わたしを離さないでのレビュー・感想・評価
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魂の有無と愛の証明ですか
原作は未読。古典SFかと思えば、最近の小説なんだってね。
原作の雰囲気というのものを守ろう、守ろうという作りがすっごい感じ、序盤はいい雰囲気だなあ、と観てた。
だけれど主人公3人の年少時代、青年時代の取り巻く環境がどう考えてもおかしく、こりゃいかんなあ、と思いだした。
なぜ彼らに教育を行う?なぜ彼らにカフェでの注文の仕方を教える?なぜコテージで生活できる?なぜエロ本が手に入る?なぜセックスできる?なぜオリジナルに会いに行こうと出来る?なぜ彼ら自身が介護人になれる?なぜ運転できる?なぜ逃げない?
後半一部その理由が説明される。
そもそも施設は「クローンの味方」であり、「施設」はクローンに魂があることを実証する場であることが分かる。
ところがそれを実証する施設も要らないだろう、となり閉鎖されたのであろう。
映画ではありがちの「クローンの魂」より「オリジナルの命」。
結果的には、養豚場のような施設であるべきだったのに、モラルが引き起こした悲劇が生まれる。
後半、魂の有無と愛の証明ができれば提供延長できるという、うわさを信じその懇願をするが、それは噂でしかないことがわかる。
しかし主人公たちは提供延期できないことを意外と素直に受け止める。
彼らのそんな反応は施設の強制教育によるもの、というよりも、そもそも本能的に逆らうという意識をもっていないのかもしれない。
このシーンはそれを絵画などで証明できると考えている彼らがなんとも悲しくみえるのと同時に「彼らは普通ではない」ことを表している。
魂の有無と愛の証明かよ~~。クローンでなくても出来んな。
彼らが逃げ出さないのも、「リスト」があるため、とか施設の教育で「逃げると言う選択肢」を失われているということよりも、あれほど生活に自由度がありすぎるので、やはり彼らは基本「逆らわない存在」と考えるのが普通であろう。
彼らは死を恐れたわけでもない。
ましてや存在意義を示したかったわけでもないし、なにかになりたかった訳では全く無い。
彼らはただ「全うすることが目的」だった。
人間だとそうするであろうことが出来ない「逆らわない存在」。
キャシーはそこに気づき、普通の人間といったい何が違うのか、自問することになる。
ラストのトミーが「オチ」たと瞬時に手術に入る手際のよさがなんとも言いがたい余韻を残す。
3人の主人公いいね。個人的にはナイトレイ。
蛇足
でもやっぱりオリジナルを見に行こうとしたり、クローンがエロ本読めたり、セックスできるのはまずいんじゃ?
何故 抗う者を描かなかったのだろう
どうしても そこが気になる。
抵抗したり、逃げようとしたり。
手首に入ったチップで追跡されるならば、壊そうと試みたり切断まで考える若者が何故か出てこない。
命の終わりを他人から操作される原作は読んでいない。
運命として受け入れるか?自身の芸術的価値で延命を試みるか?は一部賛同出来るが、主要人物でもっともっと生に執着する人物が出て来て欲しかった。
それは原作がそうだからだろう。
仕方ない。
就職して社会に貢献している姿を見せるなら尚更そう思う。
あまりにも悍(おぞ)ましいシステム
<映画のことば>
執拗な破壊工作と戦うのは、容易ではありません。私たちを排除しようとする勢力です。
進歩的な考え方を排除しようとするのは、人間の常。
彼らは根拠のない価値観と、固定観念を尊ぶのてす。
キャシーやトミーや、そして、ニーナのような、臓器提供のためのクローン人間を産み出したのは、もちろん臓器の提供を望む数多くの患者があってのことでしょう。
