悪人のレビュー・感想・評価
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【”悪人世機” 人間の善性と悪性の狭間で生きる愚かしくも寂しき男女の姿を描いた作品。観る側に深遠な命題を問いかけてくる作品でもある。】
■感想
・登場人物のほぼ全てが、バランスの差異はあれど、”悪人”であり、”善人”である。
ー但し、湯布院の老舗旅館のバカ息子圭吾(岡田将生)だけは、善性が限りなき薄き、悪人であると思う。ー
・思いを寄せていた佳乃(満島ひかり:軽佻浮薄な女を好演している。)から侮蔑的な言葉を投げつけられた孤独で、閉塞感を抱える日々を過ごす祐一(妻夫木聡)が、咄嗟に起こしてしまった事。
ー佳乃の”悪性”が描かれる。そして、そんな女性に育てた両親(柄本明、宮崎美子)の責任。では、祐一に悪性はないのか・・。彼を育てた祖母(樹木希林)の”人を容易に信じてしまう姿が、印象的である。ー
・祐一と光代(深津絵里)が、お互いに惹かれた理由は明白で、”孤独で、閉塞感を抱える日々を過ごす”者だからである。
ー二人が、お互いを慰めるように、貪るように行う性愛行為・・。ー
・佳乃の父(柄本明)が、執拗に圭吾に詰め寄るのは、彼が誰が本当の悪人であるかを父親としての本能で察したからであろう。
ー 佳乃の父が呟く言葉が心に響く。
”今の世の中、大切なひとのおらん人が多すぎる・・”
この言葉が、この作品の根底を支えている。ー
<”人間の善性と悪性とは、何か・・”という哲学的な命題を観る側に突きつけてくる作品。重いテーマを真正面から取り扱った重厚な作品でもある。>
「悪人」そして「愚行録」と。
まあまあ暗い気もちになる映画だけど、評価は4です。
殺人事件を通じて、男女関係を通じて、加害者、被害者、登場する人々の様々な心情を生々しく描いた映画である。
映画「愚行録」を一ヶ月前にみたが、この映画「悪人」での演技もあっての愚行録だったのかなあ。妻夫木聡は、まあすごい俳優だ。
しかし、満島ひかりは、またまた幸薄い役柄で出演している。彼女はどうか明るい役柄も与えてもらえないか。心配になる。
殺人は絶対的な悪である。
祐一(妻夫木聡)の育った環境や、それまでの人生は決して、恵まれたものではなかったかもしれない。しかし、なぜ殺人を思いとどまる事ができなかったのだろう。
しかし、満島ひかりに侮辱され、レイフされたと嘘ついて訴えると言われ、逆上して、彼女の首を締めてしまった。
確かに祐一は、悪い人間とは言い切れない。父の病院に連添い、祖母と温かな会話を交わしながら細々と暮らしていた優しい青年ではなかったのか。
後半で話されるが、幼少期の体験から自分の言った言葉なんて信じてもらえないと彼は思い込んでいた。人を信じる事ができない。冤罪を恐れ恐怖し混乱に至っての行動だったのかもしれない。衝動性は誰にでもあり、怖いなと感じる。
もっと早く光代(深津絵里)に出会えていたら、劇中にある言葉の通りなんだがなあ。
一方で岡田将生の役柄は醜い。
まだ学生にして、人を使い捨てにしか考えないような人間。娘を殺され柄本明が、なぜ車から下ろし置き去りにした!と詰め寄るシーン。この悲痛な叫びにすら何の感情も動かさない。人の子として、生まれてきたのに、彼の人間性はどうやって形成されたのだろう。
最後のシーン。
なぜか、本当に自分の人生を捨ててまで、祐一を信じて愛した光代の首を、祐一は締める。俺はあんたが思ってるようないい人間じゃない。謎だった。
祐一は、祐一を誘い逃亡してしまった光代に罪が及ぶことを恐れ、自分が連れ回して殺そうとしたという事実を作りたかったのだろうか。本当に殺す気があったのか?
