シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
全397件中、161~180件目を表示
ファンの四半世紀も巻き込んだ壮大な作品
エヴァンゲリオンは昔からこうでした。
小難しい言葉を並べ、中二病に浮かされて意味を探り、概念と真実、虚構と現実を織り交ぜて
通常人にはわけのわからないストーリーが展開されます。
エヴァはどういう人のための映画なのでしょうか。それはわかりきっています。
子供向けのわかりやすいストーリーに難解なセリフを織り交ぜられ、謎の結末を迎えた旧作に対し、
中二病に浮かされて聖書を読み、様々な考察を重ね、心理学に手を出し、はてなき議論を重ね、
余人にはわかるまいと自分やその周囲を選民思想のように持ち上げてきた。
そして、普通の人からは「キモヲタ」と見做されつつも、逆におまえらのような薄っぺらい事は考えていないと嘯いて、
やがて、そんな鬱屈した少年時代からそれぞれの成長をへて「大人」になった人たちのための映画です。
人によっては目をそらしたいような過去から、君は大人になったかい?と問いかけてくるような、
シンジやアスカ達はこういう風に大人になったよ、と、かつての友人の近況を知らせてくれるための映画です。
私とおなじように、キモヲタだったかつての14歳。今やアラフォーのための映画です。
非常にターゲットが狭いものではありますが、自分にエヴァという名の槍が突き刺さったことを幸運に思います。
//
・カップリング
トウジとヒカリがくっついていた!・・・って、何が意外なのか。
いやシンジ視点なら意外だ。発言主のケンスケ視点ならもっと意外だっただろう。
・第三村の復興っぷりが素敵。
あれは田舎の共同体であり原始のコミュニティです。
身を寄せ合って、それぞれが最大級の社会貢献をしなければ維持できない共同体です。
それだけに弱者に手をさしのべる余裕など全くないはずです。働かざるもの食うべからず。
コミュニケーション能力がなければ簡単に爪弾きにされるという田舎の気風が増幅されているはずで、
それならば事情はどうあれぐったりしているシンジや、物事を知らない黒波には地獄なはず。
そこの住人が何故あれほどまでに優しいのか……、やはり有力者の後ろ盾の強さだと思うのです。
トウジは真似事といっていましたが、おそらく医師としてかなりの働きをしたのでしょう。
そしてケンケンも充分に共同体の中心部にいるのでしょう。この二人がしっかりと信頼を勝ち得ているからこそ、
うだうだ生ける屍と化していたシンジも、労働力になれない程度の黒波も放置されないのだと思います。よくやったね!
・ヴィレとネルフの人員事情
身を寄せ合って生きていかなければならないレベルの残存人類事情。
なぜそこであそこまで高度な技術力を維持することができているのか。消耗品や素材の調達ができているのか。
再生水が必要になるほど水資源が少ないのに、再生水生成装置を稼働させられるのか。
さらにいえばネルフです。冬月先生が単独突貫しているレベルなのに人手がほとんど見えません。
Qの時にも思いましたが、まさかあの二人だけで運営しているわけではないと思うのです。
すると一体どんな人員がそこにいるのでしょう。食料すら事欠く有様の世界で、政府機構が壊滅しているのに。
気にするのはヤボな点だと思いますが「エヴァを壊した時の修理費用で国がひとつ傾く」程の大量消費ができるシステムが気になりました。
・「後をお願い」
冒頭の書き残し。
ゲンドウからシンジへ。
ユイからシンジへ。
加持からミサトへ
ミサトからJrへ。
冬月からマリへ。
次の世代に託すという意思が感じられます。好き。
・なんてものを見せるのか。
この結末については賛否両論あるのだろうと思いました。
あれだけ押してきたレイかアスカかの話を、ひとつふたつ前にポッと出で出てきたマリが持っていく。
あれだけ分かり合えないと押してきたゲンドウとの関係は対話ひとつで修復していく。
あれだけ複雑だった人間関係を時間という薬で修復する。
時間。そう時間が必要だったのです。
この結末を迎えるために必要だったのは時間です。視聴者の成長です。
なんてものを見せるのか。
当時のターゲットが中二の少年であるならば、広げた風呂敷を畳もうとする今、彼らはすでにアラフォーです。
リョウジやミサトを超え、なんならゲンドウと同じ年齢に近い視聴者も多いのです。
視聴者は帰れるのでしょうか。
エヴァ開始当初、すでにバブルは崩壊していましたが長い不況は予想されていませんでした。
これほどの未婚化も少子化も予想されていませんでした。
往年、エヴァのファンは私同様「キモヲタ」だったわけです。
彼らは結婚できたのでしょうか、子供がいるのでしょうか。
もちろんかつてはキモヲタであっても、努力や幸運と共に人間本来の営みに戻れた人もいるでしょう。
ゲンドウやミサトさんのように次世代に希望を見出し、あるいはアスカやレイのようにこの先に希望を見出し、
なんならシンジのように未来に希望をもって旅立っている人もいるのでしょう。
しかし、あの頃のキモヲタのまま今を生きて、さらに若さまでなくした視聴者にはどのように響くのでしょうか。
エヴァは、レイやアスカと共に二次元に投影した自己の承認欲求を求め、それにこたえてくれる話ではありませんでした。
ほとんどの層はそれぞれの定義で「大人」になっており、このメッセージに対処する方法を得ているでしょう。
しかして「なんだこの結末は!」「こんなもの求めていない!」そう思った人も少なくないようです。
願わくば、荒廃した人類の中でも生きるしかないと第三村を開拓した人々のようなたくましさが備わりますように。
//ここからは本格的にネタバレです。ネタバレを気にしない未視聴の人は見てからどうぞ//
・シンジの話
シンジ君の不幸は周囲に導いてくれるまともな大人・話を聞いてくれるまともな大人がいなかったことにあります。
シンジ君は 実の父母を含めて大人から目をそらされ続けていました。
スパロボのシンジ君は「周囲の大人に話を聞いてもらえる、導いてもらえる」という状況にあれば普通に優秀です。