(需要があるから供給が行われる…例えとし適切ではもしなかったら、ご海容をお願いします。)
延命のために治療を受けることは、もちろん悪ではありませんし、実際、亡父、亡母の余命を知らされたときも、「もう充分に生きたから」という彼・彼女の言とは裏腹に、打つ手があるなら何でも打って、一日でも長く命脈を保って欲しいと願ったのは、他ならぬ、当の評論子でしたから。
ましてや、本人が、臓器の提供を受けられれば命脈を保つことができるとも知り、それを切望するとともに、一日も早い臓器の提供を望むことを、とうてい非難することはできないー。
本作の設定で、ヘールシャムでなどで行われていたとする取組みは、確かに、ある意味では「進歩的」なものだったのだろうとは思いますけれども。
しかし、これは人のなすべきことではなく、もはや神の領域に属する事柄のように思えてなりません。評論子には。
(別に評論子は宗教的なに信心深いとも思いませんけれども。)
そして、これを「先端的な取組み」というには、あまりにも、おぞましさを禁じ得ません。
(その意味では、冒頭の「映画のことば」は、けっして賛同の意味ではなく、言ってみれば反面教師的な意味合いで拾わせてもらったものになります。)
そんな矛盾(?)にも思いが至ると、本当に胸が張り裂けそうな気持ちにもなります。
本作を観終わって。評論子は。
カズオ・イシグロが描く世界を作品として観たのは、おそらくは、これが初めてだったと思います。評論子は。
作家としての彼が描く世界というのは、こんな世界なのでしょうか。
他の作品も観てみたいということで、食指を動かされた作品でもありました。評論子には。
映画作品自体としては、佳作ではあったと思います。評論子は。
(追記)
介護役として提供者を見送る者も、やがては提供者となる立場の者。そういう立場の彼ら・彼女らから介護人を選んでいたのは、おそらくは、その「任務」の重圧には、普通の神経の持ち主(クローンではない普通の人間)は、精神的に耐えられないものだからということなのでしょう。
そういう非人間性をということでは、ナチスによってまさにガス室に送られようとするユダヤ人たちの世話係=ジェンダーコマンダーを(支配階層であるドイツ人にではなく、やがては自らもガス室に送り込まれる同じ運命が決まっている)同じユダヤ人にさせていたことを、評論子には、まざまざと想起されました。
(追々記)
<映画のことば>
私にも通知が来た。最初の提供は1ヶ月後だという。
ここには、過去に失ったものが、すべて流れ着く気がする。
もし、それを信ずるなら、ここで待てば地平線の果てに人影が現れる。そして、近づく人影はトミーだ。
彼は手を振り私を呼ぶ。
その先は、想像しない。したくない。
トミーを知っただけで幸せだった。
私は自分に問う。私たちと私たちが救った人々とに違いが?皆「終了」する。「生」を理解することなく、命は尽きるのだ。
ネットを見ても、本作の邦題の意味については百家争鳴の感がありますけれども。
しかし、もっともっと生きて、もっともっと愛したかったトミーから「私を(引き)離さないで」という意味に受けとることができました。評論子には。
(追々々記)
本作は、別作品『綴り字のシーズン』の監督さんの手になる一本でもありました。
あまり多くの作品を発表している方ではないようですが、本作も『綴り字…』と同様に、心に残る一本にはなりました。評論子には。
残る未鑑賞一本である『ストーカー』(2002)も、そう日を置かないうちに鑑賞したいものです。
鑑賞動機:どうやらSFらしいと聞いて10割