ないよね?意味わかんないし。僕にはこの謎がわかりませんでした。
また昨今の世情を考えてみる。恋愛というか男女の関係において、いや社会の仕組みもそうなってきている、人を自分の道具にしか思わない人間が増えているのではないかと思わされる。悲しい現実だ。
昔々見た映画「静かな生活」の中で、人は人の道具ではない。その言葉を聞いた時にググッと気持ちを揺さぶられた思いを思い返す。
満島ひかりも、被害者ではあるが、祐一を道具としてしか見ておらず、皮肉な事にその満島ひかりも岡田将生に道具のようにしか扱われなかった。山中の路上に放置するなど物いがいの何ものでもないだろう。
人間は物ではない。
考えさせられる映画のひとつだろう。
満島ひかり
弱さと強さ
音楽が沁み入ります
どこか昭和を感じさせるムードのある、愛についてしっかりと語っていながら、哀愁で包み込んだ映画。
台詞や展開はそう多くないのに、気がつくと妻夫木くん演じる祐一の心の純粋さを私たちも知っていて、そして岡田将生はこんなにも悪人然としている。
自分のことを全部包み込んで受け入れてくれる・幸せを願ってくれる人の存在を、側で感じられることによって、自分にも大切な人ができていく心の移り変わる様
大切な人がいるだけで行動力に繋がっていく登場人物それぞれの決意の瞬間
そういったものが、うまく切り取られた風景や灯台からの朝焼け、さらには私たちに乗り移った感傷や悲哀を撫でるように染み入ってくる挿入音楽によって、非常にまとまりよく描写されていました。
エンドロールを見たら久石譲さんだったので、なるほどやっぱりなと思いました。
佐賀在住なので、親近感。引き込まれました。
愛されたかっただけなのに。
ずっと見たいと思っていたまま、10年が経過していた。スマホ普及による凄まじい情報化社会になる、移行時期、境目時期にある2010年だったと記憶している。
作中でも折りたたみ携帯電話やメールでのやり取りが出会い系に使われていて、今やアプリで出会った人との結婚も主流になりつつある時代。背景がよく見えない相手との出会い方に疑問を抱く意見は今後も消し去られる事はないだろうが、顔がわかる合コンやナンパで出会ってもクズはいる。
出会い方や出会う数や相手のステータスより、出会った縁をどれだけ大切にできるか、人の気持ちを見つめ尊重できるか、が結局自らをも温めてくれることがよくわかる作品。
台詞が少なくても演技で伝わってくる俳優さんばかり。
満島ひかり演じる佳乃が自分で撒いた種なのは否めないが、実家の床屋を抜け出す人生を踏み出すために、久留米で一人暮らしを始め、孤独を感じる中ナンパしてきた大学生の増尾に入れ込んでしまったのは、深津絵里演じる光代が、佐賀の国道沿いに人生が集約されているところから裕一と出会い違う世界を知り人を好きになり、大胆な逃避行を選んだのと気持ち的には変わらない。
妻夫木聡演じる祐一に対してや家族への振る舞いを比べれば、佳乃は利己的で光代は優しく包容力と見えるが、見栄を張ったり利己的な嘘をつくかどうかの違いだけなことに気付く。
肉体労働でもいつも長崎から久留米まで来てくれた妻夫木聡演じる祐一は言葉数が少なくても佳乃をちゃんと愛してくれていたのに、裏切り、母親から置き去りにされた過去を持つ祐一を捨てるような言葉を吐いて傷つけ、まさおに振られひどい仕打ちを受けた腹いせに、祐一をレイプ犯に仕立て上げるとまで罵った佳乃の言動は簡単に許される物ではない。友達といても見栄を張り嘘をつき、保険の仕事に協力もしてくれているお父さんをも社会人にもなって都合よくあしらう佳乃。
それでも、亡くなれば悲しむ両親はいるわけで、人間誰かしらが誰かの幸せを願っている。増尾のように、そういった事すらわからず、軽んじて大きな顔をする者はやはり嫌なやつである。常に周りに友人や女性がいて軽口をたたくには事欠かないが、中身薄。
一方、地域の老人や祖父の病院通いを献身的に助け、無口で決して派手ではないが優しい若者だった祐一。車が好きで同世代という点以外、増尾とは正反対だが、両親が大切に想っている佳乃の命を奪ってしまったのは祐一。
「世の中、大切な人すらいない人間が最近多い。
失う物がないから、強いかのように振る舞うが、人間そういうものではない。」
そう話す、娘を失った悲しみの淵にいながらも、娘の欠点にも気付いていた父親の言葉は重く沁みる。それでも、娘を失えば仇を打ちたい怒りにとらわれ、理性で必死に制御する悔いと取り返しのつかない悔しさと、やり場のない怒り、思い知らせたい怒りと葛藤する、柄本明演じる父親役がとても印象に残った。
佳乃も祐一も光代も、愛を求めて必死に生きて前に進もうとしていただけなのに。嘲笑う増尾でさえ、奥底には孤独があり、取り繕った強さなことが露見される。
