桐島、部活やめるってよのレビュー・感想・評価
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片想いから、醒めるとき(塚本監督の「鉄男」が効いてます!)
観終わってもなお、(予想通り)謎は残る。ホラーではないので、桐島は出てこない。桐島とは、一体どんな人物?ということをさておいても。
バドミントン部のエースは、なぜチャラけた帰宅部と付き合っているのか。野球部に籍を置きつつ帰宅部とつるむ彼は、なぜ性格悪のケバい彼女と付き合っているのか。…いや、実は彼らは付き合っていないのかもしれない。交際はチャラ男とケバ子の思い込みに過ぎず、エースは「面倒だから」、(野球部)は踏み出せないから、だらだらと相手に合わせているだけ、なのかもしれない。
そこまで考え、はたと気づいた。彼らは皆、片想い=思い込みの壮大なループの中にいる。自分の望みはおおむね満たされている、特段の不満はない、…はず。そんな一見整った世界が、桐島の不在で歪み、崩れ始めた。
「自分は所詮、この程度」「私は、アイツらとは違う」「自分には、やるべきことがある」…。「〜にきまっている」「〜しなければならない」は、日々の迷いを減らしてくれるが、思考停止に繋がり、自分の行動範囲を狭めてしまう。(毎日着るものに悩まなくていい制服が、気楽ながら煩わしいのと似ている。)当たり前と思っていたあれこれは、本当にその通りなのか? 見たいものだけを見ていないか? 幻想が崩れ、傷を負うのを恐れず、今に疑問を持ち、見ないふりをやめることが、「一歩踏み出す」ことにつながる。…とはいえ、繰り返される日常の中でそこに辿り着くのは、なかなか容易ではない。
塚本晋也監督の「鉄男」の使い方が効いている。映画部の彼は、モール内のシネコンで思いがけない出会いをする。二人が観ていたのが「鉄男」、というだけでもニヤリだが、敢えてあのシーンを切り取るとは! そんな彼が傾倒するゾンビ映画が、白人社会のマイノリティー差別(迫害)を暗喩していたことは、いまや自明のこと。ゾンビや近未来SFの自主映画制作が、作り手の想いを映し出す点は、「虹の女神」を思い起こさせる。にしても、本作中映画のハイライトは凄みがある。ここに辿り着いてよかった、という気にさせてくれた。一方、前半で延々と繰り返される「金曜日」のリフレーミングは、少々くどい。群像劇を盛り上げるため必要とわかっていても、焦らすのを通り越し、物語が必要以上にもたつく気がした。切り取り方を工夫すれば、一、二回は減らせたのではないか、と今でも思う。
殺伐とした物語に、前に踏み出し続ける野球部部長の佇まいと、踏み出しかけた映画部の遠慮がちな笑顔が、一筋の風を吹き込んでくれる。カッコ悪いことは、かっこいい。文字にすると、とたんに野暮になるけれど。
【87.9】桐島、部活やめるってよ 映画レビュー
作品の完成度
本作の核心的な完成度は、不在の主題を巡るメタ構造と、時間の反復を用いた視覚的修辞の徹底にある。吉田大八監督は、朝井リョウの原作が持つ群像劇の形式を、単なる多視点ドラマではなく、「桐島が部活をやめた」という一つの事件を起点に、同一の金曜日から週末にかけての出来事を、登場人物の社会的階層(スクールカースト)に沿って何度も巻き戻し、再構築することで、緊張感のある不協和音として響かせた。この構造が、映画の主題である「誰かの不在が、他者の存在証明となる」という現代社会の普遍的なテーマを鮮烈に浮き彫りにする。映画は「桐島」という中心空洞を中心に回り続け、その空洞が逆に周囲の生徒たちの小さなヒエラルキー、焦燥、そしてカタルシスを増幅させる機能美を持つ。特に終盤、カーストの底辺に位置する前田と、頂点にいる宏樹といった少年たちが邂逅する屋上でのクライマックスは、日常と非日常が一瞬で交錯する劇的な瞬間であり、青春映画の枠を超えた普遍的な達成として評価されるべきである。第36回日本アカデミー賞最優秀作品賞をはじめ、国内の主要な映画賞を軒並み席巻した事実は、この作品が時代と批評の両方から、その完成度の高さを認められた揺るぎない証左である。