原作未読。すぐ連想したのは、新井素子の某作。結局はどういう視点でどう書くかであろう。そしてなんか「愛はさだめ、さだめは死」の匂いもする(こじつけ)。SF脳も大概である。
サリー・ホーキンスにアンドレア・ライズボローとドーナル・グリーソンいるのね。キャリー・マリガン(と子役)の幸薄くて絶妙に鈍臭い感じ好き。
“Never let me go”が妙に官能的に聞こえる。
終わりから始まって一周して終わる構成好き。ゆるりゆるりとその状況がわかってくるやり方好き。物語を作るなら、現実と同じ感覚でこの仕組みに抗うような話になるのだろうし、そんな話はいくらだってある。だってそっちの方が面白いお話になりそうだもの。でもここではそうはならない。この世界の中での愛や夢や希望や挫折を描き、私たちの感覚がどうであろうと、彼女らにとっては普通の人生を映し出す。
ああ、やっぱり「愛はさだめ、さだめは死」だった。私の認識している世界ではそれが当たり前の結論なのだった。
地味だけど良作だと感じました。
カズオ・イシグロさんの同名小説の映画化。
よくできたストーリーだと思います。
淡々と話が進んでいくので、印象としては
地味ですが、このストーリーには合ってるような
気がします。ある事実が、ずっと隠されたまま
進んでいきますが…それは、見てのお楽しみですね。
いろんなことを考えさせられる作品。
単純な話ではないですね、たぶん。深いです。
生きる事の意味。
もし、これがお話でなく、
事実だとしたら、ありえない。
たとえ、お話だとしてもありえない。
人間がモルモットの様に生きる。
ただ、現実問題お金で臓器売買が有るのも事実。
命の重みを考えさせられます。
イシグロ氏がノーベル賞を受賞する前に、日本のドラマで見ていた。ドラマ(日本の)を見た限りでは、可哀想!ヒューマンドラマだと思ってしまった。
何年か前に原作は読んでいた。面白かったが、特別な印象は残らなかった。『ドラマ見たことあるな。』位だと思う。暫くして、DVDを図書館で借りて見て見た。前述の様に、カズオ・イシグロって知る前、つまり、ノーベル賞を受賞される前に、日本のドラマで見ていた。ドラマ(日本の)を見た限りでは、可哀想!ヒューマンドラマだと思ってしまった。誰でもそう感じるとは思う。しかし、あらためて、この映画を見て(二回目)全くの出鱈目な話だと思った。淡々と死を受け入れるなんて、出来る訳がない。何かをデフォルメしていると感じた。『何故逃げない』そう誰でも思う。それが、この映画や原作の矛盾点だと感じた。
職場の仲間がこの原作を3ヶ月掛けて読んだ。同じように、何故逃げない。と言う疑問に行き付いたそうだ。僕は『日本の特攻兵見たいなもの』と答えた。しかし、彼は『人間の運命見たい』と返してきた。社会の体制に縛られる個人。と僕は見たわけだが、あらためて再考すると、彼の言う事が正解だと確信した。淡々と死を受け入れる。つまり、人間の一生なんて、そんなもの。誰でも必ず死ぬ。だから、可哀想とかヒューマンとか過酷な運命ではない。この映画は日本のそれ(ドラマ)よりも淡々と描いていると僕は感じた。職場の同僚は3ヶ月で読破したが、僕は面白かったので、三日間で読んでしまった。しかし、面白い対象が違っていたようだ。まぁ、映画見たから、本はもう読まなくて良いが。単純な青春群像劇としてとらえたとすれば、そのへんのライトノベル作家でも書けそうな話。やっばり、ノーベル賞作家なのだから、感情に訴えるだけのデタラメ話を書く訳がない。
地味。
設定は良いのですがもう少し抑揚のある展開を期待してしまいました。
寿命が短くても「逃げよう!」とは思わないのですかね?
