ピアノ・レッスン(1993)のレビュー・感想・評価
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手が触れるかなしみ
手が触れると悲しくなるときがある。
強張った感触を得れば、〈あなた〉の声は美辞麗句を並べただけで、〈私〉を許してないことが分かるし、安心の感触はその柔らかさと共に〈あなた〉との隔たりを自覚させる。手は声よりも本当のことを語り、〈私〉と〈あなた〉がどこまでいっても一緒になれないことを告げる。その悲しみ。
エマニュエル・レヴィナスが同様のことを既に言っている。
「愛撫は、そこに存在するものを、いわばそこに存在しないものとして探求する。いうなれば、この場合、皮膚は自分自身の撤退の痕跡であり、それゆえ愛撫とは、このうえもなくそこに存在するものを、不在として探求し続ける焦慮なのだ。接触しつつも合致しえないということ、つまりは限りない露出(デニュダシオン)が愛撫である。隣人が隙間を埋めることはない。皮膚の柔らかさ、それは接近するものと接近されるものとの間隙にほかならず、この間隙は離散性、非志向性、非目的性である。その結果、愛撫の無秩序が、隔時性が、現在なき快楽が、憐憫が、苦悶が生じる。近さ、直接性、それは他人によって享受し、他人によって苦しむことである」(p.216 、 E.レヴィナス『存在の彼方へ』)
本作では「触れる」運動が重要だ。声を発しないエイダがピアノに触れる。夫のスチュアートがエイダに触れられる。スチュアートのビジネスパートナーのベインズやマオリ族の皆がピアノに触れる。その触れあいは、愛撫にも暴力にも転化する。しかしその時、嘘や本当が顕わになって、快楽と苦悶が生じる。
だから私は本作の嘘と愛撫と本当の〈声〉が発せられないスチュアートについて語りたい。
現在において、本作に触れた私は、本作について語られた多くのことが嘘のように思えてしまう。
「エイダは家父長制に抗った人物だ」「エイダはピアノの音色で声を発している」「エイダはセックスによる性的快楽で主体性を獲得した」「レッスンと引き換えに手に入れたのは、世界にひとりだけの「私」」「自分らしくありのままに生きようとするヒロイン像の原点」
このようなことを本作は描いていない。本作には嘘が多すぎる。そもそも「ピアノ・レッスン」が、ベインズがエイダに近づくための取引であり、嘘であるわけだし、娘のフロラがエイダの声を「翻訳」するが、でたらめといって過言ではない。劇中劇の影絵による斧の切断も嘘なのだ。
だから上述の語りをひとつひとつ検討すれば嘘はすぐに分かる。
エイダはスチュアートに対して妻として所有化を拒否しただけで、ベインズに対する所有化はむしろ望んでいるから家父長制に抗ったわけではない。
エイダは音としての声は発していないが、〈声〉は常に発している。それは手話としての身振りであり、何より「顔」だ。彼女の顔は声以上に多くのことを発している。さらにピアノの音色が代弁しているわけではない。なぜエイダは演奏中にベインズに弄られても「美しく」弾くのだろうか。その音声イメージを聴いても苦悶は読み取れない。むしろエイダが〈声〉を発するのは、ピアノから手を離し、演奏を中断し、後ろを振り向く顔でしかないだろう。
セックスによって主体性を獲得したのも間違いだと思う。それならば娘のフロラの存在やその関係をどう説明すればいいのだろう。エイダが「産む機械」としてフロラを出産したならば、なぜ前夫との出来事を楽しげに語り、娘と添い寝するほど親密なのだろうか。
別にレッスンと引き換えに「私」を手に入れたわけでもない。ピアノはエイダのモノであって、エイダ=ピアノの等号は成立する。だから、レッスンごとに黒鍵を手に入れて「私」を手に入れる≒取り戻すことは言える。けれどそれならば、なぜレッスンはベインズがエイダを「手に入れたこと」で中断し、ピアノは返されるのだろう。そこにエイダの家父長制に抗うアクションも努力も「主体性」も見出せない。
自分らしくありのまま生きようとしたわりには、社会規範から全く逃れていないし、「ありのまま」を「性愛に奔放」と捉えていいのだろうか。
本作には嘘が散見される。しかし私は嘘が決して悪いこととは思わないし、むしろ嘘と本当の混濁した様を巧みに描き、女性性以上に人間性を的確に語ったことが本作の素晴らしさだと思う。
