道(1954)のレビュー・感想・評価
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ザンパノみたいな男嫌だー
なんか誰にも感情移入はできないけど、でもその気もち理解はできる、みたいな距離感の映画だった。ザンパノくずすぎたけど、孤独だったんだね。こちら2018年に音楽劇として舞台化しており、ザンパノ役が草彅剛、ジェルソミーナ役が蒔田彩珠!あじゅちゃん絶対良いし想像だけで飯食える
見終えて道というタイトルが素晴らしい
白黒映画が余計に物語りの悲哀を掻き立てる。無情と愛情の交錯。そこにオブラートに包んだものはなくどちらも素でぶつかり合うというか・・・そしてどちらもが折り合うことなく別れは容赦なく訪れる。このためらいのなさが、昔の映画だからなのかはよく分からないがシンプルなのにとても心に残った、シェルソミーナのラッパのメロディーと共に
人生は道であり、心は波であり
フェリーニの代表作と言われるだけのことはあります。
観ながら、決して美しいわけではないジェルソミーナが、どんどん愛おしく感じてくるのに驚きました。
孤独感と後悔が波のように押し寄せるラストは、映画館だと滲みますね。
「生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭」で、初めてスクリーン鑑賞できましたが、テレビモニターとは比べ物にならないくらい没入できました。
後悔と孤独の極み
アンソニークイン扮する旅芸人ザンパノは、ジュリエッタマリーナ扮する頭の弱いジェルソミーナを奴隷として雇って旅に出た。しかし、ザンパノは置いてきぼりにするなどジェルソミーナにつらく当たった。ジェルソミーナは、ひとり故郷に帰ると言ってザンパノから別れた。それでもジェルソミーナはザンパノの元へ戻った。乱暴者のザンパノは、けんかの末人を殺め逃げ出した。ジェルソミーナは、現場を見て錯乱し泣いていた。ジェルソミーナが眠り込んだうちにザンパノはジェルソミーナを置いたまま出発していった。ある日、ザンパノは町でジェルソミーナが口ずさんでいた歌を聞いて思わず声をかけた。ジェルソミーナは何も語らず亡くなったそうだ。何とも不思議なふたりの旅だったが、テーマ曲の節回しが妙に残ったね。
文句なしの名作である
西條八十作詞、古賀政男作曲の「サーカスの唄」という歌がある。1933年の発表だから本作品を遡ること21年である。
(一番)
旅のつばくろ淋しかないか
俺も淋しいサーカス暮らし
とんぼがえりで今年の暮れて
知らぬ他国の花を見た
(四番)
朝は朝霧夕べは夜霧
泣いちゃいけないクラリオネット
流れ流れる浮藻の花は
今日も咲きましょあの町で
西條八十(さいじょうやそ)は「東京行進曲」などで知られる、センチメンタルな詩人である。市井の人々の物悲しい人生をときに明るくときに暗く謡いあげる。本作品にも西條の詞のセンチメンタリズムと通じるところがある。
冒頭のシーンから心を敲たれた。娘を大道芸人のザンパノに売った母親が得た当の娘に金を見せて、これでしばらく暮らせるしあんたがいなくなれば口減らしにもなると嬉しそうに話すが、いざ娘が行ってしまう段になると行かないでおくれと縋りつこうとする。この母親が身勝手なのではない。貧乏すぎて心が壊れているのだ。
売られたジェルソミーナはドストエフスキーの「白痴」のムイシュキン公爵よろしく、従順で欲がない。おまけに少食で、贅沢よりも歌ったり踊ったりが好きな女だ。昔は欲のない人間は馬鹿だと思われていたようだ。日本でも「欲がないのは駄目なことだ」という教育が罷り通っていた。いまだにそうやって教えている教師もいる。欲は文明を発達させ、生活の向上に寄与した、欲がない人間は努力しない人間になり、文明と人類の発展から取り残されるのだと。しかしそこには文明が発展することが本当にいいことなのかという反省はない。
