必死剣鳥刺し : 映画評論・批評
2010年7月6日更新
2010年7月10日より丸の内TOEI1ほかにてロードショー
往年の名作の記憶が随所に息づいている精緻な時代劇
平山秀幸の映画はかつての撮影所の匂いがする。奇矯なカメラアングルや編集テクニックを誇示したりせずに、つまりはこれ見よがしな作家的個性や主張を自ら禁じ、匿名性に徹しながら、与えられた素材を丁寧に腑分けし、精緻な完成作として観客に供するという邦画黄金期のプログラム・ピクチャーの職人芸を堪能させる、近頃、稀有な監督なのだ。藤沢周平の原作による本作も、往年の時代劇の記憶が随所に息づいている。
冒頭、能楽堂で海坂藩主右京太夫の愛妾を藩士三左エ門(豊川悦司)が刺殺するシーンが置かれ、映画は、なぜ彼がそのような行為に至ったかを執拗にフラッシュバックさせ、<現在>と併走させる。一見、バランスを欠くこの語り口は、ラストの壮絶な殺陣へと凝縮させるための緩やかな迂回と思えば、得心が行く。似たような劇構造を持つ工藤栄一の「十三人の刺客」が想起されるが、そういえば、あの名作の馬鹿殿・菅貫太郎と本作の女色に耽る藩主・村上淳は瓜二つのキャラクターである。
鳥刺しとは<その秘剣が抜かれる時、遣い手は半ば死んでいる>と説明される。実は、三左エ門は、意想外に寛大な処分を受けた瞬間から、<半ば死んだまま>の宙吊りの状態に幽閉されてしまうのだ。そして、藩体制を堅持するために周到に仕組まれた悲劇に向けて身を投じる以外、もはや逃れる術はない。冷徹で不気味な存在感を発揮する中老・岸部一徳と、農民の惨状を藩主に直訴する別家・吉川晃司の苦み走った好演がひときわ印象に残る。
(高崎俊夫)