早稲田松竹で『夕陽のガンマン』と併せて鑑賞。
初めて劇場で観た『続・夕陽のガンマン』。
いやああ、控えめに言って、
最っっ高でしたっっっ!!!!
マカロニ・ウエスタン史上最高というか、
すべてのウエスタン映画史上最高というか、
そもそも全アクション映画史上最高というか、
恐れずいえば、あらゆる映画史上最高というか。
俺の映画人生におけるベスト・ムーヴィーを、
ついに映画館の大画面と大音響で堪能する至福のひととき。
『続・夕陽のガンマン』には、
俺が映画に求める全てがつまっている。
圧倒的なキャラクターのかっこよさ。
所作、ガン捌き、歩き方、佇まい。
すべてが、しびれる。あこがれる。
ロングショットとズームの多用が、
圧倒的な叙事詩性と、物語性を生み出す。
トリッキーなショット。
スタイリッシュなモンタージュ。
そのすべてが、映画としての画格に貢献している。
フィルムを止めれば、「絵画」として美しい。
フィルムを回せば、「映画」として生きている。
アメリカの西部劇を構成する「かっこよさ」のすべてのエッセンスが、イタリア人の美意識によって抽出され、精錬され、完成された様式美のギミックとして呈示される。
華麗な曲撃ち。帽子のつばをあげる仕草。ぐるりと口元で回るシガー。
すべての細部が驚くほどのインパクトをもって迫って来る。
さらにドル三部作は、きれいごとの「善玉」と「悪玉」の区分を超えて、人間どうしの欲望と金への執着を西部劇のテーマとして前面に押し出した点でも、斬新だった。
西部劇のかっこいい主役が、正義を口にすることなく、ただ「金」のために戦う。同じ「金」に群がる「悪」としのぎを削り、「私利私欲のために」それを打ち倒す。
はじめてレオーネの洗礼を受けた俺は、「正義の味方」のファンタジーを反転させて生まれた、金と欲のリアリティの物語に夢中になった。
『続・夕陽のガンマン』では、この方法論がさらに複層化されている。
原題は、『The Good, The Bad and The Ugly』。
良い奴、悪い奴、卑劣漢。
もちろん、作品の中身をそのまま表したタイトルではない。
これは、ネタだ。観客への問いかけだ。
西部劇あるいはアクション映画全般における「善玉」と「悪玉」という区分をネタに、「正義となにか」「悪とはなにか」を考察したメタ的な西部劇。それが『続・夕陽のガンマン』の本質だ。その意味で本作は、『ダークナイト』や『ジョーカー』の古いご先祖さまだともいえる。
そのなかで、「善」でも「悪」でもない中間的な立ち位置で、「卑劣漢」「ずるい奴」として規定された「第三のペルソナ」は、きわめて重要な存在だ。
卑劣漢、トゥッコ。
ああ、トゥッコ。
わが愛しのトゥッコ!!
映画史上、こんなにも汚らわしくて、みっともなくて、
でも、ヒロイックで、かっこよくて、ふてぶてしくて、
愛嬌があって、いとおしく思えるキャラがいただろうか?
(いやいない)
俺はトゥッコのすべてを愛している。
冒頭いきなり、窓から無様に食べ掛けの格好で逃亡していくかに見えて、実は4人の追跡者たちをさくっと片づけている、あの必殺のガン捌きを。
天涯孤独の身の上をブロンディに語った舌の根も乾かぬうちに、僧院の神父の兄貴と両親の話をしている、あの厚顔無恥さを。
マヌケだがやたら嗅覚がきき、コミックリリーフだが心根は冷酷かつ残忍で、道化の仮面の裏ではギラギラとした殺気と欲深さを駄々洩らしている、この男の在り方のすべてを、俺は愛している。
実際、観た人なら100人が100人同意してくださると思うが、本作の主人公はイーストウッド演じるブロンディではない。トゥッコだ。
トゥッコという強烈な「ugly」がいたからこそ、『続・夕陽のガンマン』は、傑作の域を超えて、神作の域へと至ったのだ。
たとえるなら、トゥッコは、『指輪物語』におけるゴクリ。
あるいは北欧神話におけるレギン(ミーメ)のような存在だ。
野卑で、卑屈で、コミカルで、
邪悪で、欲深く、感情の起伏が激しい。
すなわち――、どこまでも「人間くさい」。
トゥッコは、人間の醜さと尊さ、人間の欲望と義侠心、人間の怒りと笑いをないまぜに併せ持つ、ある種、神話的存在である。
善玉としてのペルソナをかぶる、もう一人の卑劣漢ブロンディとも、
正反対の異名をもちながら、悪漢として輝くエンジェル・アイとも異なる、
剥き出しで、ペルソナ要らずの「人間の業」そのもののような存在。
トゥッコこそは、「人」の生々しい本質である。
なぜ、俺はそこまでトゥッコという「人間」にこだわるのか?