ザンパノは欲の塊である。しかし他人に指図されるのを嫌うから独立した大道芸人で生きている。行きたいところに行き、やりたいことをやって生きる。ジェルソミーナを買ったのは盛り上げ役のピエロがいたほうが稼げるからだ。ザンパノの頭には今日と明日のことはあるが、それ以降のことはない。将来がどうなるかなんて考えても意味がない。
ジェルソミーナはザンパノと対照的に善意の塊で、欲があるとすれば承認欲求だけである。残忍で粗暴なザンパノにさえも認めてもらいたいと願う。それはストックホルム症候群かもしれないが、ストックホルムの銀行強盗事件が起きたのはこの映画よりも19年も後のことだ。人が喜ぶことをしたいジェルソミーナは、同じ意味で人が嫌がることをしたくない。本質的にはザンパノのことが嫌いだ。
人は時間と空間を移動し、出会い、別れる。ささやかな喜びがあり、少しの寂寥がある。人間は愚かだ。人生はつらい。本作品の結末は物悲しいが、世界中の至る所で同じような人々が同じような結末を迎えているだろう。
死にたかったジェルソミーナは死にたいと思わなくなった。それでも何のために生まれてきたのかという疑問は残る。人類すべてに共通する疑問である。他人の死を悲しむことは自分の死を悲しむことだ。死にたい人も死にたくない人も、いずれ死ぬ。自分の死を肯定するためには他人の死を肯定するしかない。
本作品には生も死も善も悪も、すべてひっくるめて肯定するような力強さがある。ときに人混みと熱気に高揚し、ときに寒さと寂しさに顫える。人はそうやって人生をやり過ごすのだ。意味を求めてはいけない。道があれば歩くだけなのだ。文句なしの名作である。
切なくなった
・冒頭でザンパノがローザが死んだから1万リラで長女を買っていく?所から、凄かった。
・旅芸人が鎖を胸の筋肉で切るのとあとはお笑い劇のみとほぼ一本で食っているのが凄かった。
・物がない時代の感じが凄くて未亡人から亡き夫の服をもらえないかと申し出るザンパノのシーンがそういうものかと思った。
・暴力的なザンパノが綱渡りの青年を殺してしまってから更におかしくなったため、ジェルソミーナを置いて行ったあとに、ジェルソミーナのラッパの音楽をくちずさむ女がジェルソミーナは数年前に死んだと聞いてラスト、ザンパノが浜辺で嘆くシーンが印象に残った。どんな人間でも後悔は先に立たないな、と。
すごくよかった
20代の時にリバイバル上映で見たのだけど、その時はさっぱり面白いと感じなくて、もしかして眠ってしまったのかもしれない。それ以来フェリーニはつまらないと思っていたのだが、今回見たらとてもストーリー性が豊かでキャラも魅力的でとても面白かった。主人公の女の子、最初は変な顔ばっかりしてると思っていたのだが、だんだんかわいらしく感じるようになる。ザンパノも殺人を隠ぺいするほどのクズだが、人生の悲哀をたっぷり背中にしょっている感じがたまらない。また5年くらいしたら見たい。
彼氏に好きな映画と言われたくない
いや、良い映画で少女の純粋さとか切なさとか今見たらまた違うかもしれないけど、男性の理想なん?と思うと都合良すぎじゃないの?とジレンマ。
ま、若かったからか。
今見てみたい
新年あけおめです。今年もいい作品をたくさん見たい。名作の呼び声高い...
新年あけおめです。今年もいい作品をたくさん見たい。名作の呼び声高い本作からスタート。
粗野な主人公ザンパノと子供かおばちゃんかわからぬジェルソミーナの生活譚。たいして面白く感じた訳ではないが、なぜか見入ってしまう。名作ゆえか。
私はてっきりまたジェルソミーナの妹のひとりが買われ、繰り返されていくのを想像させるラストかと思った。違った。まだまだ見る目がなさそうだ。今年も修行々々。
メロディが残ります。
久しぶりに見ました。 最後に見たのは数十年前だったので。
何もかもが辛い映画です。
マット、って名前でしたっけ、彼の存在感大きかったですね。
それからザンパノ、ラストで空を見上げてましたね。
どうぞその目に星が映ってますように。
うーん。結末を知っていたからかな。 どうも感情移入的なものが出来な...