フロラの翻訳はでたらめかもしれない。けれどエイダの本当の心情を語ってはいる。劇中劇の斧の切断は、観劇者のマオリ族に本当のことだと思わせ、劇と劇中劇の攪乱を行わせている。物語自体の「本当の」悲劇にも転じる。嘘は本当と化す。けれどベインズの〈声〉は、エイダを恋い焦がれる「本当」を語ると同時にセックス後、再会を望む騙りに転じる。本当もまた嘘に転じる。
本当と嘘の白黒は、ピアノの白鍵と黒鍵にリフレインされる。ピアノは白鍵と黒鍵の両方がなければ美しい音色は奏でられない。だから私たちもまた本当と嘘を奏でて生きていかなければならない。それこそ人間性だろう。そしてこのことを本作では衣装の白黒でも巧みに描いている。
エイダはポスタービジュアルのように日常生活では黒色のドレスを着飾る。それは本当を語らず、嘘で取り繕っていることだろう。けれどそれはスチュアートとの夫婦関係を穏便に済ませるひとつの手段であるし、スチュアートも髪を整え、取り繕うのだから誰しも日常生活で行っていることだ。しかし嘘は綻びるし、本当は現れてこない。本当との隔たりを生じさせ、訝りを生む。だから私たちは嘘の衣装を、幕を、ベールを脱がなければならない。それがエイダにとって、ベインズと出会うことやピアノ・レッスンであり、黒色のドレスから白色の下着への着替えだ。そして白色の素肌を露出させるのだ。
手が肌に触れる。愛撫し合う。その時、エイダは声を発せずとも、手が、顔が、肌が〈声〉を発する。その〈声〉はベインズに本当のことを語る。それはエイダにとって喜びであるが、スチュアートではなくベインズであることに物語上の悲しみが伴う。
本作で最も〈声〉を発していないのはスチュアートだ。スチュアートが家父長制の表象であることも嘘だと思っている。それはラストにさしかかるスチュアートがエイダの指を斧で切断させる暴力性に裏打ちされている。しかし彼がそのようなアクションに向かってしまったのは日常生活で家父長らしく振る舞えずエイダを支配できなかったからだ。スチュアートはエイダの嘘を、影を、背後をみれない。彼はエイダが声を発しないから、正面を向かざるを得ない。しかしそれも二人の結婚記念写真のように互いが正面を向いても、視線が交わることはない。結局、スチュアートは何もみていないし、本当のことを言い出せない。本当はエイダがピアノを弾く後ろ姿をみなくてはいけないのに、本当ではない予感に、訝りに拘泥してしまっている。
エイダはスチュアートに背後をみせないのだが、スチュアートはエイダに背後をみせる。それは、寝ているスチュアートの背後をエイダが触れる時だ。
スチュアートは訝しむ。なぜ触れてくるのかと。手を繋ぐことはできたけど、キスすることもセックスもできていないのに。触れられる快楽はある。けれどその快楽はすぐに過ぎ去り、訝りに転じる。なぜ触ってくるのか?これはエイダなりの愛情表現であり愛撫なのか?私はエイダに許されているのか?なら私も触っていいのか?と。けれどその出来事をみた私たち観賞者は分かる。エイダはスチュアートの肌でベインズの不在を、その痕跡を触っていることに。スチュアートはベインズになれないし、スチュアートとエイダも一緒になれない。深い悲しみが横たわっている。そして何よりスチュアートはエイダに素肌をみせることができない。本当を曝け出すことができない。ならば黒色の衣装を纏ったままのスチュアートがエイダを「貫く」ことも、衣服を着たままの野外でのセックスが未遂に終わることも必然なのだ。
だから本作が悲劇に転じたのは、エイダがありのままに生きたからではなく、スチュアートがありのままに生きられなかったからだと捉えることはできるだろう。
そしてラストは真偽を放擲させている印象を感じてしまう。エイダが死んだとしても、水中に沈む彼女は衣服を着たままだから嘘のように思えるが、光が射しているから本当とも思える。エイダが生きているとしても、彼女は別のピアノと等号が成立しているし、家には白いカーテンがあるから本当のように思えるが、彼女が纏うベールは黒色だから嘘のように思える。死んだのならば彼女がナレーションとして語る時間はどこに存在するのだろうか。けれどそれが映画なのかもしれない。
白黒は別にもある。それは私たち観客が溶け込む闇の劇場とスクリーンの白だ。私たちはエイダがピアノを弾くように、正面を向いて本作をみなければならない。映されたものは本当だ。では私たちの生きる時間は嘘なのか。嘘と本当が混濁している。訝りが生じる。本当が背後にあるかもしれない。私たちはどこまでいっても本作に触れることはできない。触れたことを知覚することと同一化して語る/騙るしかできない。それもまた悲しみかもしれない。でも必要なのはスチュアートができなかった背後をみることと本当を曝け出すことだ。スクリーンの背後にある本当をみること、曝け出すこと、それだけが私たちの生が悲劇に転じない手立てかもしれない。これが本作で描かれていることだ。