被害者の父親と、加害者を育てた樹木希林演じる祖母という2人の間にも、大切に育ててきた子で良いところも沢山ある子とわかっているのに、何を間違えてこうなったのかという自責の念が共通していると思う。
途中まで、悪い事はしていないと思っていた祐一は歌舞伎なら正義を示す赤を着ているが、途中、自分の罪を自覚し後悔にかられてからは悪人の青に変わる。祐一を守っているかのように見える光代が赤を着始めるが、光代との幸せを台無しにした後悔と殺人の悔いに苛まれ、祐一を苦しませているのは光代でもある。でも、所謂殺人犯なんだから、俺は悪いんだ。祐一がそう言いたいかのように、光代の首を絞めるラストシーンは、光代に何も背負わせず祐一を悪者として忘れる事で幸せになってほしいという、去り際の祐一の九州男児としての男気を感じる。祐一の過去を知り、もう一度灯台に置き去りにさせたくないと、一度交番に匿われても抜け出して灯台にどうにか戻ってくる光代に、祐一はやっと見つけた愛の喜びと共に、佳乃から何を奪ってしまったのかもよくわかるようになっただろう。
何にも巻き込まれない保証は全くないけれど、本物の愛に出会える事だって出会い系はあるようだ。辛い思い出の場でもあるが裕一と光代の思い出の場でもある灯台を訪れた2人の瞳はキラキラしているし、会って話し身体を重ねる2人はとても美しかった。
先に光代に出会えていれば。
でも、佳乃への誠意を通したがために、踏み外した祐一。満島ひかりを殺めた翌朝の解体現場でも、祐一の瞳は澄んでキラキラとしていて、佳乃も祐一も増尾も、まだ未来ある若者が、未熟者がゆえ、人の心を踏みにじったり、取り返しのつかない行為をして仇となる、非常に惜しい気持ちになる作品。
「お前は悪くなか」作中何度も出てくる言葉。
仮に結果に対して何らかの関わりがあったり、何らかの非はあったのだとしても、自分を責めていたとしても、責任を背負う立場ではなかったりする。
みんなが悪人要素はあって、そうやって社会的に犯罪者迄にはならない悪人もいるが、殺めてしまえばどんなに良いところがあっても悪人。作中の本当の悪人は、無責任に祐一を取り残して育てず、事件後平然と現れて文句を言う母親のように思えてならないが。
そういう人ほど自覚なし。
その人が本当は悪人でないと知っていても、世間から見たら殺人犯。祐一に初任給で買って貰った大切な巻き物と共に、孫を守りたい気持ちを断ち切り、実際に被害者がいる現実と向き合う覚悟を表すかのように、事件現場に結ばれた祖母の巻き物に心が苦しくなる。
どんなに愛した人でも、鉢合わせた被害者の父親の気持ち、世間の声を考慮すれば、被害者に加害者側が今花を手向けるのは勝手にあたると遠慮し、相反する気持ちと向き合う光代。どちらも、「お前は悪くなか」と声をかけられた事で、現実と向き合う強さが出た部分もあるのかもしれない。
口は災いのもと。言葉は罵るよりも、誰かを軽くするために使いたい物である。
悪人は誰なのか
人間は寂しさ、孤独さとかを紛らわしたいと思った時大切な人を求む。
大切な人を守るのも必死になる。
悪人は誰なのかて見終わった後考えたら、
人を殺してしまった人、殺人犯の親、被害者、殺人犯を愛した人、子供を捨てた親、他人のことを笑って過ごしている人、これは最後まで見れば誰が悪人か分からなくなった。
もちろん殺人犯が悪いってなるだろう。けどそう言う人間にしてしまった捨てた親もどうかとおもう。たどればたどるほど悪人は多く見当たるのかもしれない。
この世界は悪人が多い。悪いことをしたことある人なんてほとんどだと思う。
この作品は今この世界の暗闇の触れていなかったとこを知れて日常見てみぬふりをして過ごしていた部分が胸に刺さる。
樹木希林さんと柄本明さんの演技には圧倒された。記者を目の前にした時のあの心を殺した表情。笑って馬鹿にする男を目の前に足、手が出る時のあの怒りの表情。この二方の演技が特に印象的だった。
この作品で出会い系サイトでの恐怖が伝わった。
とにかく色々考えさせられた。
蛮の気配
むかしスカウスを知ったとき、これはルー入れるまえのカレーだなとおもいながら、よくつくって食べた。その認識が正しいか間違っているか、どっちでもいいが、料理は、なにかをつくろうとしている行程から、いろいろなものに化ける。
近年の日本映画に、韓国映画の影響を感じる。ほとんど潮流であろう。
日本映画とは、半世紀変わらない昭和四畳半の世界なのだが、そこへ韓国映画風の非情、底辺のリアリズム、生々しい表現が加わって、潮流となった。今、ポルノ出身の長老も、鬼才系も、みんな韓国映画の影響下にいる。