監督・演出・編集
吉田大八の演出は、徹底した客観性と抑制が効いている。彼は登場人物の内面に過度に深入りせず、あくまで彼らの行動や表情、そしてその物理的な配置を通して、高校という密室空間の「空気」を冷徹に切り取った。この「空気」を可視化したのが、日下部元孝による編集の妙である。同一の時間軸を反復し、視点を切り替えることで、個々のエピソードが単なる断片ではなく、一つの大きな社会構造の歯車であることを示す。特に、バドミントン部の面々と映画部の面々、あるいは吹奏楽部の沢島亜矢が、同じ空間にいながら完全に異なる世界を生きているという対比を、編集のリズムが効果的に強調している。演出面では、淡々とした会話の合間に訪れる、吹奏楽部の演奏や映画部の撮影といった「部活動」の非日常的な熱量が、凡庸な日常に一石を投じる瞬間の爆発力を巧みに引き出している。
キャスティング・役者の演技
本作のキャスティングは、その後の日本映画界を担う若手俳優陣の才能を的確に見抜き、彼らの持つ生の息吹を作品に焼き付けた点において、特筆に値する。彼らの瑞々しくも生々しい演技が、高校生の持つ多層的な感情をリアルに描き出し、作品のリアリティを根底から支えている。
• 神木隆之介(前田涼也 役)
本作の真の主人公であり、スクールカーストの底辺に位置する映画部部長という役柄を、神木隆之介は抑制された、しかし内面に熱い炎を秘めた見事な演技で体現した。彼は、自身が愛する映画作りという非日常の情熱と、クラス内のヒエラルキーの中で見下される日常の屈辱との間で揺れ動く、複雑な青年の葛藤を、細やかな表情と眼差し一つで表現する。彼の視点は常に下を向きがちでありながら、一度カメラのファインダーを覗くと一転して世界を支配する者としての鋭さを覗かせる。特に、カースト上位の人間に対する鬱積した感情を屋上で爆発させ、「桐島」という空虚な偶像から解放される終盤のシーンは、彼のキャリアにおける一つの転機となり得る程の凄絶なものであり、彼の持つ静的な存在感と動的な演技力の幅を改めて証明した。彼は単なる「オタク」の記号的な描写に留まらず、芸術を志す者の孤独と誇りを深く表現しきった点で、主演として極めて高い評価を受けるべきである。
• 橋本愛(東原かすみ 役)
バドミントン部に所属する東原かすみ役を演じた橋本愛は、カースト上位の目立つ女子グループの一員でありながら、常に周囲の空気を読み、一歩引いた位置から世界を観察する少女の繊細さを表現した。彼女はグループ内で唯一彼氏がいるという事実が、彼女の地位の強固さを示す一方で、グループ内での噂話やゴシップには加わらないという冷静さを保っている。彼女の演技は、感情を表に出すことをためらい、内側では確かな焦燥感と諦念を抱える現代の若者の肖像である。その寡黙な表情の中に、高校生活における様々な諦めと小さな希望を宿しており、抑制された演技が観客に強い共感を呼んだ。
• 大後寿々花(沢島亜矢 役)
吹奏楽部に所属し、部長を務める沢島亜矢役を演じた大後寿々花は、カースト上位にいる宏樹への秘めたる純粋な恋心に苦しむ、学校内の「その他大勢」の側の心情を見事に表現した。彼女は、授業中に前の席の宏樹を見つめたり、放課後に彼の姿を見るために屋上で個人練習をするなど、報われない片思いの切実さを、内向的でありながらも部活ではリーダーシップを発揮するという二面性を持つ役柄に深く反映させた。彼女の持つ静かな眼差しと、テナーサックス(劇中ではアルトサックス)を吹く真剣な横顔が、カーストという壁によって隔てられた青春の純粋な憧れと、現実の諦念を象徴的に描き出している。
• 東出昌大(菊池宏樹 役)