(だってシンジ君はユイとゲンドウの子供なのです。遺伝子的に超優秀なのでしょう)
精神状態最悪の状況とはいえ、一か月以上もの放置期間と、ただただ待っていてくれる拠り所を置いておけば回復します。
この作品において、たまたまとはいえ、自分の中で心の整理をつける時間と見守ってくれる大人・仲間がいたのは僥倖です。
情報を集め、時間があり、心に余裕があればシンジはとても優秀なのです。
・レイの話
Twitterでフォロワーさんのつぶやきが完全に突き刺さったので少し砕いて紹介します。
「ハートに巻いた包帯をゆっくりほどいたのはそこらへんのオバちゃんとネコ」
黒波もポカ波も大好きです。そしてタイトル回収のネオンジェネシス。
ポカ波が向かった先は新世紀の世界だったのでしょうか、それともパンを加えて走ってた方でしょうか。
エヴァに乗らなくていい世界、つまりはパンを加えて走っていた方かもしれません。
シンジに必要なのが時間と環境だったのならば、黒波に必要だったのは人間関係と学習だったのかと思います。
・アスカの話
ケンスケはアスカと同居しています。アスカの住み慣れっぷりとケンスケのアスカ全裸対応からしておそらく前から一緒に住んでいたのでしょう。
一緒に住んでいるどころか、もうかなりの仲です。
しかしアスカ、加持さんのときといいケンケンといい、
自分を子ども扱いしてくれてなんでもできる系の要領がよい。能力として器用でも、生き様な不器用な男が好きですね。
ってことで、家事万能で、エヴァに乗って戦えていて、コネも社会的後ろ盾もあるので生きていきやすい状況にありつつ、
でも自暴自棄で自責他責に囚われてうだうだ悩むシンジはわりと好みのタイプだったわけです。
なので、うだうだ悩みすぎて気力が尽きてしまい「なんにもできない」になるとその時点で好みの対象ではなくなるのです。
好きだった相手が嫌いなタイプになるというアスカ的には一番ムカつく状況だったんじゃないでしょうか。
ケンケン宅での無防備なアスカも、浜辺のむちむちアスカもいいです。今回はがっつりサービス要員。
アスカが無頓着な性格ということではなく、ケンケンとシンジにめっさ気を許しているから、だと解釈したいです。
・マリの話
「破」の冒頭でマリは「自分の目的のために大人を利用するのは気が引ける、と言っていました。
マリの目的は何だったのでしょう。イスカリオテのマリアという名前から聖書からマグダラのマリアだいや聖母だ、イスカリオテのユダだ、いや、マティアだ。
などという役割についての話がSNSにありますが、
ゲンドウの目的がユイに会いたいことであり、アスカの目的が自分を認めてほしいということであり、それらの個人的な目的はそれぞれの大義名分とは異なるエゴにあったのです。
では、マリの個人的な目的はなんだったのでしょうか。
漫画版ではマリはユイが好きだったそうです(漫画は未読なので、ここらへんは伝聞です)
ゲンドウは本作の中において、目をそらし続けていたシンジの中に探し求めていたユイの存在を検知して認めました。
マリはおそらく最初からシンジの中にユイを見出していました。「ユイのにおいがする」とかでしょうか。
で、あるならばマリの個人的な目的はユイ(の存在を引き継ぐ)シンジをゲットすることであり、
旧劇・新世紀にいなかったマリが外からやってきて個人的な目的を果たした結果、周囲を巻き込んで良いENDに向かったのでしょう。
・鈴原サクラの話
今回の話題をかっさらっていくのはサクラだと確信しています。
直接の接点はほぼ皆無なのだと思いますが、感情がぐちゃぐちゃになっている描写は多々見受けられます。
それまで寝たきりだったのに、目覚めて数時間でいなくなった患者とナースの関係ではないです。
おそらくサクラはニアサー前のシンジの日常の情報(ひいては写真や動画)の記録を見ています。
幼い頃に自分がケガをした要因、助けてもらった恩人、家族を巻き込んだぶっこわれた原因、それでも今、ヴンダーが動いておりネルフに反逆できる中核。
思い込みと行動力があわさっているサクラなので、おそらく(巻き添えはあったけど)自分の日常を助けてくれたヒーローと、
アーカイヴを基に自分の中で思い描いていた理想像、なんなら夢小説でも書いていそうな夢想と、目の前にいるシンジの行動。
そこらへんの感情がごちゃまぜになり煮詰まって腐った結果、どうしていいかわからない状況だったんじゃないでしょうか。
面白いのはレイとの対比です。
「碇くんがこれ以上エヴァに乗らなくていいようにする」という目的に対して、
だから私が使徒をぶっつぶす。と、いう結論にいたったのがレイなのですが、
「死なない程度に痛めつければシンジはエヴァに乗らなくてよくなる」という超最適解を見つけ出しています。
例えばテレビで、例えば序破で、シンジかその周囲がそれに気づいていればおそらく展開は全く違ったでしょう。
(それはそれで、ゼーレかゲンドウの計画が完遂してしまうのでしょうが……)
///
今からいらんことを言います。
・使徒とは何だったのか。
・エヴァンゲリオンとは何だったのか。
・高次元生命体とは何だったのか。
・カヲル君は司令となって何をしていたのか
・マリの目的とは何だったのか。
疑問は残っているのです。
これ以上の作品は蛇足に過ぎないのはわかっています。
シンジはアスカはマリは、それぞれの道に踏み出しました。
少年少女の物語はこれで終わりでしょう。
そして、ちょうどよいところに神話になれそうな資質を持った少年がいます。
第三村で育っていた「ちょっと話しただけでいいやつとわかる」ようないい少年がいます。
シンジに促され、新世紀を目指して旅立つ少女がいます。
「さようなら」は、また会えるためのおまじない。
ならばこそ「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」です。
面白かった。が…
先日やっとの思いで、スケジュールを空け見てきました。
中学の頃からリアルタイムで見てて、やっと終わりを迎えるのか!
