「しばらく街並みを眺めて考えました・・・」容疑者Xの献身 jack0001さんの映画レビュー(感想・評価)
しばらく街並みを眺めて考えました・・・
東野圭吾原作のテレビドラマ「ガリレオ」は、そのキャストの豪華さで話題を呼んだ。
福山雅治と柴咲コウという生活臭を感じさせないコンビが、月9の枠で華やかに舞っていた。
その延長上にある今作にも、テレビ規格そのままなステレオタイプとエンターテイメント性を、半ば求めてみた。
しかし、大きな誤算だった。
あの物理学者の湯川という主人公、何とここでは華麗な推理力と鋭い洞察力、鍛え抜かれた計算力という「お決まりごと」を、一先ず、そっちに置いていたからだ。
規則正しさが崩れたら、その事後処理を如何にするか?・・・それがこの映画の背景だ。
この物語のキーマンである石神という天才数学者、陽の当たらない陰湿な雰囲気の彼に起きた悲劇は、やがて思わぬ方向に進んでいく。
人間の奥に眠るいくつかの感情、それらが登場人物たちを左右していく。
やがて各々に重く圧し掛かるのだ。
石神の隣の部屋に弁当屋の女主人とその娘が住んでいる。
そこへ別れた元夫が突如現れ、娘に暴力を奮いだす。
やがて、二人は元夫をやむなく殺してしまう。
騒々しい物音に気づき駈けつけた石神は、二人の事件隠ぺいの為に数学者としての才気を活かし完全犯罪を思惑する。
一見冷静で完璧なはずな計画も、湯川の推理の下で次第に解き明かされていくのだが・・・という流れだ。
主人公は当然ガリレオ・シリーズでの福山雅治ではあるが、むしろこの劇場版に至っては石神役の堤真一であると言える。
かつて湯川と同じ帝都大学に在籍した天才数学者が、どこかで人生を踏み外し息を潜めるかのような毎日を送っている。
草むらでひっそりと生息する動物や微生物のように思えてならなかった。
スタイリッシュで若々しく背筋の伸びた湯川に対して、猫背とハの字に歪んだ眉の石神、その冴えない風体を堤は自然に演じ切っている。
ハイライトシーン、二人が警察の取り調べ室にて相対するカットが、ものすごく印象的だった。
そういえば勝ち組負け組なる言葉もあり、何となくそんな図式に見えてならなかった。
そんな石神にも、湯川に負けない部分がいくつかあった。
数学への愛着、登山(これは劇中のみ、原作にはないものらしい・・・)そして湯川には到底解明できない(ことになっている)「ある難問」である。
なぜ故に石神は完全犯罪を企んでまでこの親子を守ろうとしたのか?
そもそも、隣人という立場上からして無関係だったにもかかわらず、石神をそこまで駆り立てた本当の理由・・・そこが最大な見せ場だ。
きっと男女関係なんかではない!(当初はそう思ったが)
もっと人間らしさの奥深い場所にそれは眠っている。
眠ってはいるが、ちゃんと起きている・・・いや、目を覚まさせてくれるほど尊いものだ。
その例えを劇中では「難しい微積の問題じゃなく、単なる関数の引っかけ問題」というような言い方で表していた。
あるいは「隣り同士が同じ色に染まってはいけない・・・」と半ば諦めた感じに。
日陰の動物にだって時折陽が射す。
それを本当は捉えて離したくないのだろうか?
草食動物でもたまには肉を平らげてみたいものなのか?
そうではないのだろう・・・自然の摂理だ。
いつもの場所で規則正しく、そして明日をひたすら待つ・・・本当はこれが一番難しいのだ。
だからこそ尊いのだと思う、日々が無事に済むというのは。
石神の様々な仕掛けに対し湯川は次々と仮説を立てて刑事の薫に話すのだが、どうもテレビ番組でのあのガリレオらしさとは違って見えた。
おかしいな?解せない思いで劇場を後にしつつ、改めて考えた。
ドラマシリーズでは、大概このような流れだったかと・・・
『推理、仮定仮説、そして実験による立証』
ところが、この事件は仮説の段階で結局止まっているのだ。
実験など出来る由もない。
仮にしたとしても誰も幸せになれない虚しさ・・・それを一番知っていたのは湯川本人だ。
最後に見せる石神の「慟哭」シーンは、湯川にとっての「慟哭」でもあったのだろう。
湯川が望んだ本当の解決を得られなかった。
唯一の未解決事件なのかもしれない・・・そんな彼の「慟哭」にも気づいてしまった。
幸せを求めたり、希望を見出したり、それらを当り前に描くのが人の常だ。
そして、僕らはひたすら一途に生きている。
ただ単に、そう思える日々が愛おしくないか?