道(1954)のレビュー・感想・評価
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マットという男の生き方
僕にとってこの映画の最も印象的なシーンは、ジェルソミーナとマットの会話から別れのシーン。それまで軽い人間という印象ばかりだったマットが、突然ジェルソミーナを優しく諭すシーンである。
「美人でもないし、料理もできない。一体君に何ができる?」
「自分でもどうしてこの世界にいるのか分からない。」
「こんな小石でも何かの役に立っている。それが何の役にかは、俺には分からないけど」
このシーンで、ジェルソミーナは初めて自己肯定感を得られた。何もできないただの食い扶持として家族の中に存在し、ザンパノにも、女性としての扱いを全くされない。自分が何て価値のない人間なのかと嘆き続けた人生だった。マットはそんな彼女でも価値がある存在なのだということを思い出させてくれる。それが、ザンパノが寂しい人間で、ジェルソミーナがいなければ彼はひとりぼっちになってしまうということだった。ここにある悲しい事実は、ジェルソミーナのいるべき場所が、彼女を勇気づけたマットとともにあることではなく、結局はザンパノとともにあるということである。
二人が別れるシーンはとても印象的で、下を向く彼女に思い出としてネックレスをプレゼントするマットの表情、顔を上げ、手を握り(この別れの手の動きも僕にはとても印象的)彼を見送る彼女の表情。このどちらもが、愛するものと別れる時のそれだと僕は思った。マットは彼女が好きだった。また彼女もマットが好きだった。ではなぜ二人は一緒になれないか、ジェルソミーナの居場所はザンパノと共にあること、であるからだ。
どうしてマットはジェルソミーナを一緒に行けなかったのだろう。マットは彼女に綱渡りを教えてあげることも提案しているし、彼女がそれに興味があることもわかっていた。警察署の前まで来て、本当は自分と一緒に行きたいのではないかと聞いている。けれども、「何もできない女を連れて歩けない」といって、彼女を突き放す。
一つには経済的な理由ということもあるだろう。ザンパノの一件で自身もサーカスから追われてしまったマットには、もう一人を連れて歩くということが経済的な難しさは容易に想像できる。しかし、楽観的な彼がそれだけの理由で諦めたというには、弱すぎるように思うのだ。
もう一つ、気になる言葉は、ジェルソミーナも気にしたように、彼が早死にすることを仄めかす発言をしたことである。その前後の描写でも彼が早死にすることに予感させるもの、病気などについて言及はされていないから、これは単純に彼自身の予感のみからくる発言なのだろう。しかし、ひょっとする彼自身の内には、そのあとに起こる現実への予感が、病気などのように確固たる根拠を伴った事実として感じられていたではないだろうか。ジェルソミーナは他者を必要とする人間でもある。一人で生きていくには弱すぎる人間である。だとすれば、自分の生だけではなく他者の生の責任を負う覚悟が、マットにはなかったということなのだろう。
もしくは、前述のような予感はなかったとしても、その責任を引き入れるということが、彼の生き方には合わなかったということかもしれない。
本当はザンパノとジェルソミーナの関係が本筋なのだろうと思うけど、マットとジェルソミーナの会話のシーンがすっかり僕のこの映画の印象になってしまった。
マットの生き方は気楽なように見えて、実はそのために、手に入れることを諦めざるをえない喜びがある。マットを見ていて、そんなことを考えた。
ジェルソミーナはマットの死によって心を乱したように、映画のラストでザンパノはジェルソミーナの死を知り打ちひしがれる。すでにそれぞれの生活の中では不在であったはずの人間の死が、こんなにも心に迫ってくるのは、その人間の存在こそが自身を支えるものになっていたからだろう。
そう思うと、人は、意外にも目の前のものではなく、常に心に奥にある大切なものに依って生かされている生き物なのかもしれない。自らは誰を心の支えにするでもなく、ジェルソミーナを勇気付け、彼女の支えとなったマットの生き方に、僕は憧れる。
過ぎたるは及ばざるがごとし
不思議な愛の形だと思った。ちょっと知恵遅れみたいな女の人と、大道芸人のおっさんが芸をしながら旅をしていく話で、初めは本当に金のために買った売られた仲なんだけど、だんだん距離が縮まって、愛情?さえ感じるようになる。でも、生きていくためにおっさんは女を置き去りにしてしまう。ここに出てくる人たちは、みんなものすごく孤独なんだと思う。お互いにそれを感じあって、傷を舐め合うのに、突き放しあって、さらに傷を深めてしまう。負の連鎖である。イタリア人は、能天気に見えるが、悲しい映画が多いことからすると、内面はとても繊細なのかもしれない。ぐっとくる映画だった。
ジェルソミーナが初めて街に繰り出すシーンが良かった 脇役の彼が良か...