と感無量な気分で鑑賞。
終盤、無駄にリアルっぽさを強制してきており、スタジオ撮影なんかは 完全に心が次回作「シン・ウルトラマン」の方に行っているのが分かりました。
旧劇及び漫画やTVアニメ見てない人は完全に置いてきぼり状態なので、まぁ、全部見直して下さい。
まぁ、庵野監督お疲れ様でした。とだけ言っておきます。
感謝以外の言葉があるのか
にわかファンです。私が小学生だった頃に兄の影響でこの作品と出会いました。今では誰もが知られたエヴァンゲリオンですが当時はどこか得体の知れないコアなアニメファンしか需要がないんじゃね?と思えるような作品でした。それが反対に興味を惹かれ、今の今までエヴァンゲリオンという作品がここまで大きくなった要因だと思えます。当時、中学生になった私は劇場版まごころを君に、を観たときはもう今まで味わったことのない複雑な気持ちになりました。「人間の精神の行き着くところまで行くとこうなるのか…」と、大人になった今、当時の気持ちの表現をすればそんな心境でしたネ。笑 そして時は経ち2007年。衝撃。新エヴァシリーズの開始。序、破、Q、そして最終作𝄇。それまで2〜3年の周期で公開されていたにも関わらず音沙汰が突如消え、さらに延期なども重なって私の脳裏から新エヴァンゲリオンの存在を忘れかけていたある日。今流行りのハ◯スク◯ブで最終作が公開していることを知る始末。Oh my god…。今週末観に行こう…!そして今日、ようやく観賞することができました。(話はさらに逸れますが笑)自宅を出る前に残酷な天使のテーゼをアカペラで熱唱し、映画館に向かう車内でもBGM「残酷な〜♪」と「Fly to the moon」を流しながら「あぁ、今日でエヴァンゲリオンが終わってしまうのか…。」と思うと、おっと…。車内で涙が、。そしてここでようやく本作品のレビューに移らせて頂きます。笑 簡潔にまとめます。予告編も敢えて見ずに、本編を観賞したので冒頭から見入りました。心から泣けるシーンがいくつもあって終焉を迎えるまで何度も涙を拭いました。ミサトさんとシンジくんの関係の修復、アナザーインパクトを止めるべく立ち向かうシンジに心の声を発する鈴原の妹サクラ、幾度となく勇敢な姿を見せつけてきてくれたアスカがまたもや13号機に向かって命を顧みずに立ち向かうシーン、碇ゲンドウとシンジのようやく親子としての心の距離を埋める対面シーン、ミサトさんの死、シンジの成長、空想の世界であるスタジオの背景に写るTV放送時代の描写コマ送りシーンなどは特に泣けました。
まだ14歳という少年がいきなりお父さんに呼び出されてエヴァに乗れ。と言われてから今まで26年。紆余曲折ありましたがこうしてエヴァンゲリオンという超大作が一つの幕を閉じるというこの瞬間を共に過ごせて悲しいような嬉しいような複雑な心境では今ありますが、ですが私が生きてるこの時に新世紀エヴァンゲリオンという作品と巡り会えたこと。心からの感謝と御礼を庵野秀明監督、作品を手掛けたスタッフや声優の皆様方、そして作中に生きる魂の込められた登場人物達。本当に「ありがとう」。新世紀エヴァンゲリオンは世代を通り越してこれからも愛と希望と夢を与えてくれます。
さよならエヴァンゲリオン(強制射出)
本当に、とても素敵で面白い。恐ろしくクオリティの高いロボットアニメをありがとうございました。
次回作エバンゲリヲンに期待してます。
と、庵野監督に言いたい半分。
もうエヴァを作り上げた頃のアニメの時代は終わりを迎えたんですね、お疲れ様でした庵野監督。見事な白旗でしたね。
と言いたい気持ちが半分。
正直、案の定な映画ではあった。
これは多くのエヴァファン()に受け入れられる絶賛される作品だろうとも感じた。
新世紀エヴァンゲリオンを完結したいという気持ち、謎を解きたい、納得のいくハッピーエンドを見たい!これは1990年代、ゴールデンアニメ全盛期、ジャンプアニメやゴールデンアニメで育った世代の描く理想だっただろう。
数多くの王道バトル漫画のように死闘や努力の上に、勧善懲悪な結果を勝ち取り、主人公やヒロイン達がきちんとそれぞれの道を進んでいく。
そんなアニメや漫画、ゲームで小学生時代を歩んだ人たちに衝撃を与えたのがエヴァンゲリオンだ。
明かされないのに深まる謎、自己投影してるはずの主人公はヒーローからずり下ろされ、意志薄弱なまま前も向けずにそれでもブラック企業のような強制労働を強いられていく。
そして、結局はTV版にせよ映画版にせよ周り関係なく自己の中で今までの経験や関わりから自己完結した結論を急に出して終わってしまう。
エヴァに影響を受けた多くのヲタク精神の自己完結型作品が”世界系”と揶揄され、主人公の立場ではなくモブ視点の人々から叩き続けられる要因になった作品でもあるエヴァンゲリオン。
これに納得できなかった人は多いはずだ。
そんなユーザー達に神聖化され、ロボットアニメ、ジャパニメーションの金字塔とされた『新世紀エヴァンゲリオン』ではあるが。作品としてはTV版でも旧映画版でもキチンと完結はしているのだ。
