愛の勝利を ムッソリーニを愛した女 : 映画評論・批評
2011年5月24日更新
2011年5月28日よりシネマート新宿ほかにてロードショー
ムッソリーニにすべてを捧げた愛人の数奇な生涯
「20世紀最大の発明は、映画、ファシズム、精神分析」と言われるが、マルコ・ベロッキオの新作は、ムッソリーニへの偏執的な愛に殉じたイーダの数奇な生涯を凝視することで、20世紀そのものの酷薄な命運を透かし彫りにする傑作である。
神を否定し、女と交わる間も虚空を睨むムッソリーニは、「十月」(セルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督)の演説するレーニンを始め、おびただしい権力者の映像を介して、自らも時代の狂気を体現する超越的な怪物へと変貌し続ける。夢の工場チネチッタ撮影所をつくったムッソリーニは、映画がファシズムにもっとも親和するプロパガンダ装置であることを知悉(ちしつ)した独裁者でもあったのだ。
一方、彼の子を宿したイーダは<狂気>の烙印を押され、息子とも引き裂かれて精神病院へと幽閉される。
ここから、専制的な権力の奸計に不屈の精神をもって抗するイーダの孤独な闘いが開始され、画面はまるで触れれば火傷しそうなほどの圧倒的な熱量を放ち始める。イーダが、深夜、雪が舞う中、鉄柵をよじのぼって息子への手紙をばらまくシーンには、「蝶々夫人」のヒロインのような荘厳な悲劇性が漂っている。さらに病院内でチャップリンの「キッド」が上映され、嗚咽しながらスクリーンに見入るイーダをとらえた美しい場面で、それはクライマックスに達する。
膨大なニューズリールや濃密で過剰なまでにオペラ的なメロドラマの手法を大胆に駆使して、歴史から抹殺されたヒロインを崇高な存在として救い上げるという離れ業には、ただ脱帽するのみである。
(高崎俊夫)