ビルマの竪琴(1985)

劇場公開日:

解説

日本兵の霊を慰めるため、僧侶となってひとりビルマの地に残る兵士の姿を描く。竹山道雄の同名小説の29年ぶりの再映画化。脚本、和田夏十、監督、市川崑は前作と同じコンビ。撮影は「あゝ野麦峠・新緑篇」の小林節雄がそれぞれ担当。

1985年製作/133分/日本
原題または英題:The Burmese Harp
配給:東宝
劇場公開日:1985年7月20日

あらすじ

一九四五年夏、ビルマ戦線の日本軍はタイ国へと苦難の撤退を続けていた。そんな逃避行の最中、手製の堅琴に合わせて「はにうの宿」を合唱する一部隊がいた。井上小隊長が兵士の心をいやすため、歌を教えこんだのである。堅琴で判奏するのは水島上等兵であった。小隊は国境近くまで来たところで終戦を知り、武器を棄てて投降した。彼らは南のムドンに護送されることになったが、水島だけは附近の三角山で、抵抗を続ける日本軍に降伏を勧めるため隊を離れて行った。小隊はムドンで労務作業に服していたが、ある時、青いオウムを肩に乗せた水島そっくりの僧とすれ違った。彼らは僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず歩み去って行った。三角山の戦いの後ムドンへ向かった水島は、道々、無数の日本兵の死体と出会い、愕然としたのである。そして自分だけが帰国することに心を痛め、日本兵の霊を慰めるために僧となってこの地に止まろうと決意し、白骨を葬って巡礼の旅を続けていたのだ。物売りの話から、井上はおおよその事情を推察した。彼はもう一羽のオウムを譲りうけ、「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンニカエロウ」と日本語を覚えこませる。数日後、小隊が森の中で合唱をしていると、大仏の臥像の胎内にいた水島がそれを聞きつけ、思わず夢中で堅琴を弾き始めた。兵士たちは大仏の鉄扉を開けよとするが、水島はそれを拒んでしまう。その夜、三日後に帰国することが決まり、一同は水島も引き連れようと毎日合唱した。井上は日本語を覚えこませたオウムを水島に渡してくれるよう、物売りの老婆に頼んだ。出発の前日、水島がとうとう皆の前に姿をあらわした。収容所の柵越しに、兵士たちは合唱し、一緒に帰ろうと呼びかけるが、水島は黙ってうなだれ、「仰げば尊し」を弾奏した。そして、森の中へ去って行く。翌日、帰国の途につく井上のもとへ、オウムが届いた。オウムは「アア、ヤッパリ、ジブンハ、カエルワケニハ、イカナイ」と叫ぶのだった。

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スタッフ・キャスト

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受賞歴

第9回 日本アカデミー賞(1986年)

ノミネート

作品賞  
監督賞 市川崑
助演男優賞 川谷拓三
音楽賞 山本直純
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映画レビュー

2.5反戦平和映画の代表格だがアジアへの戦争責任論の欠如により薄れる存在感

2025年2月27日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

1 原作のテーマ
童話『ビルマの竪琴』のテーマにはいくつかの要素が混在する。
第一に、一高教師だった竹山が教え子を多数戦場に学徒出陣させざるを得なかった悔恨と戦死した彼らへの鎮魂。
第ニに、厭戦気分、平和主義の拡大とともに戦争指導者と日本軍への批判が高まる中、それに異議を唱え、戦死した兵士全体への鎮魂を捧げること。
第三に、敵国兵士との和解を通じて、ヒューマニズムに基づく戦後の平和を祈念すること。
こうした要素から「戦後社会の厭戦・嫌戦・反戦気分の中、平和憲法の精神と結び合い、非武装絶対平和、反戦文学の正典としての地位を占めるようになる」(馬場公彦『「ビルマの竪琴」をめぐる戦後史』)。

2 反戦平和映画の代表格
その映画化を見ると、1956年版は同時期の『ひめゆりの塔』『24の瞳』等の一連の反戦平和のメッセージを基調とした戦争映画の系譜の中に位置づけられるもの」で、こちらも反戦平和の正典としての地位を築く。
そして1985年版になると、戦争の要素は薄められ、「児童たちにも安心して薦められる、全編ヒューマニスティックな人間愛に彩られた映画に仕上げられ」、大ヒットを記録した(同)。

3 原作、映画の欠陥
ところが小説も映画も、こうした成功の陰で大きな欠陥のあることが指摘されてもきたのである。
金の星社版の伊藤始の解説は、次の3つの問題を指摘する。
①ビルマ僧の戒律は厳しく、楽器の演奏も禁じられていること。当然、僧侶姿の水島が竪琴をひくことは考えられず、1956年版の映画はビルマで上映禁止となった。
②原作だけだが、こちらでは三角山で負傷した水島を助けた少数民族が、実は人喰い人種だったというエピソード。ありえない話だという。
③ビルマ人は仏教の教えにより、欲がなく、働かないように描かれているが、豊かなコメの産地なので、働く必要がないというのが実情だった。