年をとって初めてその良さが理解できた
映画館で、初めてこの映画を観たのは18歳の時。あの時は何とも言えぬ後味の悪さというか、ダークな映画を観てしまったという感想だけが残った。
今改めてこの映画を観ると、エイダと彼女を取り巻く悲惨な環境、ピアノへの狂気的な依存、ベインズとの許されざる恋、自分を理解しない(できない?)夫への虚無な感情、全てが静かな波のように押し寄せてくる。
だが後半、あれだけ人形のように押し殺してきたエイダの感情が、周囲を巻き込みながら大きく揺れ動く。その感情に、ただただ引き込まれていく。
あのメロディーも最高にいい。エイダの感情の緩急によって、静かであったり、力強く響いたり…。初めて聴いた時から、大好きでずっと頭に残っている。
ラストのシーン、エイダがやっと、初めて柔らかな笑顔をベインズに向ける。エイダと共に辛い時間を過ごしてきた気分になっていたので、幸せそうなその笑顔を見て、私も幸福感に包まれた。
不倫は勿論よくないけれど、これは不倫という簡単な言葉では括れない映画だと、私は思っている。
ピアノで結ばれ深く落ち、ばれたあと、ピアノと結ばれ落ちてみる
Huluにて字幕版(オリジナル音声)を視聴。
いつか日本語吹き替え版も観たいと思う。
他人が喋る言葉は分かっても自分は口が利けないエイダ・マクグラス(ホリー・ハンター)が娘のフローラ・マクグラス(アンナ・パキン)を連れて、未開拓のニュージーランドのアリスディア・スチュアート(サム・ニール)のところに嫁ぎに来るところから物語は始まる。
時代は19世紀のニュージーランドはイギリス領。
テーマは束縛からの解放。
土地の男ジョージ・ベインズ(ハーベイ・カイテル)がピアノを弾くエイダに魅せられていき、深みにはまっていく様子がエロティック。
硬い衣を脱いで體を自由に解き放ち、硬い男の體を包み込むシーンは萌えずにはいられない。
エイダの氣持ちの変化も見どころのひとつである。
べインズは、土地よりピアノよりエイダを愛していることを言動で示す。
ピアノと共に沈もうとしたエイダであったが、残されるフローラやべインズのことも頭によぎったのか、もがきながら苦しみの状況から抜け出す展開がとても良い。
天使の羽をしょって走り回るフローラのビジュアルが印象的。
原題『THE PIANO』とだけ題された今作のBGMは全てマイケル・ナイマン。エイダが演奏するピアノの曲は、エイダの出身地スコットランドの民謡や19世紀らしさを考慮して作曲したものであることは言うまでもない。
今もあの海には
19世紀半ば。口がきけずピアノで全ての思いを語る女性が、結婚の為に娘と共にニュージーランドに渡って来るお話。僕は初見です。いやぁ、これは素晴らしい作品でした。
映画を語るのに映像・音楽・演技・ロケーションなどがしばしば取り上げられますが、僕にとっては「いかに豊かな物語(ストーリーの事ではない)があるか」が一番大切です。その点、「人の心は善悪・正邪・損得で動く訳でない」事を豊かに紡ぐ本作では、その爛熟した物語から甘美な果汁が滴り落ちていました。映画でしか表し得ない物語です。
「今も、ニュージーランドのあの海底にはピアノが静かに眠っているんだろうな」
と、その像を想像してしまう観終えてからのひと時は至福の時間でした。映画館で観る事が出来て幸せ。
母性よりもSEXが勝る感情の移ろいを女性監督ならではの視線で描いているのだろうが・・・・・・・
社会の一般的な通念であれば母性がSEXを上回ることは無い様な気がするのだが・・・・・?
ましてや19世紀半ばという時代性を加味すれば、まだ家長制度の強い中 いわゆる不倫に対する世間からの視線は決して指を切断することだけでは済まされないような気がするのだが!
これももしかしたら男性目線からの偏見かもしれないが・・・・・!
ただ女性監督であるジェーン・カンピオンがこうしたタブーを撮る事自体が30年前という時代性も含め、斬新でありパルムドールを受賞した理由なのかもしれない。
今でこそ恋愛ドラマと言えば不倫を題材とした作品が溢れ、何らの目新しさも感じることは出来ないのだが(笑)!
1993年作品という時代性が生んだ、まさに女性目線の秀作とでも言えば良いか?
