう映画が好み。人の心や歩みがわか...

2020年9月11日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

『Aquí y Allá』 こういう映画が好み。人の心や歩みがわかるし、そのなかで観衆者に社会問題を意識化させるから。メキシコだから遠い国のように思われるけど、もうすでに、日本にもブラジルからの出稼ぎや、他国からの労働者の移入があり、労働者の就業、入国など深刻な課題を抱えている。ただ、言えるのは根本的に他国からの労働者も私たちも同じ血が通っている人間だということだ。

スペインの・メンデス・エスパルサ監督は移民の話で映画を作りたかったが、映画化され
すぎていると考えている時、ニューヨークで主役のペドロ・デ・ロス・サントス・フアレスにあったそうだ。そこで、ペドロがメキシコに戻ったらバンド『コパ キングス』を作ると。
ペドロのバンド:https://www.facebook.com/watch/?v=218425602375498

それを聞いて作品になりそうだと思い、ペドロの里、メキシコのGuerreroグエレロにいって撮影した。コパはペドロの住んでいる小さな山間の村の名前で Copanatoyac,から取ったそうだ。伴侶役は実際 ペドロの奥さんで、二人の子供は彼らの子供ではないと言っていた。

この映画が最近鑑賞した中で一番気に入っている。ペドロの家族は贅沢をしているわけではない。米国で稼いだ金は伴侶の出産のため全てを費やしてしまったと思うし、この山間の村では働ける仕事を見つけることが難しい。他の村人も仕事を探すのが大変そうだ。洋服を子供に買ってあげるのも大変そうだ。ロレナという一番上の娘は反抗期らしく、宿題はしないし、学校も途中で抜けたりする。でも、お父さんのペドロの理解ある態度に感激してしまった。『宿題を一緒にやろうよ。。。』地面に座り込んで二人で静かに話すところが気に入った。ペドロは人の心を和ませる技を体得している。彼はまた、息子を失っている母親のところに言って話を聞いてあげたりもする。こういう人は社会に必要な人だし、彼が、また、去った時、彼を慕う衝撃は大きい。『お父さんなんか恋しくないよ』とでも、ロレナはお父さんに言ったのかもしれない、でも、『後悔している』と妹にこぼす。反抗期の娘ですら、この父親は最高だと感じている。ペドロは現実に存在するから、彼に会ってはなしてみたい。今は家族のもとに戻ったのだろうか?

蛇足

『Quiero Brindar』家族の前で歌う歌/最後字幕で流れる歌.Corrido(コリド:バラード)
I just like being humble with my realm people.

これを初めとして、90%近くはペドロが作詞作曲してうたっている歌。最後の字幕のをみてほしい。

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