ペイルライダー

劇場公開日:1985年9月21日

解説

ゴールド・ラッシュでにぎわうカリフォルニアの無法の町を舞台に、町の権力者を一掃する流れ者の姿を描く西部劇。製作・監督は主演も兼ねる「シティヒート」のクリント・イーストウッド、エグゼクティヴ・プロデューサーはフリッツ・マーネイズ、脚本はマイケル・バトラーとデニス・シュラック、撮影はブルース・サーティーズ、音楽はレニー・ニーハウス、編集はジョエル・コックスが担当。出演はイーストウッドの他にマイケル・モリアーティ、キャリー・スノッドグレスなど。

1985年製作/アメリカ
原題または英題:Pale Rider
配給:ワーナー・ブラザース
劇場公開日:1985年9月21日

あらすじ

ゴールド・ラッシュ時代のカリフォルニア。マウンテン峡谷から枝別れしている無数の小さな峡谷の一つ、カーボン峡谷。他の峡谷が、大きな鉱山会社を経営するラフッド(リチャード・ダイサート)一家に牛耳られている中で、このカーボンだけは、ラフッド一家の手から逃れられているが、その陥落も時間の問題だった。15歳の少女ミーガン(シドニー・ペニー)母のサラ(キャリー・スノッドグレス)と、その婚約者ハル・バレット(マイケル・モリアーティ)は、このカーボンの村に暮らしていたが、この日もラフッド社のいやがらせに遭い、ミーガンは愛犬を失った。犬の墓前で、神に奇跡を願うミーガン。その祈りに応えるかのように、ラフッドの町に1人の男が向かっていた。村の修復のための材料を調達に行った町で、再びラフッド社のいやがらせを受けたハルを、例の男(クリント・イーストウッド)が救った。ハルが彼を連れて村に帰ると、ミーガンは彼を神につかわされた男だと直感した。しかしサラは、ならず者とは夕食を共にしたくないと、男に反感を抱いた。しかし、夕食の席に出てきた男は、銃は持たず牧師(プリーチャー)の僧服を着ていた。皆は彼をプリーチャーと呼んだ。翌朝、ラフッドの息子ジョッシュ(クリストファー・ペン)が大男のクラブ(リチャード・ギール)を伴ってきのうの返礼にやってくる。しかし威力を誇示するジョッシュとクラブを、プリーチャーは、軽くかわした。一方、今の採掘法はあと2年もしたら禁じられるだろうという情報を仕入れて町に戻ったラフッドは最後の切り札を川意した。鬼よりこわいと恐れられている連邦保安官のストックバーン(ジョン・ラッセル)とその副官たちに始末をつけさせるというものだ。ストックバーンの名を聞くと、プリーチャーの表情が一瞬こわばった。ストックバーンらが町に乗り込んでくると、プリーチャーは姿を消した。彼に好意を寄せつつあったサラとミーガンは、プリーチャーの行方が気になり、割り切れない気持ちでいた。鉱夫のひとり、スパイダーが、金鉱を掘り出し浮かれて町に出た時、ストックバーンらの手にかかって無惨に殺された。一方、ミーガンがラフッドの作業場でジョッシュに乱暴されそうになるところを、牧師のカラーを取りはらって銃を身につけたプリーチャーが救った。ストックバーンの挑戦を受け、町で対決が行なわれる日の前夜、サラがプリーチャーを訪れ、彼に愛を告白しつつ別れをおしんだ。当日、同行を求めたハルをふり切って、プリーチャーは町に向かった。埃の舞う町で銃撃戦が展開される。副官が次々に倒れ、ついにストックバーンとプリーチャーが対面する。プリーチャーの顔を見たストックバーンは凍りついたようにつぶやいた。「まさか、お前が…」。一瞬のうちにストックバーンの身体を6発の弾丸が貫いた。プリーチャーの背中にある6つの傷跡とちょうど同じ位置だった。町を去る男の耳に、追ってきたミーガンの声が響いた。「プリーチャー」…。

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映画レビュー

3.0 20分で・・

2025年11月23日
PCから投稿
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KIDOLOHKEN

3.0 この時代(1985年)は、これくらいのシンプルなストーリーでも良かったのだろう

2025年7月21日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

オープニングの映像がかっこいい。山並みから森へのカメラアングルがあって、そこから馬に乗った一群が出てくる。ゆっくりとその一群にズームアップしていく。彼らは何者だろうと思っているところからストーリーに入って行く。
ラストシーンもよく演出されていて、印象的。

登場人物は典型的でわかりやすい。こちら側にイーストウッドが演じるヒーローがいて、善良な人たちの味方をする。ヒロインは母娘のふたり。相手側には親子の悪者がいて、強い助っ人を雇う。