ただ自分としては共感できる部分が少ない作品に過ぎなかったが・・・・・
映画から学ぶ
humさんの鋭い考察が御座いますので是非お読み下さい。「The Piano」(邦題 ピアノ・レッスン)は映画祭での受賞も多く今更説明する事は無いですが女性からの視点で製作された数少ない作品です。批評の記事を引用すれば家父長制をThemeにしており生きづらさや残酷さを描いている。とは言っても映画は娯楽なのでそこまで難しく考える必要はありません。劇中に流れるMichael Nyman作曲のPianoによる楽曲は素敵で一度聴いたら忘れる事は無いでしょう。この作品は監督・脚本・主演・助演が女性の手によるもので後進に与えた影響は大きくCreativeの観点からも再評価をする向きがあるようです。同様な傾向がある映画ではMaryShelly(邦題 メアリーの総て)がそうです。Englandでは女性が実名で自分の作品を世に問う事が難しく殆どが匿名で出版していた時代がありました。首を傾げる様な話です。18歳でFrankenstein:or,The Modern Prometheus(フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス)を執筆した主人公の役を同年齢のElle Fanningが演じました。本物を越えている、そう思わせる程彼女の魅力が際立っています。 映画は日常の疲れを忘れさせてくれる存在ですが時として映画から歴史・文化・人の有り様について学ぶ事があります。この作品もその一つです。
4kデジタルリマスター版上映に感謝🙏´-
こんなにも叙情的で美しく
変態的でエロティシズムに溢れた作品とは
思っていませんでした。初見です🔰
無骨で粗野なベインズ(ハーベイ・カイテル)の方が
成金夫スチュアート(サム・ニール)よりも
エイダを重んじ愛し紳士的だ。
そしてふたりともが変態だ🤣
海に沈みゆくピアノとエイダ
きっとエイダは生まれ変わったんだなぁ。
鑑賞してから3日経過したいまも
the heart asks pleasure first(楽しみを希う心)が
頭の中でずっと流れていて口ずさんじゃう。
名曲だ🎹🎵
譲らない女、魅了された男、理解できない男
随分以前に衛生放送とかで鑑賞して以来の
映画館での鑑賞。
いや〜〜画面が美しい〜〜。
特に象徴的なのは
浜辺に置き去りにされたピアノ。
そこにあのテーマ曲が流れると
もう無条件で「名作」決定!!!
19世紀半ば。主人公のエイダはスコットランドから
ニュージーランド入植者のスチュアートに嫁ぐため、
娘フローラと1台のピアノと共にやって来た。
彼女に何があったのは説明されていないが
6歳の時に言葉を捨てていて
感情の全てをピアノで表現していた。
彼女の言葉と等しいピアノを
夫となるステュアートは、
「重いから」と言う理由で浜辺に置き去りに
あろう事か土地の顔役で地主のベインズに
勝手に売り払ってしまった。
ピアノをエイダの夫から買い取った地主のベインズと
エイダの関係の変化に目が離せません!
で、月に8回くらい、映画館で映画を観る
中途半端な映画好きとしては
随分以前に衛星放送とかで観た時は
女性の権利等何も無い時代の
可哀想な女性の話の様に勝手に思い込んでいたけど
4Kリマスターで改めて観てみたら
結構とんでも無い女の映画だったわ‼︎
この作品は監督と脚本が
ジェーン・カンピオンが兼ねているので
なぜ、主人公のエイダが6歳で言葉を捨てたのか?
なぜ、エイダの夫のことが子供のおとぎ話でしか
語られないのか?
そこは、都合よく何もヒントがありません。
ただエイダと言う恐ろしく意志の強い女性の
その強さに魅了されてしまった男と
その強さを抑えつけようとした男と
実はどちらがこの先、穏やかな人生なのだろう?
