中学2年、
サルトルの「嘔吐」を読み耽った。
こんなにも僕と同じ感覚を持つ人間が世の中のどこかにいたことに、感激と驚きで胸が踊った。
父親の本棚で見つけた嘔吐だが、冒頭の一文が45年を経てもこんなにすらせら出てくるほどだ(笑)
「例えばパイプを掴むとかフォークを握るとかの方法がある。あるいは、しかし今、パイプがある一種の握らせかたをするというべきかもしれない。先ほど自分の部屋に入ろうとした時、私は急に立ち止まった。それは何か冷たい物が私の手の中にあって、個性的なものをもって私の注意を促したのを感じたからだった。私は手を開いて、そして眺めた。私は全く単にドアの取っ手を握っていたに過ぎない」・・・
無であり続ける事も、嘔吐や下痢で自己の體躯と対話する事も、そして成りゆきで他者と同じ空間に生きる事も、全てが自由で全てが自分の思いのままなのだと気付かせてもらえてどれだけあの日の僕は救われた事か。
で、映画。
実存主義者はどうしても対話よりも自問・自省に思考の重心が傾くのだろう。ボーボワールをばサルトルは自分自身のようには愛せなかった。サルトルにとってはボーボワールは他の女同様、例外なき絶対他者存在なのだ。
「結婚」が相手対象の所有・独占とこちら側の価値観の押し付けであるならその“完成”などと言うものはお互いにとって幻影でしかないと思うし、結婚は自由意志及び双方の契約と感情の配分を経ての同居行為だと自認する僕にとっては、実にこのディスタンス感がしっくりくる映画だった。
以上ここまではサルトルシンパの男としての僕の感想だが、ボーボワールは読んでいないので何とも評し難いが意外なほど普通の女の姿として描かれていた彼女には拍子抜けした。
彼女は「第二の性」になりたいのか、なりたくないのか。さっぱり分からなかった。
シモーヌへの掘り下げがはしょり過ぎ。
これは監督が男だと致し方ないのか。
このシモーヌ像では、正直がっかりなんだけど。
むしろ、ぐずぐずしているシモーヌよりもお母さんの変化のほうが劇的で面白いという結末・・
はっきりしたのはこの二人にはやはり「友情と恋愛は両立しない」ということ。
“妻”としては満たされていないシモーヌではあったが、ひとつ部屋で執筆中のふたりが目を合わせてお互いにニヤリとしたあのシーン、良かった。カップルとしての最高到達点のシーンだ。
サルトルとボーボワールは間違いなくかけがえのない友達だったのだ。
映画全体が
重苦しくならないのは終始鳴り続ける軽妙なジャズのせい。
美しいのは衣装と美術のおかげ。
そして尺が良いのは老害の域に達する前に物語をカットして墓地シーンへのワープで話を切り上げているから。
娯楽作品だな。
でも、早口で喋る彼らの字幕を追うのは大変だった(笑)
自己中の筆頭はサルトルやデカルト。
他己中の親分はシモーヌ・ヴェイユとか?
突出する彼らは壊れている。
だからこそ彼らは面白い。
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