もちろん、視聴者側の気持ちもわかる。毎週魅力的な展開に、深まる謎、変化するキャラクターの精神、素晴らしい作画、膨らみに膨らんでる機体に対して、『おめでとうといったら、もうここで終わりなんです!はい、さようなら!』と突然シャッターを締められて追い出されてしまった。
そりゃまぁ、憤怒もする。
挙句、延々と待たされた映画をワクワクして観に行けば延々と総集編を見せられた上に、ようやく本編が始まった!と思ったら『私に帰りなさい〜♫』である。帰れるかボケェ!ともなる。
そして、更に待たされた先の結果は、再度訳のわからん精神世界に放り込まれた後にエヴァの映画をドヤ顔で見てる自分達を晒された上に『ほらっ、生きてく意思があればどこでも天国なの。さっさと現実に戻りなさい!』からの『気持ち悪い』である。
そりゃまぁ、ブチ切れる。
しかし、こう言ったアニメーションの作り方は別にエヴァだけがそうなわけではない。むしろアニメや漫画、ゲームの所謂サブカル的なポジションにあり、庵野監督らを育てた土壌はそう言った精神的に練り込まれた作品の方が多いし、そんなサブカルの土壌になった芸術や文学の多くも、説明責任など果たさず作者と作品による対話のような作品の方が多い。
むしろ、そんな遊び半分、精神的な対話半分な作品に対し説明責任と完結を追求し続けるユーザーがどこまでも監督を追い詰めた結果が今回の作品である。
1990年代から大衆文化としての面が強くなったサブカルというかヲタク文化であるが、自分たちで作品を解釈完結させれないユーザー達が、視聴者側が完結させろ!説明責任を果たせ!伏線を回収しろ!それができてないからこの作品は駄作だ!と叩く傾向が当たり前になったのもこの頃からである…。
オタク文化が海外でも大きく評価され、アニメがジャパニメーションなどという訳の分からない評価の庇護に落ち着き、オタク文化をクールジャパンなどという薄っぺらい言葉で綺麗に整備されると、オタク文化はよりわかりやすい精神性と美徳と綺麗で理解しやすい造形美を求められてきたし、作品自体もその傾向に迎合しつづけてきた。
そんな作品の多くが当たり前になった文化の中、満を辞して登場したエヴァンゲリヲンの映画に沸いた多くは恐らくエヴァというコンテンツありきで育った世代のヲタク達だろう…。
美しく描き変わった映像、今までと少しだけ違うエヴァ、全ての謎完結に向かうエヴァが今始まったのだ!と歓喜し。
破では、いままでのエヴァをまさに破壊する展開の数々に胸を躍らせ、まさに主人公として成長、変化していく新しいシンジに感動したユーザーが多かったはずだ。
しかし、このシンジは果たして新しいシンジだったのか?ここから個人的には今回のエヴァもエヴァンゲリオンというコンテンツしては完結しない気がしていた。
と、いうのも。前向きになり成長していくシンジやヒロイン。仲間になるカヲル君など、ようは作品を知ってるからこそ”こうあって欲しかったエヴァ”など、スパロボを始め、多くの2次創作で扱われたネタであり。公式のゲームや漫画などでも多々あった。正直、”いまさら”でしかないし。
そうなってくるともうこの映画シリーズ自体が公式が作る二次創作にしか見えてこない。
そして、エヴァという人気作品のコンテンツというよりは、エンターテイメント性を重視し、さらに精神対話を投げ捨てて来たのがQである。
ここでは、主人公に対しても視聴者に対しても不親切で訳の分からない状況が延々と展開される。
いうのであれば、おめでとう!で終わってしまったエヴァの再来だ。
しかし、エンターテイメントとしてはこれは大正解で、案の定当時と同じ手法で釣られた新規ユーザー達はもやもやを抱えたまま考察を重ねに重ね、完結を待つしかなくなる。
この時間が苦痛でもあり、楽しくもあり、コンテンツのユーザー層を広げて定着させるのは。蓋を開けて観たら駄作としか言いようがなかった『ひぐらしのなく頃に』が、未だにコンテンツとして人気があるが、ある意味では証明している…。
そんな風に見事に監督の手のひら、コンテンツを利用した制作サイドに転がされ回った今回の完結編ではあるが…、まぁものの見事に『お前らが見たかったエヴァはこれだろ?』的な二次創作祭りだった。
前向きになった綾波からの、綾波が命や自然と接して人間的な心を得ていく姿、アスカやマリがシンジと接することで恋愛を終わらせていく姿。
なによりも、エヴァという世界観が本来は極めてシンジの主観的、内在面に重きを置き、閉鎖的な空間からの解放のための物語であったことに対する不満が、この映画では早々に世界に存在する人々へフォーカスが移され、世界に対して存在する1人の人間でしかないエヴァパイロット達と、世界の人々達の物語へと一気に視野が広げられていく。
おそらく映画3部作で思考が閉鎖的になり、エヴァしそうになっていたユーザー達はその爽快感に感動するのだろう。まさにエヴァという陰湿的な世界系から開放されたような爽快感を得れたはずだ!
