女の勲章
劇場公開日:1961年6月28日
解説
山崎豊子の新聞小説の映画化で、「「挑戦」より 愛と炎と」の新藤兼人が脚色し、「婚期」の吉村公三郎が監督した。撮影は「若い仲間」の小原譲治。
1961年製作/110分/日本
原題または英題:A Design for Dying
配給:大映
劇場公開日:1961年6月28日
ストーリー
船場のいとはん育ちの大庭式子が神戸の魚崎でこじんまりした洋裁教室を開いたのが四年前、生徒もふえて大阪進出を計画したのが一昨年だった。式子は八代銀四郎を相談相手に選んだ。彼は大学を出た布地問屋の息子で、事業欲にもえる野心家であった。銀四郎の活躍で、甲子園に式子を院長とする聖和服飾学院が開校した。式子には、内弟子として長年つかえてきた三人のデザイナーがいた。津川倫子、坪田かつ美、大木富枝である。倫子は中でも野心的で、三和繊維会社の宣伝部員野本と関係し、彼を通じて学院に三和の生地を提供させ、学院内でいい地位をえようとしていた。しかし、倫子の企みはすぐ銀四郎に見破られ、式子と銀四郎を一層接近させる原因となっただけだった。関西デザイナー協会のファッション・ショーで、式子のデザインが“新しい大阪のモード”として脚光を浴びたのは、銀四郎の友人で新聞記者の曽根の力が大きかった。学院の経営はとんとん拍子に運んだ。夏、六甲ホテルに泊まった式子と銀四郎は、霧の夜結ばれた。銀四郎は、倫子とは学院が心斎橋に本校を建てた場合甲子園分校の院長にする条件で、かつ美には京都分校を、また富枝には縫製工場をまかすという約束で、次々と関係を結んだ。銀四郎の事業欲はとどまるところを知らなかった。フランスのランベールの型紙を購入するために、式子は渡仏することになった。出発の前日、彼女は銀四郎が、三人の弟子と関係を持っていることを知った。式子はみすぼらしくむせび泣いた。フランスでは、国際仏文学会に出席していた白石教授の骨折りで、ランベールとの取引きに成功した。式子は白石の胸にもたれたかった。帰国した式子は、銀四郎に白石との結婚話を持ち出した。ランベール・ショーの利益も、本校も分校もすべて譲渡すると言った。しかし、銀四郎はその申し出を承認するはずもなかった--。