本作が本格的な俳優デビュー作となった東出昌大は、桐島の親友であり、クラスの人気者である菊池宏樹という難しい役柄を、持ち前の端正な容姿と、内に秘めた虚無感を漂わせる演技で演じきった。彼は、カーストの頂点にいながら、その地位に何の執着も興味もなく、むしろ自らが属する世界に対する違和感を常に抱えている。その存在の曖昧さ、何者でもないという焦燥感を、常に伏し目がちでどこか投げやりな態度で表現し、観客に「見えない苦悩」を想像させる余地を与えた。
• 山本美月(飯田梨紗 役)
クレジットの最後の方に登場する主要な助演者として、山本美月が演じた飯田梨紗は、宏樹の彼女であり、クラスのカースト制度において女王のような存在である。彼女は、その美貌と地位によって常に周囲の羨望を集めるが、その裏側で、自分たちの地位や関係性が「桐島」という中心的存在に依存していることへの不安と、その中心が揺らいだことによる苛立ちを体現する。山本は、表面的な華やかさと内面の脆さとのギャップを、瞬間の表情や、宏樹との会話におけるプライドの高さで鮮明に描き出した。
脚本・ストーリー
脚本(喜安浩平、吉田大八)は、原作小説の優れた構成を活かしつつ、映画的な表現に昇華させた点が成功の鍵である。「桐島が部活をやめる」という出来事そのものではなく、その「出来事の余波」を主軸に据えることで、日本の高校社会における「スクールカースト」という不可視の権力構造を、ドキュメンタリータッチで暴き出す。ストーリーは、誰もが経験したであろう、部活や友情、恋愛といった日常の小さな事象が、実は見えない階層と密接に結びついているという残酷な現実を突きつける。物語が進むにつれて、カーストの上下が逆転するような劇的な展開はなく、それぞれのキャラクターが抱える焦燥感や諦念が静かに積み重なっていく手法が、主題の普遍性を高めている。
映像・美術衣装
本作の映像は、高校という閉鎖空間の生々しい熱気を帯びている。美術は、誰もが知る一般的な日本の高校の教室、体育館、部室を徹底してリアルに再現し、過剰な装飾を排することで、一種のドキュメンタリー的な緊張感を生み出している。これは、登場人物たちが日常的に生活する空間のリアリティを担保し、彼らの感情の揺れ動きを際立たせる効果がある。衣装に関しても、着崩された制服や、部活動のジャージ、そしてカースト上位者の持つブランド品など、それぞれの所属や地位を示す記号として機能しており、美術と一体となって物語の背景構造を構築している。
音楽
本作は主題歌を設けず、高橋優の「陽はまた昇る」がエンディングテーマとして使用された。劇中においては、吹奏楽部の練習風景や、映画部の撮影シーンで流れる「七人の侍のテーマ」が印象的である。特に「七人の侍のテーマ」は、映画部の前田涼也たちにとっての「闘い」を象徴する音楽として機能し、彼らが抱く「非日常への憧憬」と「現実への挑戦」を鼓舞する。静かな日常の描写が多い分、劇中の音楽は、生徒たちの内に秘めたエネルギーや、抑圧された情熱を代弁するかのように響きわたり、作品の emotional arc を下支えする。
受賞歴
本作は、その革新的な構造と完成度の高さから、国内の主要な映画賞を席巻した。特に、第36回日本アカデミー賞では、最優秀作品賞、最優秀監督賞(吉田大八)、最優秀編集賞(日下部元孝)の三冠を含む複数の賞を受賞した。また、第86回キネマ旬報ベスト・テンにおいても日本映画ベスト・ワンおよび監督賞に選出されるなど、批評家からも高い評価を獲得し、2012年の日本映画界における最重要作品の一つとしての地位を確立している。
作品[The Kirishima Thing]
主演
評価対象: 神木隆之介
適用評価点: A9
助演
評価対象: 橋本愛、大後寿々花、東出昌大、山本美月
適用評価点: A9
脚本・ストーリー
評価対象: 喜安浩平、吉田大八
