メトロポリス(1926)のレビュー・感想・評価
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衝撃の一大スペクタクル
150分版を鑑賞。約100年前の作品ですが、そのメッセージの普遍性と壮大なスケールに驚かされました。
序盤から巨大なセットが登場。労働者達が巨大な機械を相手にエンヤコラと作業に従事する姿が描かれるのですが、この時点で「本当に100年前の作品なのか…?」と、かなりの衝撃を受けます。そして未来都市「メトロポリス」の構造が凄い!圧倒的スケールと美しさ。後のSF作品の多くに影響を与えたのは間違いないでしょう。100年前といえば、江戸川乱歩が「鏡地獄」や「人間椅子」などの短編を書いていた時代。信じられん。(比較対象が解りづれぇ…)
エキストラの数も異常に多いです。最も多いシーンで約1500人。予定では6000人でしたが、予算の問題で減らさざるを得なかったらしいです。しかし、特殊な映像技術により予定数通りのエキストラを再現したとか。観ながら、とんでもない費用をつぎ込んでんだろうな…と、製作会社を心配するレベル。あ、実際倒産したらしいですね、この映画のせいで。
ストーリーは格差社会、労働問題、機械との共存といった感じで分かりやすかったです。さらに、ラブストーリーが組み込まれ、よりロマンチックな印象を残します。アンドロイドやAIの暴走など、現代においても扱われているテーマを既にやっております。
そして音楽がまた素晴らしい!この壮大な作品に相応しいオーケストラによる演奏が、各場面を盛り上げ、よりドラマチックに演出しております。独特なセンスの舞台セットや衣装等と相まって、ミュージックビデオを観ているかのような錯覚に陥りました。無音声映画だからってのもありますけどね。
なんか今までの常識をひっくり返された感じです。100年前に既にこんなことを…というのもありますが、こんな世界観の映画があったんだなぁと、倒産する程のお金つぎ込んで作られたわけわからんくらい壮大なSF映画があったんだなぁと…。これがオールタイムベスト1200に入ってないの!?ドット・コムさん…嘘でしょ…?
悪夢のような未来の都市空間‼️
舞台は2000年。人工的な楽園で優雅に暮らす富裕階級である独占資本家たち。一方、地下の巨大工場では労働者たちが奴隷のように働かされている。女性の労働者がリーダーとなって反乱を起こし、工場側は女性のアンドロイドを作り、事態を収拾しようとする・・・‼️大都会は超高層ビルが立ち並び、上空には飛行機が飛び交い、入り組んだハイウェイを自動車が隙間なく往来する、印象的なアンドロイドのデザイン、なんとテレビ電話まで‼️1926年、今から98年も昔にまるで悪夢のような未来の都市空間を創造したフリッツ・ラング監督はホントにスゴい‼️初見の際はホントにビックリしました‼️しかもテーマは資本主義と共産主義の対立、文明社会への警笛‼️深いです‼️現在では当たり前となっている未来社会を描いたSF映画としては先駆け的傑作で、現代の数あるSF映画と比べても決して引けをとっていない‼️
なぜこれが、ALLTIME BESTに入っていないのか。「原点にして頂点」という評価にふさわしい映画。
その映像表現にくぎ付けになる。意匠。テンポ。ダイナミズム。
手塚治虫先生の漫画表現を観ているよう。
作品解説では上映時間108分とあるが、私が鑑賞したDVDは本編だけで2時間30分30秒の完全復元版。
いろいろな理由で、監督の監修なしにかってに編集され、ドイツ国外に配給され、ドイツ国内にも短縮版が再配給されたのだとか。著作権ないんだ。
それが映画研究者達の努力により、失われた映像を集め、今の技術で可能な限り修復して作った版であり、映像等が見つからなかったが、いろいろな調査でこんなシーンだったのだろうと補足した箇所は斜体で記している等の説明があり、本編に入る。