ジェルソミーナが初めて街に繰り出すシーンが良かった
脇役の彼が良かった 何度も振り返るのが良かった
絶望的な孤独を紛らわせるピエロ調が切なかった
序盤の挙式の宴会した家の病気の子どうなったのかな
名作中の名作
ジェルソミーナは元々は白痴ではないと思う
多分13か14才位の中学生程度の設定ではないか
確かに頭の回転は良く無い方だけども
だからあの程度の知恵なのだと思う
ザンパノにすぐ女にされて、恥じらいながらも性に目覚めて喜ぶさま
ザンパノに愛想がつきたと逃げ出しながら、連れ戻しにきたザンパノを見たときのぶたれながらも嬉しそうにしたがう、なんという名演技!名演出!
白痴となるのはザンパノが殺人を犯してからのこと
彼女の幼い小さな精神のキャパでは 整合できず神経の衰弱していく様の演技もものすごい!
これが終盤の海沿いの村で、村人が何とか世話を施そうとしたのに、本人が生きる意欲を無くして衰弱死していったさまがハッキリとザンパノと観客に伝わるように活きている
ザンパノがそのはなしを聞いてからアイスクリームを買い食いするシーン
あれを撮るフェリーニ監督は神がかってる
あれがなければ渚で泣くシーンが活きてこない
ザンパノもまた彼女をむげにしているようで実は女房として扱っている
それを各シーンで滲み出すようにわからせる演出、それに応えた演技
補強する脇役のセリフ
あいつは吠えることしかできない
本当に凄い映画だと思う
初フェリーニ華々しく響く
こんな小石でも何か役に立ってる
神様はご存知だ
小石が無益なら全て無益だ
空の星だって同じだと俺は思う
お前だって何かの役に立ってる
憎まれっ子、世に憚るが虚しく寂しいという
1人では生きていけないという
典型的な主題だけどね
でも素晴らしい映画でした。
個人的には初夜の後の泣いてるのか
微笑んでるのか分からない主人公の心理が
絶妙な表情で表されてて
でも、気持ちは解るから
更に共感してしまいました。
正直フェデリコ・フェリーニはあまり好きではなかったのですが、友人に...
正直フェデリコ・フェリーニはあまり好きではなかったのですが、友人に勧められて観て、本当にいい映画だと思いました。
主人公の2人の境遇と生き様に感情を振り回され、見終わった時にまるで長い人生を過ごしたような感覚になりました。
小説を読んだような、人生のヒダを感じる事の出来る深い作品です。
この映画を見て泣かない人っているのか?
名作と言われる古いイタリア映画を今になって改めて見直すと、相変わらず感動する作品と、「自転車泥棒」や「鉄道員」のように古臭く感じてしまう作品がある。多分後者は自分が歳をとったせいか、価値観が変わったせいだと思う。もちろんこの作品は前者だ。多分、何年たってもこの感動は変わらないだろう。自分の感性に直接揺さぶりをかけてくる感じだからだ
最後はザンパノ同様、号泣でしたね。結局、彼も人間だったんですね。何度見ても泣ける名作です。ジェルソミーナが亡くなるシーンがないのに、彼女を失った事を知った時のザンパノの胸を締め付けられるような思いが痛いほど分かります。
忘れえぬ別離のシーン
間違いに気付いているのに、その生き方とは別の生き方を選び取ることのできない愚かさ。主人公ザンパノはそのような人間の側面を極大化した人物として描かれている。
奇しくもこのザンパノについて冷静に見ているのは、彼をいつもからかう道化。この道化を通して、自らの存在意義を確認することのできたジェルソミーナ。母親にすら口減らしのために売られてしまう彼女は、おそらく生まれてこのかた何者かに必要とされることはなかった。その彼女に、ザンパノが本当は彼女を必要としていること、道端の石ころですら何かの役に立つことを教えたのは、この道化であった。
しかし、この道化はザンパノによって殺められてしまう。
自分という存在を照らしてくれるものを失ったジェルソミーナは、ふさぎ込み、大道芸の仕事をしなくなる。
このままでは食べていくことができないと思ったザンパノは、ジェルソミーナが寝ている隙に、彼女を置き去りにしてしまう。
この別離のシークエンスが重い。
一人では生きていけないことが分かりきった彼女を捨て去る冷酷さと、寒さ除けの毛布と彼女の商売道具になるであろうラッパを置き土産にする優しさ。この残酷さと優しさが同時に対比されるせいで、ザンパノの葛藤の大きさがいっそう際立つ。