適用評価点: A9
撮影・映像
評価対象: 近藤龍人
適用評価点: B8
美術・衣装
評価対象: 樫山智恵子
適用評価点: B8
音楽
評価対象: 近藤達郎
適用評価点: B8
編集(減点)
評価対象: 日下部元孝
適用評価点: -0
監督(最終評価)
評価対象: 吉田大八
総合スコア:[87.945]
虚無と自己実現
高校生活3年間を思い出しましたね。
3年間組み替えが無くて、同じメンバー。
今、21人の顔と名前を思い出せた。
「桐島、部活やめたんだって」は朝井リョウのデビュー小説で、
原作は登場人物のモノローグで描かれている。
それを吉田大八監督は全く別の全体から見た個々のキャラクターの
行動を俯瞰で描いて、ラストで生徒たちはパニックになり、
爆発している。
桐島というバレー部のキャプテンで、みんなからの憧れを一身に
集めている青年が部活を辞めて、連絡が取れなくなる金曜日から
火曜日までの物語。
はじめは単なる不登校で、「部活を辞める」という意思表示は
あったたらしい。
みんな喪失感に駆られ、全体のヒエラルキーが変化していく。
桐島のカノジヨのリサ(山本美月)は完全にすっぽかされ、
親友と思われていたヒロキ(東出昌大)には、一言の連絡もなく、
電話も全く繋がらなない。
そして前田(神木隆之介)という映画部のリーダー的存在の、彼が
クローズアップされて行く。
前田はゾンビ映画の脚本と監督で、学校の屋上で撮影は同時進行して行く。
それはちょくちょく部活の運動部のメンバーの侵入で邪魔される。
一番動揺するのは部活スポーツ系のメンバー。
試合は進み、スターの桐島は行方不明だ。
親友のヒロキも桐島同様に虚無に取り憑かれているのだ。
ヒロキも傍目からみれば、野球が優れているのに部活から逃げ、
女にもモテるし見た目もカッコイイ。
桐島もヒロキもそこに価値を見出せず、何も好きなことが見つけられない。
前田や吹奏楽部のアヤのように、道を見つけた者は幸せだ。
好きなことがあれば自己実現できる。たとえヘタの横好きでも
誰から評価さなくても、《楽しくは生きられる》
ラストでは【ゾンビ映画】は佳境に入り、ラストでは前田は自分の憧れの
カスミ(橋本愛)を喰い殺してしまう。
そして吹奏楽部の【ローエングリン】の演奏は華々しく盛り上がり、
ヒロキはやっと掛かってきた桐島の電話を無視して、答えることなく
携帯の蓋を閉じてしまう。
そしてエンディング局曲「陽はまた昇る」が激しくシャウトして
終わるのだった。
何回見返しても面白い
高校生の話
解像度の高い青春を味わえる作品
ロメロの思い
その時はそれが1番の楽しみで1番の熱中することで1番の悩み事で1番の負担でもあったな
人生を左右する入り口は何通りかあるのだと思う
その一つに部活があるのではないだろうか
幻のようなプロへの夢を無理だと思っていても追いかけたり
まだ本気を出してもいないのに始めから叶わぬと思ってたり
引きずりながら生涯生きていく奴もいる
夢はいくつになっても追いかけていいのだと思う
ようは本人が本気で追いかけるかどうかなのだろう
弱腰になりやる前から出来ない理由をこじつけて何ひとつ乗り越えようとしない
たぶんほとんどの人がそんな感じなんだと思う
確かにヒーローになりたいとか魔法使いになりたいとかみたいに実際には無理なのもあるけど近づくことは出来るんじゃないかな
だって誰にだってサンタにはなることが出来るんだから
今見ているこの世界が現実なら、私達はこの現実の世界で生きていくしかない
だったら生きてやろうじゃないか、なまくらしたってせっせと励んだってどっちだっていい
出来れば人の邪魔はせぬようにそうして生きていこうじゃないか
氣になること、あるんだ
ウンコ発言とか、接吻とか、内臓が飛び出したり首から血が飛び散るシーンがあるので大人向け。