うーん。結末を知っていたからかな。
どうも感情移入的なものが出来なかった。自分との接点が無さすぎる?時代背景が違いすぎる?万人受けするような作品じゃあないのかな。女は男に寄り添うのが普通、みたいな完全なる亭主関白とそれを望むような妻の姿がどうも、ねえ…。肌に合わないんですかねえ。
佐藤仁美&大谷亮平
二人の主人公が表題の俳優にそっくりで、かなり驚いたのがファーストインプレッションである。
監督フェデリコ・フェリーニは名前だけは以前から存じ上げてはいたが、やはり今作品が映画館に掛かるということならば観ねばならないと、本当ならば“瘭疽”の治療に行かねばならぬところをこちらに選択したのだがはっきりと正解だったと思い込める、流石世界の名作であった。
特にヒロイン役の女優の演技の秀逸さは群を抜くレベルである。とぼけた仕草があれほど愛らしく、しかしどこか悲しげでニヒリスティックな佇まいに心を奪われてしまう。ロードムービーでもある今作は、その行く先々での二人の関係性に変化を持たせながら、それが不幸への切符である印象を端から印象付けているので、ストーリーが進む程に、より悲しくメランコリックさを強調させながら、それでもヒロインの健気さや生きる必死さを、観客に訴えかけるように頑張る姿勢に心を激しく打たれ続けるのである。そしてそれとは逆に男の卑屈さや粗野、そして狡賢さはこれまた類い希なる極悪さを強調させ、だからこそラストのカタルシスへと誘う演出に、唯々見惚れてしまうばかりだ。哀愁や悲哀を全て羽織って、それでもヒロインのあのトンチキな仕草に救われることでの心の持ち様は、さすが名監督の掌で転がされているが如く、心を弄ばれてしまう。やはり名作はいつの時代も人間の心を掴んで離さないものだと、改めて敬服するのみである。
小石
ザンパノもマットもジェルソミーナもいわゆる底辺で生きる人間です。自尊心を持つきっかけもないまま、ゆっくり考えて生きる暇もないまま時間が過ぎた様に見えます。ただ、彼らは自分には価値がないと何となくですが分かっています。だからこそフェリーニはそんな彼ら(観客)を小石に例えて勇気づけます。何の役に立っているか小石には分からないかもしれないけれど、小石にも価値があるのだと。
マットという男の生き方
僕にとってこの映画の最も印象的なシーンは、ジェルソミーナとマットの会話から別れのシーン。それまで軽い人間という印象ばかりだったマットが、突然ジェルソミーナを優しく諭すシーンである。
「美人でもないし、料理もできない。一体君に何ができる?」
「自分でもどうしてこの世界にいるのか分からない。」
「こんな小石でも何かの役に立っている。それが何の役にかは、俺には分からないけど」
このシーンで、ジェルソミーナは初めて自己肯定感を得られた。何もできないただの食い扶持として家族の中に存在し、ザンパノにも、女性としての扱いを全くされない。自分が何て価値のない人間なのかと嘆き続けた人生だった。マットはそんな彼女でも価値がある存在なのだということを思い出させてくれる。それが、ザンパノが寂しい人間で、ジェルソミーナがいなければ彼はひとりぼっちになってしまうということだった。ここにある悲しい事実は、ジェルソミーナのいるべき場所が、彼女を勇気づけたマットとともにあることではなく、結局はザンパノとともにあるということである。
二人が別れるシーンはとても印象的で、下を向く彼女に思い出としてネックレスをプレゼントするマットの表情、顔を上げ、手を握り(この別れの手の動きも僕にはとても印象的)彼を見送る彼女の表情。このどちらもが、愛するものと別れる時のそれだと僕は思った。マットは彼女が好きだった。また彼女もマットが好きだった。ではなぜ二人は一緒になれないか、ジェルソミーナの居場所はザンパノと共にあること、であるからだ。
どうしてマットはジェルソミーナを一緒に行けなかったのだろう。マットは彼女に綱渡りを教えてあげることも提案しているし、彼女がそれに興味があることもわかっていた。警察署の前まで来て、本当は自分と一緒に行きたいのではないかと聞いている。けれども、「何もできない女を連れて歩けない」といって、彼女を突き放す。
一つには経済的な理由ということもあるだろう。ザンパノの一件で自身もサーカスから追われてしまったマットには、もう一人を連れて歩くということが経済的な難しさは容易に想像できる。しかし、楽観的な彼がそれだけの理由で諦めたというには、弱すぎるように思うのだ。