あと約束のネバーランドと設定が似てますが今作を観て、漫画を描いてるのですかね?気になります。
置き換えてみれば
カズオ・イシグロの作品は、けっこう残酷なところがある。作品ごとに世界観が違い、日本、執事、探偵、騎士、など、バラエティに富んでいる。この作品はざっくり言えばSF? イシグロのインタビューか何かで、作品の構想中、生きる時間が定められた若者を思いつき、そこからふくらませた物語だそうだ。
映画は原作のエピソードを取捨選択しているが、割と物語を忠実に追っている。ただ、文章を読んで想像するより、可視化されて生々しくなったところもある。栄養管理、健康管理の徹底ぶりや、学校にやってくる「プレゼント」のがらくたぶりなど、なるほどと思った。ダークチョコレートも食べられないし。甘党には悲しいよ。もし、成長途中で治らない病気になったら、やはり強制終了なのだろうか…。
題材が暗いが、他のものに置き換えれば、日常的にあることだ。人間が食べるために育てられる動物、新薬の効果を試される動物、住む土地や文化を奪われた民族など、一方が犠牲を強いられることはたくさんある。それが当たり前になっていることを確認させられる。キャシー達5人がカフェに行った時、店内の年配の客が、眉をひそめながら彼らを見る。「提供者」が臓器を移植してくれるから、その人達は無事に年を重ねられたのに、それを当然と認識している。「提供者」にも感情や知性があることは想像もせず、下等な存在として見下すのだ。映画ではそれを描写するまでだったが、TBSのドラマでは「提供者」の人権に踏み込んでいた(トミーにあたる役を三浦春馬が演じていて、熱演だった)。
タイトルにもなっている曲「Never Let Me Go」は、古臭い印象だったが、よく考えたら元の持ち主が飽きていらなくなったから、ヘールシャムに渡ってきたってことか。外部と遮断された中で、自分の好みの音楽が何かも知らず出会ったテープ。辛い時もキャシーの救いになっていた。トミーもしゃれたものを贈り物に選ぶよね。ちなみにドラマの曲の方はおしゃれだった。
おしゃれと言えば、タイトルや年、場所が変わる時に挿入される、無地バックに文字だけ、というのはかっこ良かった。海辺の難破船を見ながら3人が佇むシーンや、キャシーが柵に引っかかかったごみを見つめるラストシーンも美しかった。
この作品が伝えようとしている核の部分は、物語の大事なキーなのですご...
この作品が伝えようとしている核の部分は、物語の大事なキーなのですごくレビューしづらい。人は遅かれ早かれ必ず死ぬっていう単純な事実が、こうも胸に突き刺さるとは。
何という映画
TVのミッドナイト📺で録画したものを
軽い気持ちで朝みたら、
ビックリ‼️
クローン人間の話だった。
それも、リアルに、丁寧に描かれていて
クローン人間は、作ってはいけない。
癌や精神疾患で、苦しむより良いでしょ。
と恩師は言うけど。。。。。
違うと思った。
【生きる】
序盤、教師のルーシーが、生徒に向かって、皆の命は短いことを伝え、
「自分というものを知ることで、生に意味を持たせてほしい」
と、声を詰まらせながら話す。
そして、エンディング、
キャシーが提供を前に、自らの短い生涯を振り返るように、
「生を理解することなく、命は尽きるのだ」
と呟く。
僕は、このキャシーの言葉は逆説的に用意されたもので、本当の意味は別にあるように思う。
この作品は臓器提供のために産まれたクローンを取り上げながら、生とは何かを見つめた秀作だと思う。
原作者カズオイシグロのテーマを決めてから、設定を綿密に構築していくイマジネーション力に改めて感心させられる。
特に、SFでありながら、未来ではなく平行世界に時代を設定したところも、皆のノスタルジーをも刺激し、キャシーの思い出と生きるという冒頭のセリフの意味を更に深めているようにも感じる。
なぜ、逆説的だと思ったのか。
それは、キャシーも、トミーも、ルースも明らかに生きたからだ。
愛したり。
奪ったり。
オリジナルを求めたり…、
自分は何者かと多くの人は考えることもあるだろう。