桐島が学校の中で、おそらくピラミッドの頂点なのでしょう。段々明らかになると思いきや、桐島についての言及が伏線だとすれば回収しない。一瞬、屋上にいたのは、見間違いだったのかどうか氣になる。
しかし、桐島だけが重要というわけではなくて、生徒みんなひとりひとりが、それぞれ各々の思いがあって、なかなか感動的にまとめていて良かった。
クライマックスのゾンビが生徒たちを襲うシーンも面白い。
『鉄男』(1989年公開)を映画館で観ているシーンがあるということは、今作の時代設定は古いということなのか、リバイバル上映なのかも氣になるので、もし再視聴する際は確認したい。というか、再視聴するのが楽しみとも言える。ちなみにタランティーノ(多分クエンティン・ジェローム・タランティーノのことだと思う)の作品は、私も結構好き。
俺達はこの世界で生きていかねばならない
WOWOW放送録画で超久しぶりに観た
これも海に眠るダイヤモンド効果かな
上演当時は桐島を連呼するせいか桐島は誰がやってるのかが気になってしまい、最後まで姿を現さない桐島にツッコミ入れてた記憶です
改めて観ると同じ時間をそれぞれの目線で観せてくれる面白い構造の秀逸な青春群像劇ですよね
神木君が主役にはなってますが、それぞれのキャラがちゃんと成長したりしなかったりの時間をきっちりとキャラ目線を使って光を当ててる魅せ方が良いですね
最終的に神木君演じる映画部前田くんの台詞が映画をきっちり締めてくれる高校生のリアルな日常
「戦おう、ここが俺たちの世界だ、俺達はこの世界で生きていかなければならないんだから」
学生時代から存在する日本のヒエラルキーの中で生きているのは高校生だけじゃない
人に合わせて白を黒と言う世界
何かに夢中になって一生懸命にやる事がカッコ悪いムードの漂う仲間の世界に漂う東出君
夕陽を背負って小さい喜びを語る映画部の神木監督の真のカッコ良さ
見た目のカッコ良さを褒められたって俺には何も熱い物がないって涙を流して見つめるエンディングの野球部
なんて素晴らしい青春映画
高校生じゃなくても一人でやりたい事をやる人生を生きる勇気をくれますね
高校生活疑似体験
自分の大事な物は守らないとね。
前から気になっていたので観てみたが驚きました。タイトルの桐島は出てこないのね。
この映画で大人は皆,中高生時代に存在する独特なヒエラルキーを思い出すだろう。自分がどの辺りにいたかも今なら冷静に見えてしまう。そして登場人物それぞれに,こういうヤツいたなと思ってしまった。
それほど見事にあの世界を描いたことに驚きました。
そして主役はヒエラルキーの中でも下層にいるかと思われる映画オタクの少年。神木君が演じると下層には見えないものの、彼にも自分の大事な世界があって、それを守るために戦うのだ。がんばれ👍と思わずエールを送りたくなった。
その時はその世界が全てだったなぁと今は思う。何十年後かにそういう気持ちになるよって教えてあげたら生きやすくなるのか,つまらなくなるのかどっちだろうと思った。
【群像劇の皮を被ったナイフ】
この映画を見て、鑑賞者が「わかる」と言ったり「わからない」と言ったり。そんな短絡的な尺度で語っていい物ではない。
そんな尺度でこの映画を評価するのは、映画の題材の一つである『持っている奴、持っていない奴』のような、スクールカースト的な分け方になってしまう。
僕は胸を張ってこの映画は「よく分からない」と言おう。
僕の事を「凡庸な感性だ」と言われようが、煮え切らぬようなラストを虚栄心を持ち寄って「わかる」等と言いたくはない。
↑ここまでは本編とは関係の無い感想↑
いや〜、とても痺れました。と言うか、刺さって痛かったです。登場人物の青青しさにグサグサと刺されまくった感覚です。
よくこのような題材の映画には、「リアリティのある」みたいな感想を付けられがちですが、ここまでリアリティのある学園映画見たことありませんよ!