最後の方、エイダと共に島を去るベインズの行末が
ちょっと気の毒になってしまった。
エイダの強さは、誰かを守る強さではなく、
あくまでも自分を通すための強さに私には見える。
自分を通す強さを女性が持つことは悪いことでは無いけど
私が若い頃、嫌な女だと思った「風と共に去りぬ」の
手段を選ばないスカーレットでさえ、
その強さは愛するタラの土地を守る為だったけど
エイダの強さは「自分を通すこと」だけに
偏っている気がして同じ女性としては
あんまり好きになれなかったです。
強さと言う点ではこの作品が最初に封切りされた当時に
聞いた話なので正確では無いかもしれませんが
エイダをぜひ演じたいと手を挙げたホリー・ハンターは
カンピオン監督から「イメージでは無い」と断られたとか。
それを粘りに粘ってこエイダ役を勝ち取ったホリーもまた
強い女だったと言うことだったのでしょうね。
映画を見直して、この逸話を思い出しました。
ママは自己中
今回初見。以前から評判が良いので見に行こうと思っていたが、よくある香り高いだけで???な「芸術作品」である可能性も頭に入れて観に行った、なにしろカンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作だから
でも、見事に杞憂でした。
ジェーン・カンピオンは、人間の心の複雑さを、セリフに頼らず第三者である観客が見て納得できるように、曖昧にぼかすことをできるだけ避けて、的確に描く達人だと思う。「パワー・オブ・ザ・ドッグ」でも同じようなことを感じたので、彼女の作風なのだと思う。
こぶ付き出戻り(死別らしい)のすでに若くなくさらに障害ある娘を抱える家、イギリス本国の上流家庭から嫁を迎えたいが来手がない未開のニュージーランドの入植者、両家の利害が一致してエイダ母子の輿入れとなっただろうが、体の良い厄介払いで、仕方ないのは分かっていてもエイダには納得がいかない。その上言葉代わりの大事なピアノの回収を拒まれ、あろうことか夫は土地と交換に下心丸出しの他の男に渡してしまう。彼女の所有物なのに。なので、夫に心を開かない気持ちは分かるが、夫の親族、使用人たちにすら頑なだ。
エイダには彼らをひとまとめにして「嫌悪」と「蔑み」があるようで、なかなか嫌な感じの女性だと思った。
幼い娘もそんな母の気持ちを代弁するように、生意気で何様!?な口の聞き方。
この母子にげんなりしたが、娘・フローラがそんな言い方をするのは、母の前でだけだと気づいた。
幼い娘は物心ついたときから口の聞けない母の通訳、それどころか代弁者としての使命を課されてきたのだろう。母の心の動きに細心の注意を払って意図を的確に汲み代弁する、それが染み付いているのだ。
娘は母が大好きなので、細々と、気持ちのケアも含めて母の世話を焼く。それを喜んでいるよう。母の方はずっと、娘を自分の都合で振り回して、しかもそれに気づかないくらい当然と思っているのだ。
生意気な口を聞いていたフローラがいつの間にかスチュアートを「お父さん」と呼んでおり、自分をないがしろにする勝手な母のことを告げ口する。これが子供だ。その時々で後先考えず思ったとおりに行動してしまう。
自分の告げ口で母は指を失い、大事になってしまって泣き叫ぶのは、自身の罪悪感が大きいと思う。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」もそうだったが、母親に翻弄され、母が大好きなばっかりに幼い考えからとりかえしのつかないことをしてしまう子供が描かれている。
彼らは罪悪感に苦しめられる人生を、愛する母に課されてしまったと言える。
こういう子供は、表立たないが時代を越えてずっと存在し続けていると思う。
自分の幸せを追い求める親の影で、犠牲を強いられる子供はどうしたら良いのか。
色白で華奢なホリー・ハンターが、艶かしく妖しく美しい。口が聞けないのでボディーランゲージが豊かで、姿の艶かしさがさらに増しているよう。これでは男たちが虜になるのは当然だ。
夫スチュアートは、利益優先。
利益>妻 なので、妻の大事なピアノを土地と引き換えにベインズに渡した上に、妻には彼のところにピアノ・レッスンしに行け、などと平気で言う。下心ミエミエの男一人のところに美しい妻を行かせて一対一でピアノ・レッスンって、どう考えてもヤバい予感しかないが、それよりも利益が重かったようだ。
で、やっぱりなるようになってしまった。
粗野で顔に入れ墨入れて現地人に同化したようなベインズだが、「君を淫売にしたくない」と、エイダの尊厳を優先して欲望を我慢するジェントルマンな心があり、これをやられたらベインズに惹かれるのは必然。強引なようでエイダの気持ちが追いつくのを待ち、決して無理強いしない態度は一貫しており、女の気を引くためにその場限りで良いこと言ってるわけではないと分かるし、そんな芸当ができる器用な男でないのも分かっている。朴訥で誠実、しかもガタイが良いと来たら、心身ともに惹かれるのは必然だ。
