ニーチェの馬 : 映画評論・批評
2012年2月7日更新
2012年2月11日よりシアター・イメージフォーラムほかにてロードショー
ミニマムな反復によって表現される<世界の終末>
シンプルをきわめた食事。娘はただジャガイモを2つ茹でるだけだ。茹でたてを無造作にテーブルのお皿に取り分ける、父の分と自分のと。大ぶり小ぶりの多少の差はあれど、取り分けに繊細は不要だ。片腕が不自由な父は左手で熱々のジャガイモの皮を火傷に留意しながら素早く剥き、ぎゅっとつぶし細かくしてほおばる。何度もくりかえされる食事の場面だが、テーブル上にあるのはただただジャガイモ。ジャガイモがいかに生存素材として優れているか、ポニー・テールの髪型、細やかな指先があまりにもかっこいいタル・ベーラ監督は最後に伝えたかったのだ。この世が闇に包まれ、すべての光が消え失せようとも、とりあえず何かお腹にぶち込め、と。
それにしても、ニーチェの馬という発想がすばらしい。精神バランスを崩し善悪どころか生存の彼岸に接近していたニーチェが最後に目撃し涙した、街角で鞭打たれていた馬のその後の運命は? タル・ベーラはその事実に<憑依>し、キャメラの目となって馬を追い、飼い主の父と娘の日常を恬淡と記録する。身繕いと食事と井戸の水汲み……。タル・ベーラの憑依に付属してきた更なるビジョンが<世界の終末>であった。父と娘が住む農家の外はまさにSF作家J・G・バラードの描くような<狂風>が吹き荒れ、止む気配はない。馬ももはや食事も拒否し静かにたたずんでいる。この駄馬がいい。
ビーグ・ミハーイの音楽ともどもミニマムな反復世界にもかかわらず圧倒され続けるわけだが、何をさておいてもまずジャガイモだ。
(滝本誠)