1985年の映画だが、この当時はこれくらいのシンプルなストーリーで良かったのだろう。でも、今観ると、どの戦いも一方的に終わってしまうし、ヒロインがヒーローを好きになる理由も描かれていなくて、物足りない感じがする。殺されるほどのことをしていなくても、あっさりと銃で殺されてしまうのも、「これで良いのか?」と感じる。

イーストウッドが監督・主演なので、名作かと思って期待して観た。でも結局、イーストウッドも最初から「文句のない素晴らしい映画」を作っていたわけでもないのだなあ、と思った。映画作りはだんだんと上達していくもので、時代と共に映画全体の質が上がって行くものなのでしょう。

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p.f.naga

3.0 監督・主演なら もう少し謙虚に

2025年6月30日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

単純

映画だからスーパーマンはいいが ちょっとモテすぎお母さんにはそれらしき男が居るのにお母さんその娘シドニー(15歳)にまで迫られる役処 ちょっと作り過ぎの感あり ラストあの名シーン『シェーン』のそれをパクったようでもある

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aston007

4.0 イーストウッド映画の感傷なき孤独

2025年6月16日
iPhoneアプリから投稿

イーストウッド映画のガンマンに対して「彼は孤独だ」などと評したところでそれは何も言ったことにならない。真に瞠目すべきは、その孤独にアメリカ映画的な感傷が一切感じられないという点だ。

イーストウッド映画の孤独なガンマンは常に超然としている。『七人のガンマン』のように、護るべき集落に対して個人的な感慨や仁義を抱いているような素振りすら一切ない。にもかかわらず集落を護る。あたかもそれが自分に与えられた使命であるかのように。

システマチックに敵地へ乗り込み、システマチックに敵のガンマンを皆殺しにしていく。唯一、敵の金鉱をダイナマイトで破壊する際に彼が手を滑らせダイナマイトを地面に落とすシーンがあったが、それも結局はハルの馬をどこか遠く逃すことで彼を敵の本拠地に同行させまいとする意図からの行為だった、という徹底ぶり。

よく本作はジョージ・スティーヴンス『シェーン』と比較されるが、全くもって内実は異なる。後方から「カムバック、シェーン!」の声を受けるシェーンの背中は寂しげに揺れていたが、本作の場合、少女ミーガンの「ありがとう!さようなら!」は峨々と連なる大山脈に吸い込まれていく。そこに既にイーストウッドの姿はない。イーストウッドは一度たりとも振り向くことなく、なおかつ大雪山に向かって迷いなく馬を飛ばし続ける。

イーストウッドの孤独の中核を成しているのは、回避型愛着障害的な苦痛でもなく、ハンフリー・ボガード的なハードボイルド・ダンディズムでもない。

だから、やはり、彼は神なのだ。使命という動力以外には何の動力も備わっていない、徹底的で絶対的な個。もちろんこの世の理が彼に通じるはずもない。

サラは自分の人間的な愛が彼に届かないことを初めから知っているし、雇われ保安官のストックバーンの供述は彼が存命しているという事実と論理的に噛み合わない。

思えば町での決闘も不自然な点だらけだ。イーストウッドの登場シーンではあれだけ聞こえよがしにガチャガチャ鳴っていたウエスタンブーツの拍車が、決闘が始まった途端にピタリと止む。

街路で待ち受けるイーストウッドを屋内から見ていたストックバーンたちが一斉に外へ躍り出ると、そこには彼の帽子だけが置いてあり、彼は忽然と姿を消している。ストックバーンの部下たちは手分けして町中を散策するが、彼の姿は見当たらない。しかし銃声が鳴り響き、一人が撃ち殺される。次いで別の場所にいたもう一人が撃ち殺される。

ほどなく不審げに二人組で行動していた部下たちの後方にある箱がゆっくりと倒れ、そこに潜んでいたイーストウッドが二人を撃ち殺す。最後は井戸に近づいてきた一人を井戸の縁から飛び出して撃ち殺す。

いったいイーストウッドはいつ移動したのか?ここには明らかな空間的矛盾が生じている。

しかし彼が人ならざるもの(=神)であることを踏まえればすべてに説明がつく。登場以後の彼のあまりにも不気味な行動・言動はすべて最終盤のこの活劇のためにあった、といっても過言ではないだろう。

そう考えるとメチャクチャ変な映画だと思う。たった数分の活劇のために躊躇なく自分の人間的な部分を供物として捧げられてしまう監督/俳優「クリント・イーストウッド」の不気味なまでのストイックさにひたすら怯える。

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因果