このとき、ザンパノは自分がこののち後悔することも知っているし、すでにジェルソミーナのことを忘れられない自分に気付いている。だからこその優しさなのだが、だからと言って彼女を捨てることを思い止まることはないのだ。
生きていくためにほかの選択肢がない弱い存在なのは、ジェルソミーナもザンパノも同じ。彼らも、そして観客の多くも、苦難に立ち向かうことでモラルや愛情を守ることのできる強者ばかりではないことを知り、その自らの愚かさラストの海辺のシーンで思い知ることとなる。
共依存。
旅芸人の男に、金銭と引き換えに人身御供に出された長女。
男は好色で癇癪持ち、女は世間知らずで学もなく。ドサ廻り、その日暮らしの中、彼女の得たものは…。
貧しさ、金銭的にもだけど、教育面、人間関係、社会のインフラやセーフティネットから零れ落ちてしまうとはどういうことか?、を思う。
居場所がないと心許ないのが人間、でも、居場所があればそれでいいのか、とも思う。
感慨深い哀愁漂う映画
失って気づく。何気ない日常こそが幸せだった。
そんな作品。
あそこであの男と出会わなければあそこでああしていれば・・・!
ザンパノの馬鹿!と言いたい。
見た後は虚脱感と喪失感がすごかったです。
名作といわれるだけあります。
切なくて忘れられない作品がまた一つ
「出発!」笑顔で大きく体全体で手を振っていたかと思うと、そそくさと荷車に乗り込み、次の瞬間、瞳にはみるみる涙があふれんばかり。冒頭シーン、ジェルソミーナが、母親と幼い兄弟に別れを告げるシーンで既に彼女に引き込まれてしまった。言葉足らずでころころ表情が変わり、いつも寂しさを拭いきれない童子のようなジェルソミーナ。彼女はいつだって真心で人に接していたと思う。だから、彼女が白痴だったとは到底思えない。特にザンパノの前では女房であり、女であることを切望していたジェルソミーナ。それなのに、ザンパノは大切な石ころを手放してしまった。ラストはとても印象的。彼女の好きだった海に、許しを請いにやってきたのだろうか。ザンパノが、しばし天をあおぐシーンがある。私にはジェルソミーナの微笑みが見えた気がした。
この作品、幸運にもレンタル直後にBSで放映されたので手元に残すことができました。『道』には安易には語れないたくさんの思いが交錯し、人の魂にずしんと届く何かがある気がします。タイトルの道とは人の道のことなのか、まだ悶々と考えています。
ジェルソミーナと何度も呼ぶのに
正直、あんまり好きではない。
理由は推して知るべし。
だから、星が全部はつけられない。
でも、見入ってしまい、ストーリーに引きこまれてしまう感じは超一流。
辛いと思いながらも見続けてしまう。
イタリア映画の悪しき伝統であり、1番の魅力であるから日常に潜みじわじわ迫る悲劇は、ストーリーに欠かせない。
誰のせいでもありゃしない、という言葉もチラチラ浮かぶ。
それはそれとしてザンパノは、ルックスが超好み。私は騙されてもよい。
奴は犬だ。
映画「道(1954)」(フェデリコ・フェリーニ監督)から。
名作と言われながらも、まだ観ていなかった「道」。
多くの映画ファン・関係者が綴る作品解説を読みすぎて、
やや頭でっかちになっていたかもしれないなと感じ、
私なりの感覚でメモを取り、どの台詞に引っ掛かるのか、試したくなった。
綱渡り芸人「イルマット」が、主人公の娘「ジェルソミーナ」に語る
「この世の中にあるものは、何かの役に立つんだ。
例えば、この石だ。こんな石でも何か役に立ってる」のフレーズは、
この作品の根底に流れている考え方かもしれないが、
それ以上に、インパクトがあった台詞は、同じ2人の会話でも、
主人公のひとり「ザンパノ」に対する例えだった。
「奴は犬だ。お前に話しかけたいのに、吠えることしか知らん」
会話をメモしていても、言葉が単語だけであったり、長い台詞はない。
だから、彼女に対してどうしても命令調の口調になってしまっている。
他人とのコミュニケーションが上手に出来ないがために、
彼女への想いもうまく表現出来ない、そんな彼の性格を言い当てていた。
そんな彼の不器用さ、寂しがり屋な面が、浮き彫りにされた気がする。
そして有名なラストシーン、海に佇み、天を仰ぎ、声を上げ号泣する場面、
何を感じ、何に対して嗚咽したのか、その解釈はいろいろでいいと思う。
また数年後、この作品を観た時、違った感想を持つんだろうな、きっと。
P.S.
