「女優・寺島しのぶ、シゲ子になりきる」キャタピラー マスター@だんだんさんの映画レビュー(感想・評価)
女優・寺島しのぶ、シゲ子になりきる
四肢と聴力を失って帰還した夫・久蔵にとって、唯一のよりどころは、陛下から賜った勲章と、生ける“軍神”と讃えられた新聞記事だけ。
あとは、食べて、寝て、妻を求めるだけの日々だ。郷の人々は、“軍神”となった夫の介護こそお国のためだと言う。どこにも逃げ場のない妻・シゲ子のストレスは頂点へと向かう。出兵する前と立場は逆転し、夫を生かすも殺すも妻しだいだ。戦地で手も足も出せない女たちを陵辱してきた男は、ヒステリックになった妻に対して手も足も出ない。シゲ子によってその無残な姿を郷里の人前に晒され、己の無力さを知るのだ。そしてまた今日も、天皇両陛下の肖像を見上げ、勲章を見、新聞の切り抜きへと目を移す。その繰り返し・・・。
ここで、この作品はいったい何を訴えたいのだろうと疑問を抱きはじめる。カメラとカット割りが垢抜けないのも気になる。久蔵とシゲ子の営みを見るだけでは、背景が戦時中だからといって、そこから「反戦」の二文字は見えてこない。女優・寺島しのぶを撮りたかった、それだけのように見えてくる。もし、若松監督に反戦を訴える意思があったとするならば、クマさん演じる村の余され者の扱いが中途半端だ。村人がこぞって「お国のため」を唱えているところに、フラッと現れては、茶々を入れて怒られながらも、その言動はいちいち当を得ているという役どころのはずが、気の利いた台詞が足りない。クマさんは監督の代弁者であるはずだ。
終戦・・・、それも敗戦となれば、崇められてきた“軍神”もただの人に落ちてしまう。その不条理と惨めさで救いようのない男の心情はよく出ている。
だが、この作品で最大のメッセージは元ちとせによるエンディング・テーマ「死んだ女の子」であろう。反戦と平和への祈りを、簡潔な詩ながら魂を揺さぶるように歌いあげた楽曲は、原爆に対する恨み節ともいえる。エンド・クレジットになった途端、立ち上がる人がいるが、この作品はこの唄を聴いてこそ価値がある。本篇と思われた80分は、この唄に至るプロローグに過ぎない。
また、今の邦画界で、シゲ子を完璧に演じられるのは寺島しのぶだけだろう。