リアル 完全なる首長竜の日 : 映画評論・批評
2013年5月29日更新
2013年6月1日よりTOHOシネマズ有楽座ほかにてロードショー
見えないものを見せることに挑んだ黒沢清の快作
昏睡状態に陥った大切な人の頭(意識、心、記憶、夢)の中へと入り込む試み。と、かいつまむだけでは足りない原作の複雑さ。それを承知の上で「映画で人の心の中を撮影することはできないという原則に挑戦してみたかった」(プレス資料)と潔く試みの焦点を絞り込めること。そこに監督黒沢清の新作の清々しい醍醐味がある。
“胡蝶の夢”やマグリットの風景画、J・D・サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」に言及しながら原作は今、ここにある現実のあやふやさを吟味する。その筋も登場人物も大胆に整理しつつ原作の核心に迫る映画は、脳内侵入医療の担当医にしらりと「ウソだろ」と呟かせる。物語上は瀕死の患者のあり得ない回復に対して発せられる一言。だが、同じ言葉が映画におけるリアルをめぐるくっきりとした答えとしてじわじわと迫ってくる。なにしろ「ウソだろ」と銀幕に向かって呟く至高の瞬間、観客は映画が差し出すまざまざとした感触にうっとりと巻き込まれているのだから。映画「リアル」は終盤にかけそんな「ウソだろ」の瞬間を畳み掛けてくる。
幼馴染の主人公ふたりの育った島では廃墟と化したリゾート施設も、そこで朽ちたフィルムの看板も、波間で揺れる旗竿の赤も滴る緑もふわりと風を孕んだカーテンも禍々しい生々しさに満ちている。その島に子供のままにつんつるてんの出で立ちで現れるふたり。シテール島への船出然と岸を離れたボートめがけヒロインが疾走し鉄柵を乗りこえ勢い余って転げる時、はたまたあっけなく首長竜が出現する時、自然に口を突く「ウソだろ」は、夢、幻、記憶、無意識、心の中でも何でも構わない、ただただまざまざとしぶとい現実感を裏打ちし、それこそが映画のリアルと今更ながらに唸らせる。見えないものを見せること(アントニオーニ「欲望」のテニスコートをふと懐かしみたくもなる)をしたたかに睨み映画の原則に鮮やかに挑んだ快作だ。
(川口敦子)