途中、「前奏の終わり、間奏」のテロップが入り、「間奏の終わり」のテロップが流れて、怒涛の展開。
筋自体は、今となっては使い古されたモチーフ。って、こちらが元祖なのだが。
だが、映像と音楽で魅せる。(サイレント映画)
テロップ。地下を説明するときには、テロップが下にスクロール。バベルの塔を模した地上の楽園を説明するときには、テロップが昇っていく。『SW』の冒頭テロップを思い出してしまうが、これからの世界観を一瞬で理解させてくれる。
労働者のシフトチェンジ。もそもそと動く労働者達。訓練されたような大勢の同じ動き。この労働者自体が部品に思えてくる。”機械に使われる労働者”と言う点では『モダンタイムス』と同じテーマだろうが、こちらと比較すると『モダンタイムス』が如何に優雅でコメディセンスが溢れているのかと、どちらにも感嘆してしまう。ラング監督がユダヤ人で、この映画の製作はドイツと知ると、アウシュヴィッツも思い起こされ、ぞっとしてくる。この映画が製作されたのは、あの凶行の前なのだが。
上流階級の子弟が遊ぶ”永遠の園”。女性達の衣装の斬新なこと。アール・ヌーヴォー?美しい人形。ミュシャやエゴン・シーレの絵に出てきそうな…。そこに突然現れる地下の娘マリア。衣装は今のファストファッションにありそうな物なのだが、マリアの可憐さ・美しさが際立つ演出。支配者フレーダーセンの一人息子フレーダーが一目ぼれするのもかくや。
果たして、思春期真っ盛りフレーダーは、マリアを求めて、地下へ。地下工場の意匠がこれまた素晴らしい。舞台劇かオペラの舞台?。同じ動きをする労働者も群舞かと言いたくなるような動き。事故が起これば、古代神への生贄とオーバーラップさせ…。心が震える…。
フレーダーと11811号が入れ替わった作業も意匠としては美しいが、鑑賞している私からは意味を見いだせない作業なので、”労働”の比喩がすごいなと唸る。
支配者の片腕ヨザファートのクビ切りは、無茶苦茶。そこも、わずかなテロップだけで、映像だけで見せる。
フレーダーを見張る影なき男は、フランケンシュタインか吸血鬼かというような怪物感を醸し出してくれ、不気味さを味わいマシマシ。
マッドサイエンティストロートヴァングのいかにもの風貌・ふるまいも演劇がかって興を添えてくれ、これから話がどこに行くんだという興味を誘ってくれる。何気に、フレーダーセンとロートヴァングの間に、愛する女性(フレーダーの母)を巡る確執があることも匂わせ。一筋縄ではいかない様子がひしひしと。
と、映像と音楽に惹きつけられるが、前半は多少、退屈。
フレーダーが私の好みではないことが大きい。その行動を見れば、本来は10代の役なのだろうが、それを20代の若者が演じているし、かつ、大仰で暑苦しい演技をするので、ちょっと引いてしまっていた。その衣装のイメージも重なって、クラッシックバレエダンサーが、クラッシックバレエの舞台でする演技をしているのかと思ったくらい。DVDの解説映像を見ると、かなり監督が演技指導をしていて、演者のせいではなく、監督の趣味だったらしい。
ロートヴァングが地下でマリアを捕まえるところは、手塚先生か楳図かずお先生か?と煽ってくれる。光と闇の効果が見事。足踏み外すんじゃないかとそちらもドキドキ。
「前奏の終わり、間奏」
だが、偽マリアが誕生するあたりから、がぜん面白くなる。
ロートヴァングの家で助けを求めるマリアを救おうとするフレーダー。ドアを叩く、たくさんあるドアが勝手に閉まったり開いたりして翻弄される。ドア。フレーダーのアップ。閉まったドアにしがみつきながら座り込んでしまうフレーダー。手塚治虫先生のコマを見ている気分。手塚先生の常連キャラ・優等生ケンいち君がそこにいる!倒れた背中の角度・足の投げだし方までケンいち!このあたりから、私にはフレーダー=ケンいちにしか見えなくなってくる。
そして、マリアの姿をロボットに与える有名なシーン。これほど、わくわくさせる”それらしい”絵があろうか?