もう一つ、気になる言葉は、ジェルソミーナも気にしたように、彼が早死にすることを仄めかす発言をしたことである。その前後の描写でも彼が早死にすることに予感させるもの、病気などについて言及はされていないから、これは単純に彼自身の予感のみからくる発言なのだろう。しかし、ひょっとする彼自身の内には、そのあとに起こる現実への予感が、病気などのように確固たる根拠を伴った事実として感じられていたではないだろうか。ジェルソミーナは他者を必要とする人間でもある。一人で生きていくには弱すぎる人間である。だとすれば、自分の生だけではなく他者の生の責任を負う覚悟が、マットにはなかったということなのだろう。
もしくは、前述のような予感はなかったとしても、その責任を引き入れるということが、彼の生き方には合わなかったということかもしれない。
本当はザンパノとジェルソミーナの関係が本筋なのだろうと思うけど、マットとジェルソミーナの会話のシーンがすっかり僕のこの映画の印象になってしまった。
マットの生き方は気楽なように見えて、実はそのために、手に入れることを諦めざるをえない喜びがある。マットを見ていて、そんなことを考えた。
ジェルソミーナはマットの死によって心を乱したように、映画のラストでザンパノはジェルソミーナの死を知り打ちひしがれる。すでにそれぞれの生活の中では不在であったはずの人間の死が、こんなにも心に迫ってくるのは、その人間の存在こそが自身を支えるものになっていたからだろう。
そう思うと、人は、意外にも目の前のものではなく、常に心に奥にある大切なものに依って生かされている生き物なのかもしれない。自らは誰を心の支えにするでもなく、ジェルソミーナを勇気付け、彼女の支えとなったマットの生き方に、僕は憧れる。
過ぎたるは及ばざるがごとし
不思議な愛の形だと思った。ちょっと知恵遅れみたいな女の人と、大道芸人のおっさんが芸をしながら旅をしていく話で、初めは本当に金のために買った売られた仲なんだけど、だんだん距離が縮まって、愛情?さえ感じるようになる。でも、生きていくためにおっさんは女を置き去りにしてしまう。ここに出てくる人たちは、みんなものすごく孤独なんだと思う。お互いにそれを感じあって、傷を舐め合うのに、突き放しあって、さらに傷を深めてしまう。負の連鎖である。イタリア人は、能天気に見えるが、悲しい映画が多いことからすると、内面はとても繊細なのかもしれない。ぐっとくる映画だった。
ジェルソミーナが初めて街に繰り出すシーンが良かった 脇役の彼が良か...
ジェルソミーナが初めて街に繰り出すシーンが良かった
脇役の彼が良かった 何度も振り返るのが良かった
絶望的な孤独を紛らわせるピエロ調が切なかった
序盤の挙式の宴会した家の病気の子どうなったのかな
名作中の名作
ジェルソミーナは元々は白痴ではないと思う
多分13か14才位の中学生程度の設定ではないか
確かに頭の回転は良く無い方だけども
だからあの程度の知恵なのだと思う
ザンパノにすぐ女にされて、恥じらいながらも性に目覚めて喜ぶさま
ザンパノに愛想がつきたと逃げ出しながら、連れ戻しにきたザンパノを見たときのぶたれながらも嬉しそうにしたがう、なんという名演技!名演出!
白痴となるのはザンパノが殺人を犯してからのこと
彼女の幼い小さな精神のキャパでは 整合できず神経の衰弱していく様の演技もものすごい!
これが終盤の海沿いの村で、村人が何とか世話を施そうとしたのに、本人が生きる意欲を無くして衰弱死していったさまがハッキリとザンパノと観客に伝わるように活きている
ザンパノがそのはなしを聞いてからアイスクリームを買い食いするシーン
あれを撮るフェリーニ監督は神がかってる
あれがなければ渚で泣くシーンが活きてこない
ザンパノもまた彼女をむげにしているようで実は女房として扱っている
それを各シーンで滲み出すようにわからせる演出、それに応えた演技
補強する脇役のセリフ
あいつは吠えることしかできない
本当に凄い映画だと思う
初フェリーニ華々しく響く
こんな小石でも何か役に立ってる
神様はご存知だ
小石が無益なら全て無益だ
空の星だって同じだと俺は思う
お前だって何かの役に立ってる
憎まれっ子、世に憚るが虚しく寂しいという
1人では生きていけないという
典型的な主題だけどね
でも素晴らしい映画でした。
個人的には初夜の後の泣いてるのか
微笑んでるのか分からない主人公の心理が
絶妙な表情で表されてて
でも、気持ちは解るから
更に共感してしまいました。
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