男女が不倫に落ちる過程に納得してしまった。
妻と盟友(商売仲間?)の不義を知っても、その場で踏み込むことをせず床下に侵入してまで見届ける夫の気持ちはよくわからないが、彼はどこか自分の男としての魅力に自信がなく、強く出られないように見えるので、妻と妻を悦ばせているベインズの反応とか確認したかったのかも。ただの興味本位かもですが。
ふたりの絆を見せつけられて、妻が絶対に自分に靡かないのを確信したら、夫としては妻を解放するしかない。とどめておいても惨めなだけ。ただ妻に意地悪するためだけに手元に置いたら自身の幸せも程遠くなる。指を切り落として妻に忘れられない印を残したことで、もう良いじゃないかと判断したのだろう。計算高いスチュアートらしい。
ベインズと共に出ていくエイダが「ピアノを捨てて」というのは、新たな自分となる決意が分かりやすい。ピアノと一緒に沈んだ片方の靴は、今までの自分を脱ぎ捨て、ピアノとともに置いてきたということでしょう、そして自力で浮上する。これが人生、これが生きることだ。
幸せは、自己中と言われようと自身で掴みに行くものだ、というこれもまた分かりやすいメッセージを感じました。
(個人的には、不倫しても、娘を良いように振り回しても、いっさいの罪悪感をもってないようなエイダがサイコパスのようでちょっと怖い)
その後、3人で幸せに暮らしている様が語られて、温かい気持ちで見終えることができた。
こういう話とは思わなかった。
海底に沈んだピアノに繋がった女性の姿にぎょっとしたけど、これは、ピアノと共に古い自分を沈めたエイダのイメージと思いました。
実は彼女は浮き上がれずに死んでいて、ということではないと思う
スチュアートの母だかおばだかが、エイダのピアノの弾き方が気持ち悪いようなことを言っていたが、私もそう思った。
不穏で気持ちをざわつかせるような、神経を逆なでするようなものに感じました。
ハーヴェイ・カイテルが悪徳警官とかイタリアン・マフィアとか、粗野で無神経、即物的なイメージなので、本作も「強引に美しい人妻を奪ったら、人妻も彼に溺れるようになった」ような話かと思ってしまったら、良い意味で裏切られた。
顔つきが、荒々しい中にも朴訥で思慮のあるジェントルマンぽく変わっており、さすが俳優。
演技だけでなく雰囲気までなりきる役者ぶりに感心しました。
疑問点
DVDで見ましたが、凄い映画でした。
ただ他の人も提示していると思いますが以下の疑問があります。
1.なぜホリーハンターはハーベイカイテルを好きになるのか
ピアノの回りを裸でうろついたり、ホリーハンターの腕を触ったり
足の間に潜り込もうとしたり、ハーベイカイテルは一見単なる変態で
す。なぜこんな男をホリーハンターは好きになるのでしょうか。
2.ホリーハンターとサムニールの関係
ホリーハンターが、サムニールのベッドに入り足に触れて、彼を「その気」にさせようとするシーンがありますが、その時はハーベイカイテルが好きになっていたはず。なぜこういう矛盾した行為をするのか理解できません。
3.死にたかったのかどうか
ホリーハンターとその娘、ハーベイカイテルらが船で島を脱出しますが、ピアノが海に落ちるシーンがあり、その時ピアノを船に結び付けていたロープにホリーハンターは自ら足を突っ込み、海に自分も落ちてしまいます。自殺しようとしたのかなと思ったら、自分でロープを足から外して浮かび上がり、助けられます。死にたかったのかどうか、これも私には謎のシーンでした。
途中までこの作品が大っ嫌い、、、 って思ってたけど複雑な人間の感情...
途中までこの作品が大っ嫌い、、、
って思ってたけど複雑な人間の感情が描かれていて
綺麗で女性の怒りに満ち溢れていてそしてその憎しみの解放になっていて、すごい映画だった。
セリーヌ・シアマの燃ゆる女の肖像が好きなのでこの作品から影響を感じた。
映画にて4Kリバイバル上映を鑑賞
閉塞的状況からの解放
噂にはかねがね、という有名な映画ではあるが今回が初鑑賞。
最初からラスト直前まで圧倒的に閉ざされ窮屈な状況が続く。
どんよりとした暗い海、打ち捨てられたピアノ、鬱蒼とした森の奥地での生活、望まない再婚、理解力に乏しい夫、枷のようなドレス・・・
そこにベインズがピアノを通じて突破口を与えてくれるのだが、どうもピアノ云々より結局性欲で通じ合った??という印象。
娘は勝手な母にいろいろ利用されて可哀想に思えた。
鑑賞時、べインズはマオリ族だと思っていたのでエイダと荒海を渡るエンディングでは、
「白人と結婚した有色人種の死」フラグを恐れていたが、生きて新生活を迎えてくれた点は良かった。
勝手にもう少し色々ピアノ音楽も聴けるかと期待していたが、そのような映画ではなかった。良く纏まっているのだが、個人的には観ていてどうも疲労感が溜り、何度もリピートしたいとは思えなかった。
19世紀半ばの物語。 エイダ(ホリー・ハンター)は6歳の頃にしゃべ...