分かりやすい虐めは起こらないし、かと言って目立たない子達に目立つ子達が優しくする訳でもない。一人凄い嫌な奴がいる訳でもなく、主人公が惨い嫌がらせを受ける事も無い。
一人一人自分の畑を耕しながら、他人の畑の進捗をチラチラと睨み合っているような、とてもリアリティのある学校ヒューマンドラマだったと思います。
そして、映画全体について言えば、完成度の高い映画だったと思います。作中でも名前が出て来ましたが、この映画は『タランティーノ監督』の作品に少し影響を受けているのかな?と想像しました。
序盤から中盤にかけて、登場人物の個性や心情、一人一人の関係性を丁寧に描き上げ、それを無かったかのようにラストでハチャメチャに犯しまくる。
そんな傍若無人的な燃え上がる本作のラストシーンは、思わず口に手を当ててしまうくらい、熱狂、感動致しました。
そして、最後は菊池が桐島に繋がらない電話をかけ、耳に携帯を当てながら野球部が躍動するグラウンドを眺める。という、何とも意味ありげな終わり方をしましたが、僕の凡庸な感性ではどうにも納得する正解を導けなかったです。
が、そのまま突っ伏すのでは無く、有識者の方々の考察や意見に目を通させて頂いたところ、一つの個人的な正解を妄想できたような気がします。
桐島は映画に登場しないのでは無く、そもそもキリシマなんて人間は居ないのだと。
非常にメタ的な思考になってしまいますが、もしかしたらキリシマはこの映画にとって、一つの「イメージ像」に過ぎないのでは無いでしょうか。
部活、恋愛、これからの人生に魂を震わせる彼ら、多くの学生達が必死に追い求め続けるキリシマ。
彼らの中でのフワッとした、何らかの雲のような光であるキリシマ。全員が全員、見た事の無いキリシマを目指し続ける。
本作を鑑賞中、「桐島ってめっちゃ人気なんだな〜」等と呑気に考えていましたが、もしかしたら、我々鑑賞者も学生の頃に抱えていた鬱屈とした感情を、何かで綺麗さっぱり流し落としたい。と考えていたはずです。
それを叶えてくれるのがキリシマ。皆の神の様な存在。
まぁ自分でもパッとしないと感じる答えではありますが、僕が想像しえる範疇ではこれが限界です。
映画のメタ的な存在であるキリシマは、学生時代の皆さんの心の中にも居たのではないでしょうか。
何度観ても青春群像劇としては突出した大傑作ですね。
できる者は出来るし出来ない者は出来ない
こういう作品は映画好きにはたまりませんね
賞をとったのも納得です
原作もいいし、映画化も上手い
その後の作品はみんな不満がありますが、この作品に限れば秀作です
青春の諸々がシリアスに描かれている
主役は神木隆之介となってるけれど、原作同様、東出昌大が主役ですよね
彼が神木隆之介の生き様にショックを受けて泣くんですが、人生に正解なんてない
将来への期待もあれば不安もある
それぞれが悩んだり、開き直ったりしながら時は過ぎていく
まあ、生きやすいコツとかはあるだろうけれど、人それぞれですよね
ただ、結局は「できる者は出来るし出来ない者は出来ない。」
これは真理です
東出がこの真理に疑いを持ってしまったのは、若いから
今は不安が勝っているけれど、彼はできる人間で、いずれ、それなりになっていく
というか、すでに恋愛の面では充実しているし、神木は想う人とは一緒になれない出来ない者
目指す物のレベルが違うんだ
出来る者にとって、恋愛なんて息をするように当たり前の物
出来ない者には、人生の一大事なのにね
だから、できる奴らの目標は恋愛じゃないけど、出来ない者にとって、恋愛こそが青春の大部分で、望むのに届かないものだったりするんですよ
そして今回痛感したのは、高校生活でリア充のやつらって、身体が大きいんですよ
神木ら映画研の連中が小さいのに比べらと、あきらかに体格差がある
この典型的な描写は胸に刺さった
ギリシャ時代、貴族は筋肉隆々で、奴隷達は貧相だった
十分な栄養と、時間が余裕があるので鍛錬できた貴族と奴隷の格差のような劣等感
生物的な劣等感を持つんですよ
リア充達への羨望の感情に悲しくなった
まあ映画研の連中は、それなりにアオハルを楽しんでいただけ偉いよ
不登校だった僕に比べれば、十分リア充
ある意味、黒歴史をなぞるようで、イラつきながらも、ただただ羨ましかった
変わったタイトルに惹かれて鑑賞
才能がなくても努力したり、
成就しなくても懸命に恋をしたり、
周りに流されずに自分のやりたい事に熱中したり、
一方では、何でもよくできるのに、何に対しても熱中できず、虚無感に襲われたり...
学園のスーパースター桐島くんが姿を消す事をめぐって起こるそれぞれの生活の変化や心情や人間関係を追った話で、まぁまぁおもしろかった。
映画部の男子2人がかわいい。
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