「人間の尊厳 ヘールシャルムでの思い出」わたしを離さないで レントさんの映画レビュー(感想・評価)
人間の尊厳 ヘールシャルムでの思い出
残酷な運命に翻弄されながらもその命尽きるまで精一杯生きた人々の物語。それは人間の歴史の物語でもある。
全寮制学校のヘールシャルム、そこは特別な子供たちを育成するために作られた学校だった。まるでえりすぐりのエリートを育成するかのような教育方針、生徒の健康面は精神面と共に完全管理されていた。すべては彼らが将来担うであろう重要な使命を成し遂げるために。
彼らは人間に移植する臓器のために育てられたクローンだった。病を克服するために人類が到達した究極の医療技術が彼らを生み出した。
彼らはその使命をあらかじめ知らされて育てられる。将来「提供者」としての崇高な任務を担う存在なのだと。
それは巧妙に普段の学科を学ぶことと同じようにさりげなく彼らの頭に刷り込まれた。味の変化に気づかないくらいの少量の薬を日々の食事に混ぜるように、そしてその効果が知らず知らずのうちに効き目を発揮するように。
すべては健康な臓器のためにそれは行われた。彼らが育つまで健康な心身が維持されなければならない。無用なストレスを与えることで身体に悪影響を与えてはならない。事実を知らさずに育てるのではなく自分たちに使命があることを自ら納得させて受け入れさせる。そうすればその時になってうろたえることもなくまた逃げ出すこともない。彼らを常時監視する必要もない。彼らを精神的に支配し管理さえしていればすべてがスムーズに事が運ぶ。提供の時を迎えるまで。
彼らはその作られた目的をのぞけば人間と何ら変わらなかった。科学的に人間と寸分変わらぬ存在。しかしその残酷な運命を生まれたときから背負わされた存在でもあった。
科学の進歩により病を克服できるようになった人類だが、それは人間と同じ彼らクローンたちのいわゆる人権を侵害する行為でもあった。しかし人権尊重という理由で一度手に入れた果実を手放すことはできない。人間たちは悩んだ。悩んだ末に出した答えが魂の存在だった。
たとえ科学的に人間と同じ存在であろうとも人間が作り出した彼らはただの実験動物に過ぎない、彼らに魂などあるはずもない。かつて黒人奴隷に魂がないとされたように人間は自分たちをそう納得させた。そして自分たちの利益のために残酷な行為を正当化した。
かつてナチスがしたように残酷な行為から目を背けるためその提供者の介護までも彼らクローンに委ねることで彼ら人間は自分たちの心を防衛した。
彼らクローンたちは提供ができるまでに成長した段階でこの残酷な運命をすでに受け入れていた。それはお国のために命を捧げることもいとわない学徒兵たちのように。彼らの中には逃げるという選択肢はなかった。
ただ彼らはその残酷な運命の下でも人間として最後まで望みを捨てなかった。魂があると証明できたなら、人間同様愛情を持っていることが証明できたなら提供まで猶予期間がもらえる。その猶予の間だけでも人生を謳歌できるとかすかな希望を抱いていた。
そんな彼らの一縷の希望はもろくも打ち砕かれる。そんなものはただのうわさでしかなかった。彼らはなぜそんな根も葉もないことを信じたのだろうか。
けして逃れられない運命の下においても希望を持ち続けていたい、そんな彼らの願望が作り出した幻想。どんな状況に置かれても最後まで希望を持ち続けようという彼らの姿こそ人間そのものの姿でもあった。
かつて残酷な運命にさらされても最後まで希望を捨てずに生きた人々。特攻を前に自分の逃れられない運命を受け入れながらも郷里を想い母を想い続けた学徒兵たち、収容所に入れられいつ殺されるかもしれない中でも最後まで望みを捨てなかったユダヤ人たち、たとえ残酷な運命が彼らの命を奪い去ろうとしても彼らの抱いた希望や思い出だけは奪えない。クローンたちの臓器を奪えても彼らの希望や思い出を奪えないように。
ヘールシャルムでの思い出が彼らの心の支えとなっていた。ヘールシャルムでの生活は彼らがこの世に生を受けて人間らしく生きた証でもあった。彼らはそこで普通の子供のように学び笑い泣き怒り悲しみそして恋をした。そして宝箱に詰めた思い出はその後の彼らの支えとなった。
提供を終えて使命を終えた彼らの思い出が、彼らの忘れ去られた思い出が集まるところにキャッシーは佇む。
そこは風に流されてすべての思い出がたどり着く場所。彼女はそこでひとり思い出に耽る。そんな彼女の前に現れるのは恋しい人の姿。
彼らはその思い出を胸に抱き最後の時を迎えるまで生きてゆく。限りある命を。それは彼らクローンであろうが人間であろうが同じであった。
彼らが生きた証、様々な思い出が宿るその場所は彼らの魂が宿る場所なのかもしれない。過去の様々な出来事に思いをはせる、そんな人間のいとなみをなさしめるのが魂というのならその魂はけして奪うことはできない。人間の尊厳はけして奪うことはできない。
今回原作を初めて読んで映画を見直し、初見時以上に本作の内容が深く理解できた。原作ではヘールシャルムの存在理由が明らかにされていてある意味映画よりも残酷だが、さすがカズオ・イシグロの原作だけに人間存在への深い洞察が見受けられる素晴らしい作品。一度読まれることをお勧めしたい。