また、根本敬『物語 ビルマの歴史』は「『ビルマの竪琴』という幻想」と題し、①作品は上座仏教(小乗仏教)をまったく理解しておらず、竪琴をひく水島は破戒僧であること、②この宗教は遺骨に執着しないから、水島の遺骨収集、埋葬は理解できないこと、③登場するビルマ人が飾りに過ぎず、協力的だったり素朴な人間しか出て来ないが、日本人に苦しめられ、憎んでいる人間もいること――を挙げている。

4 アジアへの戦争責任論の欠如により薄れる存在感
そして決定打とも言うべきは、戦争文学、戦争映画なのに、戦場となったアジアへの戦争責任がほとんど取り上げられていないことである。
前述『戦後史』によれば、「『竪琴』に潜む戦争責任の自覚は、自国戦没者への敗戦責任を主眼に据え、敵兵への加害責任を副次的な関心とし、それらを防御・抵抗できなかった自らの不作為責任への『慙愧』の思いを中核とするものであった。(中略)だがそこには、戦場とさせられ、望みもしない犠牲を強いられた現地アジアの人びとに対する責任意識が欠落していた。そして、東京裁判においても、アジアの諸民族に対する戦争および植民地支配責任は不問に付されていた」という。
当然だろう。第二次大戦終結時、アジアはヨーロッパの植民地に舞い戻ってしまったのだから。原作小説もそれを受けた1956年版映画も、その背景にある東京裁判も、結局は先進国クラブ内の戦争責任しか問題にしていなかったのである。

この戦争責任論の欠陥は時代性に帰責して済む話ではなかろう。1985年版映画では人間愛が強調されたが、それはリアリズムを欠いた一方的自己愛の裏返しに堕してしまっているからである。つまり、戦争責任論はますます希薄化し、「自己憐憫的な慰撫のもたらす自責感の麻酔作用によって、侵略者の顔は悲劇の犠牲者の顔への塗り替わっていく」(『戦後史』)。

石坂演ずる隊長は、遺骨箱に向かって「お前の経験はわからない。しかし、お前の気持ちは分かったような気がする。つらい決心をしたもんだな。どんなにつらかったろう」と、水島に話しかける。隠れてそれを聞いていた水島は涙にくれる。そして観客も、戦友とともに帰国もできないまま、宗教的犠牲を覚悟する水島と、その後の遺骨収集の厳しい生活に同情の涙を流すのである。
ちょっと待った。これは何かが間違っているのではないか? つらかったのは日本兵に食料等を略奪され、泰緬鉄道建設等に駆り出された挙句、膨大な犠牲者をだしたビルマ人や英国軍兵士、捕虜たちだったろう。

こうした現実を無視して、単に「反戦平和だ、ヒューマニズムだ」はないだろう。日英の敵軍同士が歌を唱和するだけで和解できるのは安直すぎるだろう――そうした空疎なお花畑的平和主義が敬遠されて、現在では本作は存在感を薄めているという。当然かと思う。

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徒然草枕

2.0ええ話なんやろけど

2024年1月1日
PCから投稿
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プライア

4.0水島には日本に家族がいなかったのだろうか?

2023年12月4日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

悲しい

戦闘シーンは余り多くないのでむごさはなかったけれど上官が違えば部下の運命が全く変わってしまうのには切なさだけが残った。
オウムが一役買っているがちょっと弱かったか?
ただ、兵士との分かれのシーンで水島の肩に乗っているオウムは画面の中にしっかり溶け込んでいた。

その当時はどうかわからないが今観ると豪華俳優陣でその当時の姿を見れるのは一つの楽しみでもある。
中井貴一はこの頃は親の七光りであったんやろか?
川谷拓三はこんなええ役どころで出てたんや
菅原文太はぴったりの役どころやなあ 等

それはそうと疑問点もたくさんあった
戦場まっただ中にいる軍隊があんなに歌がうまい?
ハモる?!理解できません あらためて上官次第やなあと思った

中井貴一はほんとうに竪琴を弾いていたのやろか?
「通信用」てとっさに出てきたのにうまいこと言うたなあ

ビルマではそんなに簡単に僧になれるのか?等々

なんとなく美談で終った感があり戦争の悲惨さは余り伝わってこなかった 捕虜の生活も悪くなさそうだったし

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♪エルトン シン

4.5中井貴一の出世作

2019年10月31日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:TV地上波、VOD

連合艦隊がデビュー作ならばこの作品は中井貴一の出世作。音楽をベースにしており、漢臭すぎる野郎どもの美しい合唱(埴生の宿など)が素晴らしい。北林谷栄のカタコトっぷりもさすが。

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さすまー

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