噂に惑わされたり。
何かを切望したり。
ジェラシーを感じたり。
性欲を覚えたり。
別れを悲しんだり。
憐れんだり。
勇気を振り絞ったり。
再会を喜んだり。
語らったり。
思い出に浸ったり。
何かを恐れたり。
後悔したり。
贖罪の気持ちを感じたり。
触れ合うことを求めたり。
僅かな望みにすがったり。
そして、絶望も、
覚悟も。
この作品で綴られるもの全てが生きた証なのではないのか。
少年トミーの校庭での叫びと、
死を目前にした夜のとばりに包まれた叫び。
この二つの叫びは異なるようで実は同じなのではないのか。
なぜ、自分を、自分の思いを分かってもらえないのか。
絵は、「魂を探るのではなく、魂があるかないのかを知るためのもの」
キャシーにもトミーにも魂は確実にあったのだ。
最後、微笑み合う手術台のトミーとトミーを見つめるキャシー。
短い生涯のなか、ほんの一瞬、愛し合った期間でも、二人の生には二人にしか分からない魂が宿っていたのだ。
魂も一様ではないのだ。
生涯を終える。
それは、短い生涯でも、長く生きても皆同じだろう。
人は人と繋がり、外の世界とも繋がり、様々な感情を呼び起こしながら生きているのだ。
ほんの少しであっても自由でありたいと考えたことも同様だ。
生きたからだ。
世界には、病気などで短い生涯を運命づけられた人もいるに違いない。
でも、確実に生きているのだ。
生とは、長さや経験の多い少ないだけが尺度であるはずがない。
どのように考え、どのように感じ、どのように自身を表現できたのかが重要なのではないのか。
※ 追記 この作品のような状況があってはならないのは当たり前だし、お国のために死ねと言われて、それを受け入れざるを得ないような状況も同じだろう。
とても怖い世界
淡々としているのだが、早い話、臓器提供のために生きている人間であって、その宿命が、フィクションの体裁ではあっても、腑に落ちなかった。
そんな宿命にもかかわらず、青春的なことをして、ちょっとはじけてみたりする彼らが、痛ましいといえば痛ましい。
──だが、そのペーソスを生み出すための「強引な設定」にも感じられてしまう。けっこう力技で悲劇をつくっちゃってるわけである。
原作のcontroversy/論争ポイントもそこだった。
すなわち、フィクションの設定が倫理を免れているようでいて、見ているほうは、そう易々と割り切れない。
これがどういうことかというと──、
たとえば先日ゾンビランドを見たが、不謹慎になるのを恐れて人は明言はしないものの、およそ、殺ってもいいゾンビを殺りまくるのは、楽しいに違いない──その「娯楽」が、ダブルタップの娯楽性に直結している──のである。
観る者が、倫理的であろうとすればするほど、出演者がたわむれに殺れば殺るほど、過激度が上昇する。
つまり、ゾンビを外したら主人公らは殺戮集団なのだ。
とりわけダブルタップはたわむれな殺戮を増し増しにし、狩る側のちゃら度も増し増しにし、むしろ積極的に「蔓延後の楽しいジェノサイド世界」を煽っている。
ゾンビ設定を笠に着たコメディなのである。
カズオイシグロのNever Let Me Goも、もしフィクションの設定を外したら、けっこう阿漕な話である。
子供が子供扱いされず、人が人扱いされない。
ここはそういう世界なんですよ、と叙説されるとはいえ、みょうに乗り切れない。
すなわち、そんな世界を笠に着て、強引にペーソスを引き出しちゃっているんじゃないの──というのが、反イシグロ派の言い分だった。
ただし、映画は原作よりも、エモーショナルトーンを抑えている。
彼らがどんな世界を生きているのか、あまり説明されず、ゆえに、彼らがなぜ酷い目に遭っているのかが──もし原作を知らなければ──衝撃をもたらしたに違いない。すなわち映画は原作の論争ポイントをほとんど免れた佳作だったと思う。
臓器提供の話かと思ってたら・・・
死生観の講義を受けていてこの映画を紹介されていた。その前から気になっていたものの見逃していたのでいい機会なので視聴することに。