それは、突き詰めれば、『続・夕陽のガンマン』が、「人間」の尊厳についての物語だからだ。
『続・夕陽のガンマン』には、『荒野の用心棒』にも『夕陽のガンマン』にも出て来ない、とある要素が付加されている。
それは、「戦争」という舞台背景だ。
男たちが金の争奪戦を繰り広げ、競い合い、騙し合い、ときには共闘し、私欲を剥き出しにマウントを取りあう。そこは三作を通じて変わらない。
だが、『続・夕陽のガンマン』は、そこに「戦争」という要素を対比的に持ちこみ、男たちの私的な闘争を際立たせることに成功した。
戦争は、大量死の世界だ。
国家の大義を前にして、個は意味を喪い、私も意味を喪う。
南北戦争のような内戦においては、同じ国民同士であるにもかかわらず、北部と南部に分かれて不毛な消耗戦を繰り広げる。
個人はそれまでの人生の文脈から切り離され、肩書きとともに軍属としての新たな地位を与えられ、数に還元されて、肉弾戦の資産(アセット)として消費される。
昨日はただの無法者だった人間が、今日の収容所長であったり、今日の収容所捕虜であったりする。橋を守る飲んだくれ軍曹にも、平時の職業があったり家族があったりしただろう。
それでも、過去のすべての属性ははく奪され、「殺し、殺される」単なるコマとして扱われることになる。
そんな南北戦争を背景に、ブロンディと、トゥッコと、エンジェルは、「戦争そっちのけ」で私欲にまみれた金貨強奪戦を、知力と体力と早撃ち能力の全てをかけて繰り広げるのだ。
それって、凄いことじゃないか。なんて、痛快なんだ!!
彼らにとっては、戦争なんて、どうでもいい。
大義なんてぶっちゃけ関係ない。
自分だけが大事。金貨だけが大事。儲けることだけが全て。
欲がいちばん。俺様がいちばん。
彼等は、思い切り戦争に巻き込まれてはいるが、
その実、ちっとも戦争に巻き込まれてなんかいない。
戦争を利用し、戦争を生き抜き、戦争で生まれた「金」を奪い合う。
そこには、「個」のせめぎ合いがある。
「私」の熾烈な戦いがある。
彼等は、「自分」であることをあきらめない。
無意味な大量死を象徴する戦士たちの集団墓地で展開する、1対1対1の究極の決闘シーン。あのシーンこそが、本作の核心である。
これは、無法者たちが全体主義に対してもっともナチュラルな形で示してみせた、究極の「レジスタンス」であり、「人間賛歌」なのだ。
そう、『続・夕陽のガンマン』は、「人間賛歌」である。
だからこそ本作は、凡百の戦争映画や西部劇を超えて、レジェントとなり得た。
二つを「混ぜる」ことで、戦争の愚を際立たせ、西部魂の粋を見せてくれた。
戦争による意味のない大量死と、尊厳ある決闘の死を対比することで、人が人として生きることの壮絶な価値を描き出してみせた。
尊厳をもった戦いのなかで死ぬのなら、男は別段死んでも構わないのだ。
自分の追い求める富と名誉のために前向きに倒れて死ねるのなら、本望なのだ。
その、泥臭く、正邪を超えて、どこまでも人間臭い、「人の生命力と生々しさ」の象徴的なアイコンこそが、トゥッコというキャラクターだ。
だからこそ、俺はトゥッコという男を愛する。
彼が生き抜くことで、世界の未来が開けるから。
言い換えよう。『続・夕陽のガンマン』は、西部劇を材に撮った、セルジオ・レオーネにとっての「ルネサンス」的所産だった。
清も濁も併せ持つ人間性そのものの肯定。ユマニスト的な、人間の活力と生命力への礼賛。個が全体に呑み込まれず、個として振る舞うことへの全幅の共感。
それがあるからこそ、『続・夕陽のガンマン』は胸を打つ。スカッとする。観ていて生きる元気が湧く。自分のために生きていいのだと思わせてくれる。