しかし、あえて言えば。そんな内在的な主人公から、視野が開け成長する主人公など。腐るほどみてきた。
むしろ、最近のロボットアニメ…どころか大衆受けするアニメではありがちな展開だ。
かつて碇シンジの物語として解釈されていた世界観が、碇ゲンドウの世界観としてシフトされ、対比され。全ての精神的な柵から解放され、新しい世界歩と踏み出す。
まさにエヴァという呪いからの我々を解放するための作品!という風にも見える。
けれど、今回のエヴァはそんなにしっかりと練られ、庵野監督が作り上げ、二十何年にも及ぶエヴァというコンテンツに対し、庵野監督が初期から考えていた作品の根底に対する解答だったのか。
ハッキリ言ってしまえばNOであろう。
実際、人類補完計画、ゼーレの設定、ヴンダーの設定、各キャラの設定。それらは全て旧設定とはずれてしまっているし、解答に関しても新の設定に対する解答にしかなっていない。
これは庵野監督が現代のアニメーションを取り巻く環境や自身を取り巻くからも、エヴァというコンテンツを進めて無理矢理にでも終わらせなければいけない!というある意味自決に近い意思表示なのだと思う。
エヴァによって大きく世界を変えてしまったアニメを取り巻く環境だが、庵野監督が求めた製作者とユーザーの関係は、皮肉にもエヴァによって崩壊が始まった。製作者が答えを出さないと、いつまでも口を開け続けて待ち続けるユーザー。作品を解釈、追いかける覚悟がないから、分かりやすい声優や作画といったコンテンツに執着し、安易で手軽なCG処理ばかりを絶賛し、製作側の意図や演出を汲めないユーザー。
宮崎駿が作り上げ、1980年代押井守や庵野達が楽しんで切磋琢磨して来たサブカル製作者とサブカルユーザー関係は見事に終わった…。
それでも、そういったコアな製作陣と視聴者の争いから生まれる文化の成長を信じて作られた、kharaと日本アニメ見本市であったが、作られていくアニメは結局何かの後追いをしたような作品ばかり、視聴者も昔のような対話ができるわけでもない。
そんな絶望的な環境の中、生まれた『シン・ゴジラ』に対するユーザーの反応は、おそらく庵野監督が今のユーザー達に感じている答えそのものだったのだろう。だからこその今回のエヴァなのだと思う。
エヴァンゲリヲンという作品は、常にエヴァという作品が止めてしまった各所の説明を進めてきた作品だった。
自閉的な部分から一歩踏み出したシンジ、アスカ、レイ。
ヒロイン達の支えを失い、カヲルという新たな支えを得たが、それすら怖くなり離れようとした場所に現れる冬月。
そして、今回の映画では人類補完計画、碇ゲンドウとシンジの関係、そして14歳で永遠に止まっていたシンジの時間。
これらはコンテンツとしてはまさにどんなに二次創作を繰り返し、ユーザーが針を進めようとしても、結局は初期に戻り繰り返し繰り返しやり直すしかない。
庵野自身が、エヴァという作り上げた絶対的な枠組みを広げない限り、永遠に抜け出せない繰り返しの世界でしかないのだ。
結果、庵野監督によりエヴァはありきたりなロボットアニメとしての枠組みの解放が図られ、各謎についても公式の回答という形で延々と続く考察厨というなの妄想とエヴァ囚われたユーザー達への終止符をうつことになったのが今回のエヴァなのだろう。
結果、14歳のまま時間を止められた多くの碇シンジ達も、大人になった周りの時間を見せられ、自身の時間を捉えてたコンテンツを進められることで、強制的に『現実』を見るしかなくなった。
監督自身がもう有象無象に群がるエヴァを神格化したユーザーと向き合う気力も、対話する気力もなくなり、分かりやすい餌と回答を与えることで『もう追ってこないでくれ』という意思表示のようも感じた。
かくして、映画エヴァンゲリヲンは伝説のアニメではなく、作画や演出が素晴らしいだけのロボットアニメに成り下り、ユーザーは自分たちの望む結末に湧いているのが現状である。
自身の内在的な問題や世界に対する部分から生まれた作品に対して、何十年も追いかけられ好き放題チープな解釈に落とし込まれ続ければ…そりゃ嫌にもなろうというものである。
個人的にはもう終始苦笑いで作品を見るしかなかった…。
なんにしても、お疲れ様でした庵野監督。
今回のエヴァで、アニメ社会に対する禊にしましょう。
ゆっくり休んで、DAICON FILMの頃からのように好きな作品を好きなように作ってください。
人気コンテンツに群がりたいだけの五月蝿いだけにわか達ばかりになったユーザー達の声も、あなたを神格化するばかりで新たな試みもまともにできない後輩達や業界にも、サブカルの未来に苦しむ日々も気にしなくていいのです。
見てくださいあなたの作った『エヴァンゲリオン』に対する絶賛の声達を。
もう、私たちが望むサブカル世界は変わってしまったのですから。
ありがとう
新劇をきっかけにはまってから、たまたまですがはや、14年。
シンジくんじゃないけど、自分も大人になったな。と思いながら見た2時間半でした。
ここまでの映像美、ストーリー展開。伏線回収。
待たされたなという気持ちと、描ききるの大変だったろうなという思いと。
とにかく、最後に言えるのはやっぱり。
ありがとうすべてのエヴァンゲリオン。
おわったね~
長かったシリーズも終劇となりましたね。
庵野監督が作りたかったモノなので、これで我々は納得するしかないのでしょう笑
文句はないです。
ゲンドウが途中から・・・ガンバスターに見えて・・・集中できなかった笑
最高に“エヴァ”でした