臓器提供するために寄宿舎で集団生活をする子どもたち。そのことをちゃんと知らされず、知った時にはすでに提供する目前の状態。恋心や感情もマダムから見たら籠の中の鳥がバタバタ騒いでいるだけでどうすることもできないことを悟る。
原作は全く知らずに見た。オリジナルという言葉が出て来た時点で、あっクローンということね、ということが分かった。ということは地球上のどこかで自分と同じ人物がいるということ。そのクローンと知っても、人のことを好きになる感情、嫉妬する感情、人間としての魂があるかどうかは調べるまでもない。その魂と現実しての臓器提供という狭間で葛藤するのがよく伝わってくる。
臓器提供を何回するか、というのがドライに●回で終了という表現になるのは冷酷なもので、怖さすら感じた。
生のを理解せずに命尽きていく。
このことを知っただけでもクローンとして臓器提供するためだけに生きていることを受けとめた言葉なのだ。
提供と享受
『人間は人間以外のものに対して、魂が無いとでも思っているのか?』
キャシーから投げかけられたこの問いかけが、人間のエゴを的確に表す言葉として、鑑賞後も私の頭からずっと離れませんでした。劇中のキャシー、ルース、トミーは、まるで言葉を持たない生命の代弁者、普段私達が気にもとめない生命の象徴(家畜、養殖用の魚、植物、実験動物、ペット用の動物)の様に感じました。
作品はキャシーからの視点で描かれていましたが、逆に人間社会の視点から観ると、臓器移植がシステム化されたことにより、人間がこのシステムの恩恵を受けて、社会が上手く回っている様にみえました。クローンの『終了』に立ち会う病院関係者も、ヘイルシャム寄宿学校の教員もシステム化された中で職務を全うしているにすぎません。たまには感傷的になって退職する教員がいますが、ほとんどの人はシステム化された臓器移植について深く知ることも真剣に考えることもないままなのかもしれません。あるいは、システム上、仕方がないことと捉えているのかもしれません。このシステムに対する人間の振る舞いや考え方は、見覚えがある方も多いと思います。
今作は、人間がクローンに臓器を『提供』させている話ですが、では人間は、人間以外の生命に対してだけ『提供』を強いているのでしょうか。過去に人類は、人間を使って人体実験をしていた歴史があります。昨今で有名なのは、ナチス(アウシュビッツ)や731部隊(満州)でしょうか。また、第2次世界大戦中に日本軍が神風特攻隊に出した突撃命令の思想も、根本は人体実験と同じです。つまり、人間は人間に対しても『提供』を強いてきたのです。
劇中、クローンは自らの運命を受け入れて抵抗をしませんでしたが、アウシュビッツでのゾンダーコマンドや神風特攻隊もクローンと同じく、ほとんどの人が自分が殺される事を承知の上で、職務というシステムに従い抵抗をしませんでした。今作の介護人システムをみていると、アウシュビッツで死体処理係という職務のあとに数ヶ月で抹殺されたゾンダーコマンドシステムをみている様でした。
クローンとは一体何者なのか?を考えた時に、利益を『享受』する側に、己の利益を『提供』し続ける全ての生命の事なのだということに気がつきました。そして、人間とは一体何者なのか?を考えた時に、利益を『享受』する側でもあり、利益を『提供』する側でもある存在だということです。
私達は、無慈悲な『提供』を受け続けるのか。クローンの様に『提供』し『終了』するのか。あるいは、無批判に受け入れられている社会システムを変えるのか。そう問われた気がします。
『私は自分に問う。私と私達が救った人に違いが?
皆、終了する。生を理解することなく、命は尽きるのだ。』
つらいしかない。
ノーベル賞のイシグロのベストセラー。
淡々と描かれていますが、あかされる事実が重くて、消化不良を起こしそうな作品ですね。。。
医療用ドナーとしてクローンとして生まれ、隔離施設で育てられ、やがて切り刻まれていく運命。辛すぎる。
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