『続・夕陽のガンマン』は、そんじょそこらの娯楽映画ではない。
俺にとっては、人生の映画。生涯の映画である。
この「戦争の大量死」と「尊厳ある個の死」の対比という話は、ちょうど戦間期の英国における本格ミステリの発達や、日本の戦後すぐに訪れた本格ミステリブームとも呼応するものだ。それは死を玩弄する娯楽ではあったが、同時に個人の死を特別視し、聖化する試みでもあった。レオーネが本作を通じてやろうとしたのも、殺しをゲーム化することで逆説的に「個人の死を特別な何かに引き上げてみせる」実験であった。
さらに、レオーネの「ドル三部作」が多大な影響を与えた、とある作品群がある。
そう、日本の時代劇が誇る、「必殺」シリーズである。
「必殺」には、レオーネの築き上げたマカロニ・ウエスタンの文法が、ほぼそのまま移入されている。やたら金に執着する殺し屋たち。殺し屋もまた悪である。悪が悪を討つなかで、結果的にある種の正義が執行される。曲芸じみた殺し技が生み出す、デコラティヴな死。殺しの前には必ず「仕掛けの準備」の描写があり、殺しの凶器が並べられ、棺桶の錠(沖雅也)は敵の面前で得物の手槍を組み立てる(ダグラス・モーティマーの組み立て銃!)。あざといカメラワーク。引き延ばされた殺し技のけれん味。最後に火を吹き消す殺し屋(イーストウッドもやってました!!)。そして、ほぼ丸パクリといっていい、平尾昌晃による似非・マカロニ・ウエスタン風「殺しのテーマ曲」。
俺が大学時代にマカロニ・ウエスタンにのめり込んでいったのは、「先に」必殺シリーズの洗礼を受け、心も身体も必殺(と特捜最前線)漬けとなった中高生活を送っていたからだ。
必殺愛好家の俺の体に、レオーネのウエスタンは、命の水のようにしみ込んだ。
そして、今でもレオーネと必殺のエッセンスは、俺のガソリンとなって、俺の心を燃やし続けている。
アメリカでジョン・フォードが大成した西部劇。
その技法と精神を、日本の黒澤がチャンバラ時代劇に持ち込み、それに感銘を受けたイタリアのレオーネが、その要素をふたたび西部劇に組み込んだ。で、レオーネの創始した新しい西部劇のエキスが、今度はアメリカのペキンパーや、日本の「必殺」に受け継がれていく……。なんとうつくしいピンポンであることか!
『続・夕陽のガンマン』には、ほかにも語りたいことが山ほどある。
砂漠で復讐に燃えるトゥッコと、アンドレ・カイヤットの名画『眼には眼を』の関係性。
漢の魂を伝え合うツールとしての「シガー(タバコ)」の効用。
敢えて『夕陽のガンマン』の善玉を悪玉役に起用する稚気(エンジェル一味には前作の密告者役が交じる)。
南軍の捕虜が歌わされているメロウなメロディに対して、北軍兵が「もっと感情をこめて!!」と強要するメタで自虐的な仕掛け。
その泣きむせぶような望郷の歌を背景に、ひたすら殴りまくられるトゥッコ(美メロと暴力の取り合わせ)。
暴力シーンややけどの凄惨な描写と伊ホラーの関係性。
主人公が戦争に「呑み込まれてしまう」『夕陽のギャングたち』との比較……。
だが……残念ながら紙幅が尽きてしまったようだ。
とにかく言っておく。
四の五の言わずに、まずは観てほしい。
そして、感じてほしい。
『続・夕陽のガンマン』の娯楽としての面白さを。
その背後にある、監督の理想の高邁さを。
三人の男たちの、生命と魂の昂ぶりを。
終映後、映画館から出てくる男たちの、妙に肩で風を切るような歩き方と、どこかいきった表情が、なんだかほほえましかった。
きっとみんな、脳内ではモリコーネ・ミュージックが高らかに流れていたんだろうなあ(笑)。