大学生の頃、夕方にやってたエヴァからもう26年…
あの頃の“世紀末感”から時代は移り変わり、26年におよぶエヴァのループを抜けて、“今を生きる”地点に着地しましたね。
自分も出産や子育てがあったので、あの頃からずいぶん変わりました。
昔のミサトさんの生き方や散り方もあの頃は好きだったし共感できたけれど、今のミサトさんが子供を産んでて、子供を想いながら突撃していくところに、「あぁ、やっぱりミサトさんだな…」と長年の友人の姿を見ているような気持ちになりました。
平塚の大学に通っていたから箱根は近く、わりとよく行くところでした。
そんなところからもこの作品は近しく感じていたのですが、今、山口県に住んで16年になります。
たまたま宇部に用事があったので、宇部の映画館で初日に鑑賞しました。
初日の2回目で、映画に関して誰も何も知らない状態。
ラスト、宇部新川駅が映し出されて、観客みんな「えっ?宇部新川じゃん…」という声にならないどよめき、このライブ感…
26年(つかず離れずですが)見続けてきたこの作品の最後に宇部新川が登場して、その宇部の町でこの映画を観ている今の自分の縁に感謝しました。
映画にも映し出された宇部興産本社前を通って帰り「いつも通ってたのに、この角を曲がったら宇部新川駅だとは知らなかったなぁ」などと思いつつ。
後日、地元下関で子供と一緒に観に行きましたが、宇部新川が出ることは知れ渡っているせいか、そして宇部ではなくて下関だからか、あの初日のライブ感は本当にあの時だけのもので、自分の中で宝物のような経験になりました。
映画は最高に“エヴァ”でした。もう、これ以上はないってくらいに“エヴァ”でした。
そして予想を良い意味で裏切られ、最高の着地点に着地したと思います。
26年間、どうもありがとう。
終劇
四半世紀に亘ったEVAの世界が、今回で本当に終劇となった。
賛否が出なければEVAでは無いので、今回も当然賛否は喧しいでしょう。
しかし、「EVAは庵野監督の私小説である」という意見に賛成なので、
この終わらせ方については、監督の意向を完全に受け入れたいと思い
肯定的にとらえています。
少なくともこんなにも長い間、気になり続けた作品は他にはない。
率直に感謝と称賛をささげます。さらばすべてのエヴァンゲリオン。
ここからネタバレ含みます。
採点はもちろん盲目的に5点でも良かったのですが、EVAを完全履修
していないと100%楽しめないので、マイナス0.5してしまいました。
TV版、旧劇場版、新劇場版、貞本EVA(公式のコミック版)これら
すべてを知らないと、理解できないシーンが多いと思います。
そしてこの決着は、貞本版EVAが一番近い感覚なのかな。
コミックはまだ見ていないという人がいたら、一読をお勧めします。
肝心の映画の中身ですが、長丁場も苦しくならない見事な出来でした。
映像、音楽、声優、すべてが最上質なものだったので満足。
序盤はサービス過剰なぐらい同窓会感が出ていて、観ていてとても
楽しかった。(トウジ、ヒカリ、ケンケン、ペンペン、加地クン)
中盤の怒涛の展開と迫力ある画づくりには圧倒されました。
そして終盤、庵野監督のオトシマエのつけ方に完全にやられました。
これほどのカオスに満ちた物語のラストメッセージの、なんと凡庸な
ことか。けれど四半世紀の苦悩の結論が凡庸であったことは、自分に
とってはかえって納得感がありました。
サブタイトルのTHRICE UPON A TIMEは3回目の世界? という意味ですかね。
もしかして世界がループしているのではなく、書き換えられているという
ことなのかと考えさせられる終盤でした。
観終わった後、元々のタイトルである新世紀(ネオンジェネシス)という
題名そのものを伏線回収するという大団円であったのだと好意的に解釈し、
納得して帰途しました。これで終劇なのですね。
長い永い青春が終わった感じがします。
ただ、「さようならは、またねのおまじない」と言ってたから、本当に
終劇なのかは、神(庵野)のみぞ知るって感じかな。笑
PS.個人的には、挿入歌にVOYAGERが使われたことが嬉しかった。
そしてイスカリオテのマリアには驚愕した 笑
Qで脱落した私が完結編という事で観てみた!
旧作からずっと観続けて『まごころを君に』で一回絶望。再構築した『序』『破』で再び希望を見いだして『Q』でまた絶望の私が完結編ということでケリをつけるため鑑賞!
今回1番鳥肌が立ったのは艦隊の戦闘シーン!!
だって!!だって!!!!!!!
子供の頃に夢中で観た特撮映画『惑星大戦争』の轟天のテーマが流れるんですもの!!!!
Σこのチョイス!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
例によってミサトさんとリツコさんの会話は何言ってるかよく分からないけど、そこはスルー!理解できる訳がない!
しかし、Qでぶっ飛ばした設定をよくぞ継続して終わりに持っていたと感心しました。
ゲンドウのダラダラシーンとか、やる気無しシンジくんのシーン、綾波の平和な日常シーンをコンパクトにすればもう少し短く出来たんじゃないかと思う。とにかく長い!!!!
でもまぁ、個人的には全然Qよりは良かったです。
エンドロールで今回は宇多田ヒカルのいつものあの歌じゃないのかぁ・・・とちょっと残念に思っていたら
it's Only Love〜
it's Only Love〜
からの!あのBGMが!!!!!!
