「最終章の考察」20世紀少年 最終章 ぼくらの旗 Kadwaky悠さんの映画レビュー(感想・評価)
最終章の考察
最終章をラスト10分も含めてすべて見終わった瞬間、
誰もがその場を動けなかったようだった。
というか、ナニかを待っていたのかもしれない。
「え?!これで終わり?」
疑問符が頭の上を横切る。
重苦しい空気が映画館の中を漂い、
「終わったんだよね・・・」
とひとり納得し苦笑いしながら席を立つ。
みんなただただ無言で会場を後にする。
そんな気まずいラストも時間が経つにつれ整理できてきた。
そして、原作よりもしっかりまとまっていたことに気づく。
いくつかの謎やエピソードをざっくりとひとまとめにし、
ダイジェスト的な早回しではあるが、
伏線の回収もおこないながら、
映画としての体裁は整っていたように思う。
そういう意味では、原作よりも大人っぽい作品に仕上がっている。
あえて原作とは違う方法で、原作のラストを映像化している。
そして、原作よりも深化しながらメッセージをより伝えやすくしている。
そういう意味で、映画版は非常にメッセージ色の強い作品となっている。
ぼくの感想はそんな感じだ。
あまり原作と比較する必要もないくらい、
映画としてある程度きちんと纏まっているのは、
堤の構成力だし、浦沢と長崎が脚本にも携わったおかげだと思う。
そういう意味では、非常に恵まれた環境で完成したのだろう。
漫画と映画は非常に似た関係にある。
静止画か動画か、2次元か3次元か、
そういった違いはあるものの、視覚をメインに描写される表現は
どうしても類似点やその差異を求めてしまう。
これが小説の映像化であればまた違ってくる。
もともと文章からイメージされた描写を映像化すること自体、
内容によっては荒唐無稽であったりするわけで、
解釈によっては幾通りの、100人100通りの描写が可能である。
だから原作の小説と明らかに違う作品ができたとしても、
比較的素直に受け止められるのはそういうことかもしれない。
しかし、原作が漫画となるとそうはいかない。
原作のファンは映画の中で、漫画で見たままの描写を求めるものだ。
そして、ここが違う、あそこが似ている、などと比較してしまう。
それはファンゆえの楽しみなのだが、この20世紀少年の制作サイドも
原作の漫画表現を忠実に、さらには緻密に再現したりするから、
なおのことその類似や差異が気になってしまう。
原作は22巻+2巻の計24巻、総合計5,086頁にも及ぶ長編である。
それを3部作とはいえ、たったの9時間弱で纏めるなどそれこそ荒唐無稽である。
当然すべてのエピソードを踏襲することは絶対に無理であるから、
どのシーンやエピソードが残り、外れるのかがファンにとっては大事で、
それによってストーリーがどのように変化していくのかも気になるところである。
結果的に第3章は、原作とは違うストーリー展開で、
同じラストに持っていくという荒業がうまくクリーンヒットして、
ボーリングで言えばスネークアイかパンチアウトを決めたような、というと良くいいすぎかな・・・
映画としての独自性を貫きながら、原作のニュアンスや表現をきちんと丁寧に復元していると思う。
ぼくはそれ以上に、映画版20世紀少年は漫画では表現し切れなかったメッセージ性を強く持つ作品となった気がする。
第2章のラストでヨシツネをともだち側の人間だとミスリードさせた意図は、
ぼく的にはきちんと伝わったと思う。
この原作にはなかった新たなエピソードが、この映画をメッセージ色の強いものにしている。
さらには、ラスト10分で描かれた、原作でいうところの「21世紀少年」の最後のエピソードでは、
ケンヂと“ともだち”との関係を原作よりも発展させ、明るい未来を創造させる形で終わらせている。
ヴァーチャルアトラクション内でのケンヂと“ともだち”の関係が、原作では描かれなかった代わりに、パラレルワールドの未来を明るく予見したのは、ぼく的にはとてもよかった。
まあ“ともだち”の中学生時代の配役がまさか彼とはね、これもナイス配役だった。
ただ残念なところもある。
主要メンバーの中で、原作とは異なるストーリー展開の中で、
おそらくしかたなく切り捨てられた「サダキヨ」だ。
原作では非常に重要な役で再登場する。
ケンヂたちが“ともだち”と最後に対峙したときに重傷を負い、意識不明の状態で、
ケンヂとともに“ともだち”の最後の陰謀を阻止するべく戦ったのだ。
それにより、サダキヨは最後になってケンヂたちの仲間として人生を終えることができたと思う。
感動のラストシーンだ。しかし、このエピソードは第2章の時点で消滅してしまう。
もしかしたら、映画のラストのケンヂと“ともだち”の関係の発展は、
サダキヨのエピソードの変形なのかもしれない。
さらには、ヨシツネはサダキヨのような役割を
結果的に演じてしまっているようにぼくには思えるのだ。
この辺のキャラクターの扱い方やストーリーの歪曲は、
映画表現の中での妥協でしかないが、第3章ではそれが如実に現れる。
万城目と矢吹丈・・・
おまえもうお面とれよ・・・
原作ファンはそこにわだかまりを感じるかもしれないが、
映画だけのオリジナルストーリーと考えれば、逆に漫画よりも良い脚本になっているかもしれない。
原作ファンがもうひとつわだかまっているのは、
映画のエンドロール前のラストシーンであるライブシーン。
原作ではケンヂは『あの歌』を歌わなかった。
なぜなら、“ともだち”が死ぬ直前にケンヂは“ともだち”に歌って聞かせる。
そして、「あの歌はもう歌わないんだ」と宣言する。
確かにこのセリフを発するエピソードは映画には描かれなかったので、
別に歌ってもいいんだけど、それ以上に映画で『あの歌』を歌ったのは、
あのラスト10分のケンヂと“ともだち”とのやりとりに繋がっていくんじゃないかな?
さらには、ラスト10分は漫画でのケンヂと“ともだち”の最後のシーンとも繋がっている、ような気がする。
なぜ“ともだち”はケンヂに『あの歌』をリクエストしたのか?
そしてケンヂはなぜ『あの歌』を封印してしまったのか?
「俺はおまえが思っているような人間じゃない」
ケンヂがカンナから「なんであの曲やらないの?」と聞かれたときのセリフだ。
このときのケンヂは、映画的に言えば“ともだち”を産んでしまった自身への贖罪となるのだろう。
だがそれ以上に、『あの歌』がケンヂとともだちの至極個人的な歌になってしまったのではないか。
だからこそ原作ファンが映画で『あの歌』を歌ったことに抵抗があるのだ、とぼくは解釈している。
さらに個人的なことを言わせてもらえば、
ぼくが理想としたラストは、
ガッツボウルの外観
小泉響子がボーリングの玉を抱えている。
後方には神様が鎮座している。
小泉響子「ねえ、神様。」
神様「なんだよ。」
小泉響子「来ないねえ・・・・
小泉響子はボールをレーンに投げ込む。
小泉響子「ボーリングブーム!!」
ゴオオオっという音ともにボールがレーンを走る。
神様「ふん!!」
神様「だから、」
神様がボールの行方を見守りながらニヤリと微笑む。
神様「まだまだ死ねないんだよ!!」
です!!!!!