影なき男の予言(フレーダーの悪夢)も趣満点。映像に雨が降っているのも、夢らしさを醸し出す。
偽マリアのお披露目、”ヨシワラ”で踊るシーン。それを見る観客。偽マリアの登場に惹きつけられる横顔・横顔。そして目だけのコラージュ。男たちの、誇張された奇妙な下卑た表情のコラージュ。偽マリアの顔や踊りと交互に映る。手塚先生の作品にもよく出てくるコマ!(”ヨシワラ”って、浮世絵・ジャポニズムの影響?)
退廃の極致。ソドムとゴモラの始まり?
ゴシック教会の七つの大罪像も、動きは素朴なのだけれど、それを補って余りある意匠。破滅が来るイメージが沸々と。
その一方で、フレーダーの父である支配者フレーダーセンの片腕だったヨザファートと影なき男との攻防。保身のために裏切るかと思ったら、見せてくれる侠気。
ああ、興奮が止まらない。
(ここ、間奏なんだという衝撃は置いておいて)
「間奏の終わり」
そして、偽マリアに扇動された地下の民達の暴動。彼らの狂気・興奮。
水が溢れてくる中での子どもたちの逃走。警報を鳴らす台に集まる子ども達。必死に食い止めようとしているのがわかるマリアの行動。それに縋るように伸びてくる手・手・手。なんという美しくも緊迫した映像!は・や・く・助けてあげて!!!と見ているこちらも力が入る!
緊迫感が募ったところで、間に合うフレーダー=ケンいちとヨザファート。地下と地上を知るヨザファートにより活路を見いだせたかと思えば、立ちふさがる格子。一難去ってまた一難。
そして、自分たちの凶行を誰かのせいにしたい人々。労働者代表グロットも役柄にふさわしい演劇仕込みの演技を見せてくれる。そして、名もなき群衆の一人一人の表情。ここでも、ある方に光をあて、他は闇に沈み。別の方に光が当たり…と、緊迫感がすごい。マリアと偽マリア。群衆は同一人物と思っていて…。誤解とすれ違いの、手に汗握る追いかけっこ。マリアはどうなる?フレーダー=ケンいちは助けられるのか?
「息子はどこだ?」「明日になれば、たくさんの人々が同じことを言いますよ」と応じる影なき男。己のことしか考えない父でも、息子は心配。そんな父の意を介さず、己の正義で突き進むフレーダー=ケンいち。10代ならでは。
火あぶり。偽マリアの正体。息をのむ人々。
そこからの、マリアをさらったロートヴァング、フレーダー=ケンいちの、ゴシック教会尖塔・屋根での追いかけっこ。足を滑らせたら…。
息をもつかせぬ展開。簡単には決着はつかない。
そしてラスト。ちょっと、テーマ≒教訓に強引に結び付けている感があるけれど。けれど、フレーダー=ケンいちになっている私的には、これでいいんだ・満足。思春期の寓話だから。
DVDについていた解説によると、短縮版はフレーダーとマリアの関係を中心に編集したとか。
だが、映画のクレジットでは支配者フレーダーセンを演じたアーベル氏がトップ。監督の意図としては、支配者フレーダーが主役?
ラストは、労働者階級の勝利にしたかった監督と、当時の妻である脚本家・ハルボウさんの意見が分かれたらしい。映画が監督のものだけでないのは、今と同じか?