それを先導したのは李相日だと思う。きっかけはスクラップヘブンと悪人だった。とりわけ悪人がその後の日本映画に及ばした影響は大きい。──と思う。
ただし、李相日監督自身は、韓国映画に影響をうけた、というより、在日朝鮮人の出自にもとづく独自路線を歩んできたひとだった。
悪人を見たとき感じたのは、まさに血はあらそえないということだ。日本人にはない、大陸へつながっている蛮の気配──なんと言ったらいいかわからないが、荒々しさが、たしかに、そこにあった。チェイサーのナホンジンとまるで兄弟のように近い蛮があった。
すなわち、それは韓国映画の影響下にある李相日ではなくて、生粋の李相日という映画だった。
ゆえに、日本映画が影響をうけたのは、韓国映画というより李相日映画──なのかもしれない。
個人的には、李監督が、こんにちの日本映画の潮流をつくったとみている。なぜなら、この映画の公開2010年は、日本映画に韓国風味が加わった頃合いと一致するからだ。そこでルーを入れた──わけである。
スカウスはルーを入れたらカレーになるし、こんにゃくを入れたら肉じゃがになるし、デミグラスソースを入れたら、ビーフシチューにもなるだろう。むろん、料理に厳格なひとや、神経質なひとにとってみれば、そんなものは邪道だが、遠からぬものはできるし、ぜんぜん食べられる。
ところが映画は、そうはいかない。今、日本映画は、李相日監督の2010年の映画「悪人」に感化された映画だらけである。日本映画のつくり手たちは、おそらく、その説を否定して、内在的なものの発露によって、今のわたしの映画がある──と主張するのかもしれないが、観衆にとって、いや、すくなくともわたしにとって、こんにち、悪人の影響を感じない鬼才系映画はない。
そこで、日本映画に言いたいのは「なんか投入したら、なんかできるだろう」みたいな、ひとり暮らしの食事みたいな調理方法じゃ、結果的になんにもできない──ってことである。
悪人は、もっと深いところ、血脈から生まれ出ているのであって、そんな魂みたいなものを模倣することじたいが、間違いなのである。
悪人には、吉田修一の翻案力もあった。
李監督は吉田修一を李相日風味で、迫力ある人間ドラマに仕上げている。たとえば松本清張を誰が映像化しても、それは松本清張である。見終わって、え、これ原作松本清張だったの、ということは、ほとんどない──わけである。
もちろんこの映画の原作が吉田修一であることは疑いの余地がないが、なんというか吉田修一に加えて、いわば大陸的な蛮の気配──やはりなんと言ったらいいかわからないが、狂おしい情念のようなものが、映画にはあった。
おなじ吉田修一のさよなら渓谷を見ると、描き手の巧拙がはっきりとわかる。
報道の自由とメディアの品格は両立できない⁈
どうしようもなく寂しい時、気軽に連絡できる知人や友人がいなければ、〝出会い系〟に救いを求める人が今でもたくさんいるのではないでしょうか。
というか、自分の寂しさを紛らすためだけで、知人や友人に連絡するのは、相手の人にウザいとか面倒くさいとか思われそうでなかなかできないと思います。それでもSNSや仕事や学校でそれなりに忘れることが(たとえ一時的であっても)できる人が多いから、世間的には出会い系に頼る人は少数派なのだと思います。
出会い系サイトがきっかけとされる事件が発生すると、どちらかというと〝自分は常識のある側の人間〟と思ってる人たちは、被害者に対しても、そんなものに頼ってるからだ、自業自得なんじゃないか、というネガティブな反応をする人がけっこう多いように思います。また、各種報道での取り上げ方も〝孤独で可哀想な人〟〝哀れな人〟みたいな前提で人物像を解釈して〝決めつけ〟のコメントで説明されることがよくあります。報道に触れる我々の中にも、情報の一部分を知っただけで、やっぱりね、とか、どうせそういうことなんでしょ、みたいに理解したつもりになってしまうことがないとは言えません。
当事者が自分の子どもだったら?
親からすれば、子どものことを何も知らなかったことへの罪悪感と悔しさを一生抱えて生きていくしかないのに、何も知らないメディアの人たちに、勝手に定型にはめて無責任に語って欲しくはない。
樹木希林さんと柄本明さんの演技が凄すぎて、主役二人の心情よりも、親目線の印象の方が鮮明に残りました。
ラストの灯台で妻夫木さんが見せた優しさ(深津さんが逃亡幇助でなく、ただの巻き込まれ被害者となるような状況を作った)が深津さんの救いになっているのが、あの笑顔で分かりました。
原作の世界を映像化
樹木希林が最高
あとを引く映画
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