横道世之介 : インタビュー
高良健吾&吉高由里子、必然がもたらした5年ぶりの“再会”
映画のインタビューで男優と女優が互いを称賛する姿は見慣れた光景だが、この2人からはそれ以上の何かが伝わってくる。恋人とも幼なじみとも違う。意気投合という言葉もしっくりこない空気感。「まだ人を知らない頃に出会って、醜い部分もたくさん見せ合っている。いまだったらそんな正直にいられないでしょ? という姿まで見ているから信頼しているのかな?」。吉高由里子が発したそんな言葉が、2人の関係をよく表している。年齢は1つ違うが2008年の「蛇にピアス」で蜷川幸雄の門下に集った“同級生”にして“戦友”の高良健吾と吉高。5年の時を経て「横道世之介」での再会は彼らに何をもたらしたのか?(取材・文・写真/黒豆直樹)
1980年代後半、九州から新生活への期待に胸ふくらませて上京してきた青年・横道世之介。映画は世之介と友人、ガールフレンドの祥子らの青春を、時に現代からの回顧を交えて描き出す。「軽蔑」「白夜行」など、鬱屈した感情や闇を背負い、命を削って火を灯すような姿が印象深い高良だが、世之介は天真爛漫で太陽のような温もりを感じさせる役どころ。だが、過去3度にわたり高良とタッグを組んできた沖田修一監督は、原作を読んですぐに「世之介=高良」というイメージを抱いたという。高良は、気心の知れた沖田監督の作品での主演に喜びを感じる一方で「ロケ地に向かいながらすごく不安だった」と明かす。
「クランクインの1週間前に(殺人犯を演じた)『罪と罰 A Falsified Romance』の撮影が終わり、1日休みをもらって、翌日には世之介になるためにパーマをかけに行ったんです。正直、切り替える自信がないほど『罪と罰』で、本気で役に入り込んでいたので初日の撮影に向かう時は怖かったです。でも着いてみると、沖田監督はいつも通りすごく温かかった。沖田監督が世之介は僕だと言ってくれるなら、僕は世之介になろうと必死になることだけ。素の自分が出てもいいやって思えたんです」。「北風と太陽」のごとく、現場のムードが高良の不安を溶かし、映画が醸し出す何とも心地よい空気感を作り上げていったようだ。
同世代の中でも、群を抜く演技力と存在感を備えながら「お芝居は苦手。でも現場が好き」と公言する吉高。そんな吉高にとっても、初体験となる沖田組はかなり居心地がよかったようだ。一切の妥協を排し、テイクを重ねていく沖田監督の強い思いをまざまざと感じたそうで「監督はなかなか『カット』って言ってくれないんです。転んでも、ぶつかっても、物を落としてもカットを掛けない(苦笑)。高良くんも何があっても芝居を止めず世之介で居続けてくれた」と振り返る。高良は「吉高さんもルールがないし」とニヤリと笑みを浮かべ、沖田演出の魅力をこんな言葉で表現する。
「沖田監督はよく『なんか違う』と言うんです。でもピンポイントで『なんか』が何なのかがよく分からない。分からないままにもう1回、新鮮な気持ちでやってみたらOKが出たりする。その小さな何かが積み重なって、1本の映画になったときに沖田ワールドになっているんだと思います。キスシーンでも、沖田監督は(カメラを)ガンガン引いちゃう。(友人の)倉持が世之介の前で泣くシーンでも、倉持の背中を撮る。それは沖田監督の人柄で、気持ちや感情の結果ではなく、全て過程を見せて見る人に考えさせるんです」。
完成した映画は、原作者・吉田修一をして「普通っていうのは実はレベルが高い」と言わしめた。“ごく普通の学生”というキーワードで語られることが多い世之介を念頭に発せられた言葉だが、「僕は世之介が“普通”と思えない」と高良。まさにそこに不思議と人をひきつけてやまない世之介の秘密があるという。