19世紀半ばの物語。
エイダ(ホリー・ハンター)は6歳の頃にしゃべることを拒否し、その後は手話やピアノを弾くことで周囲とコミュニケーションをとって来た。
結婚し、娘も生まれたが、夫とは死別。
ニュージーランドの入植者スチュアート(サム・ニール)のもとに嫁ぐことになり、娘フローラ(アンナ・パキン)とともにスコットランドから移住してきた。
当然、エイダの魂ともいえるピアノとともに。
しかし、海岸まで迎えに来たスチュアートは、屋敷までの悪路を理由にエイダのピアノを海岸に放置していった・・・
というところからはじまる物語で、今回のリバイバル上映の予告編で流れるピアノ曲は、海岸に放置されたピアノをエイダが崖の上から眺めるシーンで初めて流れる。
この演出で、ピアノがエイダの魂・心であることが象徴され、スチュアートとエイダの関係が示されることになる。
数日のち、エイダはスチュアートが留守の際に、先に入植し、現地人との通訳も兼ねている粗野な地主ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)に頼み込んで、ピアノのある海岸までフローラとともに連れて行ってもらう。
久しぶりに自身の魂に触れたエイダは心からピアノを弾き、フローラは波打ち際で楽し気に踊る。
その様子を見ていたベインズは、エイダの人間的な表情に惹かれ、この女性を自分のものにしたいと願う。
ベインズは策を弄す。
自分の土地とピアノを交換しようとスチュアートに持ちかける。
エイダは、ピアノは自分のものだと主張するが、スチュアートは受け入れず、結果、ピアノはベインズのものになってしまう。
が、ベインズはエイダにとって、どれほどピアノが大事かを知っている。
エイダからピアノのレッスンを受けたいとスチュアートに持ち掛け、レッスンに来たエイダには、レッスンごとに鍵盤ひとつ分ずつエイダに返却すると申し出る。
しかも、自分に教えるのではなく、エイダの自由にピアノを弾いてよい、自分はそれを見るだけだ、と。
そして、奇妙なレッスンがはじまる・・・
と展開するわけだが、ここまでではエイダにとってピアノが魂・心であることは、ベインズは(たぶん)知らない。
大事なものだが、そこまでのものとは知らない。
が、観客はピアノがエイダの魂・心だと知っている。
エイダは自分の心を取り戻したいのだ。
エイダが欲しいベインズの要求は次第にエスカレートする。
弾いている腕に触らせろ、上半身のドレスを脱げ、スカートの裾をあげろ、と。
それまで禁欲的だったエイダは、ピアノを弾き、自分の魂を取り戻しつつある中で、異性に触れらることによって、性的な欲求が湧きだしてくる。
ここの描写、初公開時に観たときに、かなりエロティックと感じたわけです。
今回もエロスを感じたわけだが、こちらは歳をとった。
やや冷静に観れるようになり、ジェーン・カンピオンの演出に注目できるようになりました。
禁欲的な黒いドレスの上半身を取ったエイダの下着は白く、その対比が上手い。
ピアノを弾くエイダの腕に触れるベインズの手の描写も上手い、と。
この後の展開はドロドロの嫉妬の物語。
スチュアートもさることながら、これまでエイダを独占してきた娘フローラの疎外感は強くなり、エイダを裏切り、スチュアートに不貞を密告してしまう。
ピアノを介在してエイダの肉体を手に入れたベインズは、結果、エイダの心も手に入れる。
エイダも肉体が先だったかもしれないが、結果、閉じ込められていた心をベインズに対して解放する。
最終的には、エイダはピアノを弾く手にパッションを受けるわけだが、それを補完するものがベインズから与えられる。
これまで、エイダの閉じ込めらた魂・心の象徴だったピアノは、閉じ込められていたエイダとともに海の底に沈む。
いやぁすごい映画だった。
こんなにすごい映画だったとは、初公開時の若い自分にはわからなかった。
今年観た中では最上級の映画でした。
説得力のある名作だった
この作品が公開された1993年は映画凍結期であり今回が初見。キネ旬のベストワンになったのでメチャ気になっていた作品。
19世紀半ば、スコットランドからニュージーランドの孤島に嫁いだ口のきけないエイダ(ホリー・ハンター)、娘のフローラ(アンナ・パキン)と1台のピアノと共に。
夫となったスチュアート(サム・ニール)はエイダの命とも言えるピアノを土地と引き換えに地主のベインズ(ハーヴェイ・カイテル)に渡した。
エイダの心をベインズに引き渡すが如く。
レッスンと称しベインズのもとに通いピアノを弾くエイダ。
回数を重ねるほどに愛情あるいは欲情を募らせるベインズ。彼の思いを背中でもれなく受け取るエイダ。
渇望する二人がいた。甘美なピアノの音色とともにこの上ない前戯となった。
観る我々は最高のまぐわいであったことを確信する。
う〜ん、これは凄い。
全てが必然。
エイダと結ばれることなく嫉妬に狂いながらも二人を解放する夫と共にねじ伏せられた
なにこれ…全然綺麗な話じゃなかった
変態プレイを強要してきた人を好きになっちゃうってどういうこと?
そういうシチュエーションに興奮したってこと?
むしろ自分の大切なピアノを利用して近づいてきたことに怒るべきでは?
あんなに他人にピアノを触らせることを嫌っておきながら、調律してもらっただけで簡単に心開いてしまうのかい?
