汽車はふたたび故郷へ : 映画評論・批評
2012年2月14日更新
2023年3月2日よりヒューマントラストシネマ有楽町、シアター・イメージフォーラムにてロードショー
<故郷喪失者>の深い詠嘆がうっすらと透かし彫りに
旧ソ連グルジア出身の若い映画監督が厳しい検閲を逃れ、パリを拠点に映画作りに励む。あたかもジャック・タチが描くロバート・アルトマン風の群像劇のように、数多の登場人物があらゆる階層、国籍の違いを超えて、恋に、酒に酔い痴れ、生の充足を謳歌するノンシャランな作風で知られるオタール・イオセリアーニの新作は、一見、甘美なノスタルジアに満ちた自伝的回想のようだ。
しかし、自らの実人生を映画作りを通して再現するという<入れ子風>の構造を採用し、数多の戯画化された自伝的エピソードをちりばめながらも、ここには「8 1/2」の深刻さも、「アメリカの夜」の歓喜もない。イオセリアーニは、興行収入が至上の価値である苛酷な資本主義の現実と、表現の自由が極端に制限された共産主義社会の間を往還しつつ途方に暮れる主人公を皮肉たっぷりに眺めるが、声高な批判などは一切しない。ただ、何度も挿入される少年時代に親友たちと列車に乗った時の光景、そして、彼が高層ビルが林立する現在のグルジアの景観を前に佇む姿が対比される時、もはや、世界中に自分が戻るべき場所はないのだという<故郷喪失者>の深い詠嘆がうっすらと透かし彫りにされるのだ。
ラスト、河畔でのピクニックで謎の人魚とともに主人公が水中深く消えていくすっとぼけたユーモアには笑ってしまったが、全篇に漂う、得もいわれぬ悲哀感とメランコリーはこれまでのイオセリアーニにはなかったものである。過去の自分をアイロニカルに対象化することで、この孤高の映画作家は次なるステージに向かおうとしているかもしれない。
(高崎俊夫)