「普通と表現されるところが世之介のすごさですよね。ボートピープルとの遭遇も親友の彼女の妊娠も、簡単に普通と言える体験じゃないのに、世之介はいつも横道世之介として色眼鏡を掛けずにそこにいて、目の前の人に反応していく。普通でないことを日常の光景のように見せてしまうのは、レベルの高いことなんだと感じました。そう見てもらえたのは、僕らが役として“普通に”そこにいたから。『こう見せる』なんて考えてカメラの向こうを意識したシーンはひとつもなく、すべてのことをカメラの手前で終わらせたからだと思います」。自信を持ってではなく、淡々と静かにそう語る姿が、まさに俳優・高良の人となりを表していると言える。
映画では、世之介と祥子の18歳から19歳にかけての1年ほどが中心に描かれるが、高良と吉高にとっては「蛇にピアス」の撮影前の時期が、この年齢にあたる。吉高は、当時を「まだバイトもしていて、女優を一生の仕事だなんて考えずによそ見歩きばかりしていた」と懐かしそうに振り返る。「生きていくことに興味のないフリをしていた」とも語るが、そんな彼女の人生を変えるきっかけとなったのは、同作のクランクイン前に事故で集中治療室に運び込まれた経験だった。
「眠っていたらうなり声が聞こえて目を開けたんですが、それは痛くて自分がうなっていた声だったんです。気持ちはヤサぐれていたのに、体は未来に向かって進もうとしていた。そう思ったら『頑張んなきゃ』って思えたし、それまで頑張ることを格好悪いって思っていたけど、素直に『頑張る』って言えるようになった」。
高良も、20歳の頃は「何でも自分ひとりでやっている気になっていたし、『間違った世界に来てしまった』って思っていました」と気恥ずかしそうに明かす。決していまの自分が前向きだとは思っているわけではない。ありのままを受け入れる、「前向きも後ろ向きもなく360度を向く」というのが現在のスタンスだという。
「いまでも芝居ができるとは思っていないです。でも、できないことが面白くなってきました。もうひとつ大きかったのは、主演させていただいた『軽蔑』で劇場に人を呼べなかったこと。それまで『分かる人だけ分かればいい』と思っていたけれど、見てもらえていないのに、そう考えるのはがダサく思えてきた。どんな映画も見ていない人にとっては存在しないのと同じ。『おれは面白いと思うけど』と突き放すのではなく、『面白いと思うから見てもらいたい』という思い、そのために行動したいという気持ちが芽生えてきました」。そう語る表情は何とも楽しげだ。
全てをさらけ出した5年前があったから、そして互いに見てきた景色は違えど、それぞれに着実に歩んだこの5年があったからこそ、前作とは全く違うものを生み出すことができた今回の再共演。「隣にいるのにこんなこと言うのは恥ずかしいけど、吉高さんとじゃなきゃできなかったことが確実にある」と高良が言えば、吉高も「しっかりとそこに構えて、いや、構えずにただそこにいてくれた。譲り合って作ったシーンはひとつもない。いまだに2人とも安定していないんだけど(笑)、ガタガタした、ずれているところも世之介と祥子だったよね」とほほ笑む。
2人で一緒にいても、演技や映画が話題になることはない。高良が不思議そうな顔で明かす。「こないだ、ふと『最近、こういう芝居が好きで』って話しかけながら、そういえば吉高さんと芝居の話をしたことが一度もないって気づいたんです。僕自身、女優さんとそういう話をすることはあまりないんだけど『あれ? 話してるじゃん』って。吉高さんは聞いているだけで何も話さないけれど、それを僕も寂しいとは思わない。そこが面白かったです」。
映画の中で、世之介と人々との出会いのきっかけとなるのは、ふとした偶然である。高良と吉高の5年前の出会いも、また偶然がもたらしたと言えるかもしれないが、5年後の再会は“必然”と呼ぶべきだろう。であるならば、2人の軌跡が3たび交錯する日も決して遠くないはずだ。