これには嬉しかったので+0.5
2021/03/10
数年前に友達がアニメ版のDVDをくれたのをきっかけに、アニメ全話、旧劇場版、新劇場版と一応すべて見てきているけれど、それなりに成熟したオトナになってから観たのもあって、そこまでファンってわけではないです。
単純に、巨大なものが戦うのを見るのが好きなの。
観終わって、あー終わったんだなって感じ。
観客を振り回した挙句、アニメ版も旧も新もそれを見守ってきたファンも全部ひっくるめて抱きしめて、終わりを付けた庵野秀明に拍手。
とは言え、相変わらず意味分からん部分は意味わかんなかったです。笑
でも説明してくれてる部分はいつになく説明してくれて、それがちょっと意外だったり。
(ゲンドウ、しょーもなww)
カオスな映像や戦いにもわくわくした。
あと推しのマリが大活躍でうはうは。
あとシンジくん、成長おめでと。
エヴァの呪縛が終わり、そして救われた…
この物語は救われた…
というのが見終わった最初の感想
単体の作品としての細かいクオリティはこの際どうでもいいでしょう
今思えば エヴァンゲリオン というシリーズは、始まったその時からずっと 救われること を必要としていたような気がする。
それは シンジやミサト、ゲンドウ、レイ、アスカなどの、登場人物達の物語についてに止まらず、 エヴァンゲリオン という創作物そのものが 救われる ことを必要としていたんだ ということがこの映画を見るとよくわかる。
庵野秀明は恐らく エヴァ と言う物語を生み出してしまった事を後悔していた時期もあったんじゃなかろうか。この巨大な物語を制御できず、心を病み、それでも立ち向かい続け今日までやって来た。そして今作でようやく、エヴァが始まった事、そして終わることを受け入れて、ケリをつけることが出来たんだと思う。
(実際のところは知らんが自分は ようやく綺麗に折り合いをつけたんだな と感じた)
というか庵野秀明がエヴァンゲリオンという物語を通して抱えていたこの葛藤、これそのまんま 他者との関わりの中で傷つきながらそれでも全てを受け入れていく という シンジくんが歩む道そのまんまと言っても良いんじゃなかろうか。
だからこそシンジくん、つまり作り手が最後に下した結末はこう言う形だったんだと思うと納得がいく。
話の次元が急速にメタ領域に移行していくクライマックスは旧劇の作風の踏襲とも言えるが、最後は物語上の領域に話が戻ったのに対して今作は完全に こちら側 つまり エヴァンゲリオン という物語を外から見守る我々側の領域で着地する。
エヴァンゲリオンという物語もエヴァンゲリオンという物語を現実で見守って来た我々の物語も、ようやく今作で救われる。
というか、本当の意味で全てを救えるのはもはや観客だけなのかも…
とにかく、エヴァンゲリオン という巨大な物語そのものに お疲れ様でした… と声をかけたくなる一本なのは間違いない。
もしこれでもまだ またエヴァやりましょうよ! みたいな企画を立ち上げる奴がいたら俺が説教してやる笑
やれば儲かるかもしれないけど、もう勘弁してあげましょう
あとは、ニアサードインパクトを ニアサー って略すのはなんか面白かった。
お疲れ様でした!
難しいけど、最高だった
25年も重みを背負って見てきた訳では無いが、旧劇場版と新劇場版が繋がっていた考察があっていたことに感動した。カヲルくんが旧劇場版からずっと記憶をただ1人失っておらず、何回も何回もループしてシンジに出会うために生きてきた、もう1人の主人公だという考察を見て納得出来た。この作品のテーマは「愛」なのだなと感じた。相手に記憶がなくても何回ループしてもシンジの幸せを願い、それが自分の生きている存在意義と勘違いしてしまっている。ミサトさんと加持さんの関係の中で、ミサトさんが加持さんのことを父親と見置き、1回別れ、再開した後一人の人間として対等に、また交際を続ける、という関係性をシンジとカヲルくんでもあるのかなと思った。
物語のキーマンはアスカでもレイでもなく、マリとカヲルくん、という考察を見て、たしかに旧劇場版では登場しなかったマリがカセットテープの番号を進めていたことにも納得出来た。
ありがとう、エヴァンゲリオン
まず初めに。
このレビューは思い切りネタバレしているので、まだ映画観てない人は絶対に読まないでください。。。
さて、エヴァンゲリオンについて。
初めて観たのは1995年、当時まだ大学生1年生だった。
元々GAINAX時代から庵野監督の作品が好きで、新作は当然楽しみにしていた。結果、どハマりした。そして、当時の時代背景を反映してか日本では社会現象になり、「セカイ系」と呼ばれる自己の問題がこの世界と直結してしまうような奇妙なカテゴリを生み出し、その後に多くの連なる作品が生み出された。
(なお、厳密なセカイ系の定義があるかどうかは定かではないです)
エヴァは旧TV版から旧劇場版、そして新劇場版とすべて観てきた。結果として「25年」もの時間が経った。観終わった後の素直な感想は、内容がどうこうより、まずは「ようやく終わった・・」という感無量と言うか、万感の思いと言うか、なんと言うか・・・庵野監督含め、製作陣の方々に対する「お疲れさま」という感謝の言葉だけだった。
それが、このレビューのタイトルの「ありがとう、エヴァンゲリオン」。
一言何か言うとしたらこの言葉しかない。
まずは完結してくれたことに「ありがとう」と感謝を伝えたい。
で、内容に関してだが、回収できていない広げた風呂敷もあるとは思うが、概ね納得できた。
旧作と新作が物語としてどこまで繋がっているんだろう?と考えていたが、新作のストーリーはほぼ独立しているようで良かった。これが旧作と変につながってしまうと、却って訳がわからなくなってしまう。
Qでカオルが語った「縁(えん)」についても、旧作の設定ではまずトウジが出てこれないし、こんな爽やかな話にはならなかっただろう。トウジとヒカリの夫婦やケンスケ、そして綾波が体験した「当たり前の現実を生きる人々」を語ったストーリーは、セカイ系という奇妙な世界観に終止符を打った、とも言える。自己と世界の間には、当たり前のように他者が生きる「社会」があるのだから。
そして、旧作含めてエヴァの物語は、シンジの物語というよりゲンドウの物語だ。つまり、ゲンドウ自身の問題が解決しないと話が完結できない。今作ではそのゲンドウの内面(弱さや情けなさ)もしっかり描かれており、シンジ同様、「こいつ、ようやく大人になれたのね・・」という感じだった。自分が歳を重ねたことで、こいつは結局ユイが死んだ後で父親としての責任を放棄した、単なる無責任な男でしかない、ということがわかるのだが、その原因となる幼少期なども少し描かれていて結末にも納得できた。
ただ、おそらくだが、今作は元々庵野監督が考えていた結末とは違ったんじゃないか、とも思う。
Qの最後の予告で出てきた描写は今作で全く使われていないし、もっと破滅的な終わり方だったのかな?と感じる。最後は「愛」という結末は一緒だと思うけど。宇多田ヒカルの「桜流し」でもちゃんとそう歌われているし。
この辺りは、庵野監督の心境の変化、とかが影響しているのかしら?
