「メリル・ストリープが、『マンマミーヤ』と同一人物には全然見えないキツ~イ校長先生になりきってました。」ダウト あるカトリック学校で 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
メリル・ストリープが、『マンマミーヤ』と同一人物には全然見えないキツ~イ校長先生になりきってました。
メリル・ストリープが演じる厳格でストイックなカトリック学校のシスター・アロイシス役が、ドンぴしゃはまって、『マンマミーヤ』と同一人物には全然見えないキツ~イ校長先生になりきってました。
のど飴を持っていても、飴はこころが汚れる元となるからと没収してしまうくらいやや理不尽で、ヒステリックな校長先生だったのです。そのあらゆることにおいて疑惑の目で
さてドラマが本題に入る前に、このアロイシス校長の教条的な生徒指導路線に対して、教会の司祭フリン神父は、ストイックな因習を排し進歩的で開かれた教会を目指していたことがポイントとなります。
ドラマの山場で二人が激突するまでは、不思議と二人は対立しません。しかし、二人の日常を対比させながら展開されるストーリーによって、司祭と校長の矛盾した立場が次第に鮮明になっていきます。
決定打は、司祭が侍者役に選んだ黒人生徒ドナルドが酒気を帯びて教室に戻ったこと。 司祭はドナルドが祭壇用のワインをこっそり飲もうとしたこと庇おうして、穏便に教室に戻しただけだ説明します。しかしアロイシスは、ドナルドの母親ミラー夫人から彼が性同一性障害を抱えていることを知ります。そこから一気に司祭とドナルドの「不適切な関係」を確信してしまうのです。何の具体的な根拠もなく。
もうこうなったらいくらミラー夫人が司祭は息子を思ってくれただけだと、アロイシスは全く聞く耳がありません。
校長室に激高したフリン神父が乗り込んできて抗議しても、彼女は揺るがぬ自信を持っても司祭に自認を求めるのでした。
ふたりの信念をかけた応酬は、このドラマの最高の見せ場でした。約15分間にわたって演技とは思えない激しさで、アロイシスは司祭に詰め寄ったのです。会話劇としては、フロスト×ニクソンに甲乙付けられない完成度の高いシーンであったと思います。
アロイシスは、ここで聖職者にはあるまじき禁じ手を使って、司祭を追及してしまいました。潔癖症の彼女が、いくら神の正義の実現のために、禁じ手を使うとは驚きでした。そして、その罪の深さに突如泣き崩れるのです。
あれだけ強固な信念で、司祭を裁き通してきたのに、今更ながらと言うタイミングで、自分の信念に疑惑を抱いて弱さを見せしまう、微妙な心理描写に感動しました。鳥肌が立つくらいメリル・ストリープの凄い演技であったと思います。
この物語で語られる疑惑は、観客にもサスペンス風に投げかけられます。しかし、本当は何が真実で、司祭と校長どちらが正しいか全く明らかにされません。疑惑のままに見る観客に委ねられているところが巧みです。
監督がこのストーリーに提示したテーマは、『人間は確信を持つことなど出来ない』ということでした。まさにいろいろな意味で確信が持てないストーリーに仕上がっています。
それは、このドラマの時代背景となっているケネディ暗殺直後のアメリカ国民の虚ろな気持ちに加えて、不況に喘ぐ現代のアメリカ国民の気持ちを代弁しているのではないでしょうか。
けれどもフリン神父は冒頭でこう語ります。ケネディ暗殺という絶望感が人々を結びつける強力な絆になったと。そして疑惑というものが強力な絆となることを。救いに近づくことを。
フリン神父の考えは、親鸞聖人の悪人正機説に近いものと思いました。本来確信など出来やしないのに、自分は善人だと思い込んでしまって人を裁く人の心というものは、実は不安で一杯なんです。アロイシスのように。
偽りの善の気持ちで人を裁く自分は、ひょっとして悪人ではないかと疑惑を持つことで、やっと無謬であらればならないという強迫観念から逃れることが出来るわけですね。
信仰の道は、とかく神仏の正しさを潔癖に求め勝ちです。しかしそのストイックな求道心のなかに、『罪を許すこころ』も宿す必要があるでしょう。
アロイシスの厳しさを見るにつけて、人が許せないという気持ちは、詰まるところ自分が許せないからなんですね。
最後に、終盤の二人が対決するまでがやや単調で、眠くなってしまいました。
もう少しアロイシスが疑惑を深めていく過程ばかりでなく、フリン神父の怪しげな行動など織り込んで「不適切な関係」を観客にも直接感じさせてもらったほうが、緊迫感が高まるのではないかと思いました。