家内は「小学生の頃、映画鑑賞会の授業で観たよ」と言ったが、
こんな悲しい話、何を学んで欲しかったのかなぁ。
人生の辛酸と、取り返しのつかなさを知った慟哭
総合:55点
ストーリー: 60
キャスト: 65
演出: 65
ビジュアル: 60
音楽: 80
実の親からすら見放され、自分が白痴で誰からも必要とされていないという劣等感からだろうか、ジェルソミーナはとても純真で献身的である。時に人生は不条理である。働けど生活苦は続き、誰からも愛されず、精一杯の献身が実らない。
だがザンパノからすれば、金で買った奴隷に過ぎない。厳しい旅芸人の生活、報われない愛情。見ていて辛い。
そのようなことばかりあった後でザンパノが泣き崩れても、もう彼女はいない。やっと気付いたときには取り返しがつかない。
そもそも粗野で自分勝手で相手の人格を無視して奴隷のように人を扱うこの男が、私は最初からどうにも好きにはなれない。名作なのだろうが、もし彼らが自分だったらとか想像してしまうと、可哀想な人たちだね、だけで自分の中でどうも済まないのである。後味悪くてそのぶん点数も辛め。
ジェルミナは白痴ということらしいが、普通に喋ったりもしているし、解説を見るまではそうとわからなかった。いい配役なのかもしれないが、そこは気になった。
とっても悲しい
午前10時の映画祭で見ました。
轟音と大迫力の現代映画に飼いならされた人間からすると、前半はちょっと薄味過ぎて物足りない気もしましたが、終盤に向かうに従ってどんどん引き込まれてしまいました。
特に音楽の使い方が上手かった。最初聞いたときは何でもなかった音楽が、劇中で巧みに物語性を与えられていくので、終盤近くで聞いた時には何とも言えない悲哀を帯びていました。
音楽に限らず、映画終盤になればなるほど面白くなる映画だと思います!
不思議な世界を観終えて、込み上げてくるのは悲しみ以上の何か。
観終わったあと何とも不思議な感覚に襲われる。
これこそがフェリーニの世界か。
貧しい旅芸人は何度も何度も同じ芸ばかりを繰り返し成功しそうな影すら見当たら無い。
また、イタリアの街並みも華やかな地は一切登場しない。
フェリーニは、そんなリアリズムで充ちているイタリアに世間知らずで頭の弱い女を登場させる。
そこに不思議な化学反応が起こりこの名作は生まれた。
閉塞的で希望の無い"世界"と天真爛漫で希望に満ちた女が出会い向かった先は悲しみだったが、そこにあるのはただの悲しみだけでは無い。砂浜で泣き崩れるザンパノのように、観終えた私達の心にも悲しみ以上の感情が込み上げてくる。
粗野で哀しい浮草暮らし
刹那的で粗野な哀しい生き様に圧倒されました。
ここのところ天才・オタクと、現代的な頭でっかち系の作品を観てたので、なんというか、凄く斬新でした。
フェデリコ・フェリーニ監督の1954年の名作、粗野な大道芸人のザンパノと少し頭の弱い娘ジェルソミーナの物語です。
どうしようもないザンパノとの生活の中、ジェルソミーナが明るく、時には幸せそうにすら見え可愛く、哀しいです。
フィギアスケートでも使われた有名なテーマ曲が、明るく哀しく心に染み込みます。
ラストでザンパノに気持ちが持っていかれ、ついもう1回観直してしまいました。
自分の人生=道 を考えさせられる
ぎこちなくも何とか旅生活をしている2人の生き様が離れる瞬間が切ない。
その後の2人の末路も。
主役の女優のとても輝いている笑顔が印象的だった。
人生という道はいきなり車線変更もできないし、ワープするわけでもない。
日々の積み重ねの道筋が人生になる。
当たり前だけど、そんなことを思いながら鑑賞しました。
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