GAINAXとの権利問題などでかなりゴタゴタがあったようだし、それでこれだけ今作の公開が遅れてしまった。その間に俗世間の醜さも十分体験しただろう。何となく、そういった心境の変化が、今作の結末に繋がったように思えてならない。まぁ、個人的には良い終わり方だと思うので、そうなって良かったのだが。
最後のシーンで現実の駅(中央線のどっか?)で終わるのも、現実に戻れ、というメッセージだろう。この作品の設定としても、おそらくアダムとリリスだけはどこかに残っているのだろうが、エヴァはすべて消滅し、使徒もおらず槍もないので、○○○インパクトは二度と起こらない。様々な辛いことがあるとしても、その辛い現実の上書きなんて逃げを打つのではなく、自分の弱さを自覚した上で、その現実をしっかり生きろ、というメッセージで終えることができたのは、本当の意味でエヴァが完結したんだな、と思う。レイとアスカを同じクローンシリーズにしてキャラとして成仏させたことも含めて。
納得の結末。
(・・まさか、シンジとマリがいい感じになるとは思ってなかったけど(笑))
最後にもう1度言いたい。
ありがとう、エヴァンゲリオン。
おめでとう
ちゃんと完結してよかったし、完結を見届けられてよかったというおまけの+0.5を加点。
とは言え、新作知り合いだけでなく約四半世紀の完結なのだから良くまとまっていたと思う。
ストーリー全て理解!とは至らなかったが、かつての観客そっちのけの???状態よりかはだいぶ優しく解説付きの展開でありがたかった。
元はゲンドウから始まったわけだから、そこが丁寧に描かれてたのがスッキリの一番の要因かもしれない。
なによりシンジの成長が素直に嬉しかった。
他人の優しさをちゃんと受けられる自分を認めて、自分のしたことにちゃんと向き合えるようになったのね。
幸せになってね。
と、もう気分は母=ユイでありミサトである。
現実の世界もこの10年で変わって、今も生きづらさや閉塞感に覆われてるわけだが、人にも自分にも優しく、前向きに生きようね。
受け取り方は人それぞれだが自分はそんなメッセージを感じた。
TVシリーズ26話のラスト、あの「おめでとう」だが、
本作を見たファンからシンジに向けてだけでなく、庵野監督への贈る言葉に繋がった気がする。
そして同時に「ありがとう」。
葛城艦長がカッコ良いい
良い点
葛城艦長がカッコ良くて素敵。
単身で突っ込む時も
シンジを庇った時も、
もう一度信じて決戦に送り出す時も
ミサトさんはめちゃカッコ良かった。てか泣いた。
今回はあくまでも
サブキャラクターが主軸の内容でしたね。
そのために主人公達をあの場所に
連れて来たのはなんとなく理解できた。
ペンペン大量発生アイツのツガイどっから来たんだ?。
悪い点挙げるとしたら
結構さらっとキャラクターに世界観
喋らせているので聞き漏らし厳禁。
まあアニメは基本キャラクターに
世界観やキーワード喋らせてなんぼですが…
ご都合主義なのかな?
なんかあの槍とか後付けで
思い付いたんかな?とか思いました。
入場者特典が製作陣の宿題?
ただ左上から右下に行く流れで
ワードについての話が出てくる
笑えたところはやはり
演劇みたいなもの的な
セットでビールちゃぶ台返しするところ
マリちゃんのエヴァに向けたときの
感謝の台詞でお前らにもいうんかいって思ったときと
絵コンテの宜しくお願いしますのサイン。
最後のユーフォテーブル。
あとリアル綾波さんのモデルはなんとなく
コスプレイヤーのえなこさんだと思っている。
あとなんかあのドリル
カリフラワーのロマネスコみたいだなぁと思いました。
あと碇ゲンドウの気持ちはなんか解る。
見る人を選ぶ映画 私には???
私は新劇場版しか見ていません。ので、この映画の言いたい事がよくわかりません。小学生、中学生の息子と見ましたが、qをつまらない映画だと思う方にはこの映画はお勧め出来ません。前半はqのつまらなさの回収、後半の戦闘シーンはそれなりに盛り上がりますが、落ちが•••。大の大人の私には難しい映画でした。最後に【ネタバレ注意】は意味不明??
終わらせてくれてありがとう。
結末に納得いかない人は絶対いる。
ただ、それよりもずっとつかえてたものがようやく取れた事の方が大きい。
どうなったかは想像に任せるチックだったけどきっとキャラクター達にとって良い結末だったと思う。なんかそれだけでいい。
これで少年時代の取り残しが終わったよ。
終わった事はわかった
Airで止まっていた長年のブランクを経て、アマプラで序破Qを鑑賞の後に映画館へ。
2割も理解する自信は無かったが、みないまま解説動画へすがることも許し難く足を運ぶ事にした。
序盤のほっこりタイムは、後にあっけなく潰される事を学んでいるわけで覚悟しながらも、ほっこりタイムを楽しむ。
冬月さんもぴしゃんこになったという事は、レイと同じく人間では無かったという事?
最後にシンジもマリも年を取っていたのは、エヴァの呪縛が解けたから?
ゲンドウの回想シーンにマリが登場してた?
そしてなぜミサトさんは、エヴァーと語尾を伸ばすのか?
これから若干のシンキングタイムを経て、解説動画へ向かおう。
全397件中、161~180件目を表示