かってに編集されたものをつなぎ合わせて修正したけれど、監督が亡くなってしまっているから、監督の意図は判らない。悲しい。
★ ★ ★ ★ ★
役名の付いていないエキストラ?まで、役者として、「ほう」と言いたくなるような演技をする役者ばかりなのだが、
その中でも、
マリア・偽マリアを演じたヘルムさんがすごい。お顔立ちも、その体形も、ヨーロッパ彫刻の如き美しさ。
マリアは、思春期から青年になる途中の華開くお年頃。慈愛に溢れ、芯が強く、子どもを助けるためにできることをする少女。それでいて、ロートヴァングや民衆に追いかけられるときには走って逃げるしかない弱さも。
それが、偽マリアになると。カーリー神かというような動き・表情。悪だくみをしているのが見え見えなのに、目が離せない。後をついていきたくなる。
彼女を見るだけでも、この映画を観る価値がある。
いろいろな事情で早くに引退されたのが惜しい。もっと観たい。
監督はかなりテイクが多かったそうだ。
このように修復したという解説の、DVDの特典映像によると、同じ場面でも、国によって違う画が入っている物があると実際に見せてくれる。ヨザファートがクビを言い渡されるときの、ヨザファートの反応が微妙に違うのだ。
★ ★ ★ ★ ★
意匠も見事。
ミニチュアを鏡を使って大きく見せる、合成する、ミニチュアを一コマずつ動かして撮る等、いろいろな工夫がされているとのこと。
都市の風景など、『ブレードランナー』等への影響をDVDで語っていた。
だが、ここでも私は手塚先生のコマを見てしまう。『火の鳥』などに出てくる未来都市とそっくり。
監督のお父様が建築士で、監督ご自身も若い頃は風刺画や絵葉書の絵を描いて生活費を稼いでいらしたことが影響しているのか。
そして、ちょうどこの頃流行っていたアールヌーボーやアールデコのデザインを私が好きと言うのも、惹かれる要素なのだろう。
もう、これだけで眼福。美術館入り、確定。
★ ★ ★ ★ ★
音楽も、オペラのように、壮大な物語を彩ってくれる。
(『メトロポリス(1984年再公開版)』未見。冒頭3分のみYouTubeで鑑賞。歌が語りすぎで余韻なく、私は1926年版が好き)
復元には、音楽のスコアも手掛かりとしたらしい。
手に入れたスコアやシナリオ、当時のインタビュー記事や特集と合わせると、映画にはない映像がある。
イギリスのプレミアの時に配られたパンフレットと、ドイツで配られたパンフレットに載っている映像が違う!映画にない!
各国や、各地に保存されたフィルムを比較すると、こちらのこのシーンではヨザファートの動きが違う。あちらにはこの映像がありこの映像がない、こちらにはこの映像があり、この映像がない。
たくさんの方の研究の成果。まるでトレジャーハンター。DVDの特典映像をみて、彼らの仕事に感激し、わくわくしてしまう。
しかも、この時代のフィルムは可燃。『ニュー・シネマ・パラダイス』を思い出して、保存されていた奇跡にも感謝してしまう。
そして修復。悲しいかな、現代の技術では、これ以上やるとフィルムがダメになってしまうということで、雨が降ったままのシーンもあるが、そのシーンごと鑑賞しての楽しみ、そのシーンを省いたときの楽しみという見方もできて二度おいしい。
雨が降っているシーンを除いても、粗筋自体は変わらないが、やはりあった方が繊細。監督の美意識に酔ってしまう。
★ ★ ★ ★ ★
SFであり、社会派の映画であり、冒険譚であり、ボーイミーツガールであり。親と子の物語であり。古い映画なのに、こんなに満足させてくれるなんて。
「頂点」と言われるにふさわしい映画。
(2025/1/26加筆訂正)
芸術思考の人は必見の名作
現代につながる本格的なSF映画は本作が実質的に史上初 ブレード・ランナーは、本作から強い影響を受けていることがひしひしとわかります
1927年公開、ドイツの白黒の無声映画です
昭和2年の映画と思えばどれだけ物凄い作品だか理解できるはず
世界初の本格的SF映画にして金字塔です
最早オーパーツのように感じるような、そんな大昔にあり得ないレベルの近代的な作品です
改めて観ても何ら古臭さは皆無なのです
SF映画の始祖は、1902年のジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」が間違いないところ
その次は、1910年のJ・サール・ドーリー監督の「フランケンシュタイン」
1920年のロベルト・ヴィーネ監督の「カリガリ博士」
1925年のハリー・O・ホイト監督の「ロスト・ワールド」
そして1927年の本作「メトロポリス」となります
現代につながる本格的なSF映画は本作が実質的に史上初だと思います
SF的な未来世界の設定、美術やセットのレベルは驚嘆すべきほど
金属の肌のロボットはスター・ウォーズのC3POの元ネタというのは超有名
というか、それがすぐにわかるようにしているのですからリスペクトです
その他にも地下都市の光景は、タイムトンネルの地下施設やスター・ウォーズのデススター内部シャフトの元ネタだったのだとわかります
また地上の円筒形の超高層ビルは、ブレード・ランナーでのLA市警のある高層ビルの形状の元ネタです
スピナーが上空からそのビルの特徴ある円形の屋上に回り込みながら降着しようとするシーンは、このビルの形状はメトロポリスが元ネタだぞ、分かる奴はいるのか?という問いかけであったのです
また、その向こうにある超巨大ビルはタイレルコーポレーションの本社ビルの元ネタであったことに今更ながら気づきました
美術だけでなく設定やストーリー自体もブレード・ランナーは、本作から強い影響を受けていることがひしひしとわかります
地下都市は、2019年のカオス化したLA の元ネタだったのです
当時のことですから合成などの特撮技術は当然未発達です
それなのに現代のSF映画でもこれほどの効果を見せるものは無いほどの効果を上げているのです
チープさは皆無、圧倒されるとはことことです
シーンの見せ方、俳優の演技指導、演出の力、それこそが特撮の本質だと教えてくれます
水没しつつある地下都市の大スペクタクル!
群集シーンの見事なこと!
大群衆による一斉蜂起のシーンは未来少年コナンの最終回の元ネタでしょう
マリアの火炙りから、大聖堂の大屋根に至るクライマックスの手に汗握る活劇の展開は無声映画とは思えないほどの躍動感があります
舞台劇のような、ミュージカルのような演出が取り入れられています
美術やセットだけでなく、すべてが極めてスタイリッシュなのです
本作の後、SF映画の系譜は、1931年版の「フランケンシュタイン」、1933年のキングコング、同年の「透明人間」と続いて現代とつながっていくのです
1936年のチャプリンのモダンタイムスはSF映画とは言えませんが文明批評としては本作から大きな影響を受けていることは明確です
エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」は1925年の公開
本作はそこからの影響があると思いますが、かといって共産革命を扇動するものではありません
「手と頭脳は互いにおもいやりを持つことで理解し合えるのだ」
このメッセージで本作は締めくくられるのですから
蛇足
ロボットのマリアを作る発明家ロトワングは、マッドサイエンティストそのもの
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドクの元ネタと思います
ロトワングの家の玄関ドアには、五芒星がついているのは際どいです
しかもロボットマリアの起動シーンにはその頭上に巨大な六芒星の一部と思われる図案が見えるのです
彼の鼻は少し鷲鼻ぽいのです
ナチがユダヤ人排斥を始めるのは1935年から
本作の8年後のことになるのです
但しフリッツ・ラング監督自身はユダヤ人で、1934年にはドイツから亡命してフランスを経由してアメリカに渡っています
これが1926年に作られた映画?
科学の飛躍的な発展により、地下に労働者が押しやられている一方、資本家たちは地上でぬくぬくと享楽的生活を送っていた。メトロポリスの支配者フレーダーセンの息子フレーダーも楽園で楽しんでいたところ、労働者の娘マリアが現れ、労働者の子どもたちにこれが兄弟よ、などと教えていた。慌てて彼女たちを地下においやったが、フレーダーは一目惚れ。名も知らぬ女性を捜し出したのだ。彼は地下へ下り、爆発事故を目撃。労働者の過酷な仕事を知り、バベルの塔に住む父親フレーダーセンに報告する。真っ先に彼が報告してしまったため執事はクビになるが、責任を感じたフレーダーは自分の元へ来るように伝える。再び地下の作業場へと降り立った彼は時計の針を点灯するところに合わせるという作業をした労働者と入れ替わる。そこで得た情報によってマリアの集会場へと向かうのだ。マリアはバベルの塔の伝説を聞かせ、「頭脳が手と結ばれるには心を持った仲介者が必要」と説き、フレーダーと再会。熱くキスを交わすのだった・・・それを見たフレーダーセンは、亡き妻の人造人間を作っていた天才科学者のロートヴァングにその姿をマリアに似せろと命令する。
地上では妖艶な踊りをする人造人間マリアは男どもを迷わせ、あちこちで奪い合いの決闘が起こり、地下では労働者に暴動を扇動するように仕向けていた。フレーダーセンは合法的にこれを制圧するつもりだったのだ。しかし、そう単純には事が運ばず、かつての恋敵であったロートヴァングは自分の命令しか聞かないようロボットを作り上げていたのだ。暴動が起こり、労働者たちは地上へ出て破壊行動をする・・・しかし、エネルギーセンターの心臓部まで壊してしまったため、地下は水没することになり、彼らが残してきた子供たちに水の魔の手が・・・
フレーダーはクビになった執事とともに地下から子どもを助けようとする。そこにはすでに本物のマリアが駆けつけていた。地上では暴徒と歓楽街“ヨシワラ”で踊っていた人造人間マリアが衝突し、悪魔だと決めつけた暴徒によって火あぶりにされる。そして、マリアはロートヴァングに追われ、フレーダーが彼女を助け、労働者代表と社長が握手して終わる。
これが1926年に作られた映画?と圧倒する映像力に驚くばかり。無声映画でしかも4分の1が消失している作品であるのに、現代の技術と比しても遜色ない仕上がり。カットバックなどの編集もさることながら、電気仕掛けの映像はフィルムに傷つけただけで描けるものじゃない。さらに大道具も金がかかってることが窺えるし、大人数のエキストラも圧巻。特に『タイタニック』のような水没シーンでは子どもばかりですぜ!また、主演女優のブリギッテ・ヘルムの二役も絶妙だし、ストリッパー顔負けの踊りもエロくていい。
残念なのがストーリー。資本家と労働者の対立がもっと過激になるとか重要人物が死ぬとかあればいいのに、社会派要素が後半になるにつれて薄れてゆく。しかも仲介者によって和解するなんてのは簡単に解決しすぎだろ!
【ジョルジオ・モルダー版でも、”アンドロイド・マリア”の金色の姿は忘れ難い。】
ー 学生時代、”映画館の息子”に誘われて観賞。
今作が与えた”様々な影響など”当時は知る由もなく、ひたすら”これ、1927年の映画なの?ゲルマン民族ってすごいなあ”と思いながら、鑑賞。-
余りに有名な映画であるし、内容は記す必要もないと思うが、”1927年にこのディストピア世界観を映像化した”フリッツ・ラング監督の、如何にも”ドイツらしい”映像に魅了された作品。
<申し訳ないが、ジョルジオ・モルダーが拘った、”フレディ・マーキューリーの曲”などは全く記憶にない位、フリッツ・ラング監督の世界観が強烈だった作品。
但し、かなりの短縮バージョンだったと思うが、ストーリー展開には可成り無理があったが、劇場で観終わった後、妙な高揚感を覚えながら、家路に向かった事は覚えている作品でもある。>
<1988年 劇場にて鑑賞>
SF of SF
凄い…
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