全然理解できん。
ピアノの音が言葉よりもこんなに雄弁だなんて…!という感動なんかどこにもないし、主人公にとってピアノがどれだけ大切な物なのかさえイマイチ伝わってこない。
そもそも嫁ぐ時にピアノを持っていくことを事前に相談していれば済んだ話にも思える。
娘の方がずっと大人だ。
絶対呼ばないと言っていたのに、ちゃんとパパと呼ぶようになったんだから。
どうしても、ヒステリーでひたすら自分勝手な主人公を最後まで好きになれなかった。
ピアノレッスンとマイケル・ナイマン
ピアノレッスン 4Kデジタルリマスター
兵庫県西宮市にある映画館TOHOシネマズ西宮OSにて鑑賞 2024年4月1日(月)
パンフレット入手
19世紀半ば、エイダ(ホリー・ハンター)は、まだ若い娘のフロラ(アンナ・パキン)とスコットランドに暮らしいた。エイダは6歳で話すことをやめた。その理由は自分でもわからなかったが、自分に声がないとは思っていない。得意とするピアノ演奏で"声"を奏でることができるからだ。
夫のいないエイダは、父親が決めた結婚相手と結婚することになる。エイダは愛用のピアノと共に、新しい夫となるスチュアート(サム・ニール)の住むスチュアート(サム・ニール)ニュージーランドの孤島へと船で旅立つ。
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エイダを乗せた船が海岸に到着するが、荒れた天候のせいか迎えはなく、その夜は野宿を強いられる。翌日、荷物運びの先住民たちと、彼らとの通訳を務めるベインズ(ハーヴェイ・カイテル)と共に現れたスチュアートは、ピアノは「重すぎる」からと、海岸に置き去りにする。
スチュアートが先住民の土地を買うための旅に出ると、エイダはフロラを連れてべインズの家を訪ね、ピアノの元へ連れていってくれと頼み込む。海辺に着いたエイダは、日が暮れるのも気にせず一心にピアノを弾く。べインズは黙って、その姿をを見つめるのだった。
帰ってきたスチュアートに、べインズは自分の土地とピアノを交換しないかと持ち掛ける。条件はピアノを教えてくれること。土地欲しさに同意したスチュアートに、エイダは手話で「私のピアノに触るな、べインズは字を読めないバカな男」と激怒する。だがスチュアートは「犠牲に耐えるのが家族だ」と聞く耳を持たない。
渋々べインズの家を訪ねたエイダは、フロラを通して「音の外れたピアノでは教えられない」と告げるが、べインズは調律師に頼んで音を直していた。さらにべインズは、彼女の演奏をただ聴いているだけでいいという。
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2回目の「レッスン」で、演奏中にべインズから不意にうなじにキスされ驚いて飛び上がるエイダに、べインズはある取引を提案する。1回来るごとに、鍵盤をひとつずつ返し、最終的にはピアノそのものを返すというのだ。エイダは思案した末、白鍵の半分に当たる黒鍵で数えるならいいと応じる。
その取引が何を指しているのか分かっていたエイダは、次のレッスンからフロラに外で遊んでいるようにと命じる。ある日のべインズは演奏中にスカートを上げるよう求め、別の日は上着を脱ぐようにと願う。エイダはべインズの言いなりにはならず、彼が露になった腕に触れようとしたときには、すかさず鍵盤2本との引き換えを要求する。
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そんな中、日曜学校の学芸会にフロラが出演することになり、スチュアートとエイダが舞台を見守る。スチュアートは愛想笑いの一つもしないエイダを、エイダは所有地を広げることにしか興味のないスチュアートを理解できず、二人は全く打ち解けていなかった、それでも人前では仲のいい夫婦のように振る舞う二人を見て傷ついていたべインズは、次のレッスンで10本の黒鍵と交換に裸になって触れ合うことを希う。
ところがべインズが突然、エイダにピアノを返すと告げる。「君を淫売にしては自分が情けない」と言う。自分がエイダに愛されることはないと諦めたべインズは「帰ってくれ」と悲しげに言い放つ。
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返されたピアノを、弾く気になれないエイダ。ようやく鍵盤に指をすべらせるが、べインズの熱い視線も慈しむような愛撫もそこにはない。弾かれたように家を飛び出し、べインズの元に走ったエイダに、べインズは君を思い過ぎてとてに苦しいと打ち明ける。「俺のことを思っていないなら行ってくれ」とドアを開けるべインズに、エイダは感情が溢れるままに殴りかかる。互いの気持ちを確かめた二人は激しく抱き合うが、フロラの言動から疑惑を抱いたスチュアートが、べインズの家を訪れ二人を目撃してしてしまう。
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「君が本気なら明日も来てくれ」とべインズに言われたエイダは、翌日も彼の元へと向かうが、スチュアートに阻止される。スチュアートはエイダを連れて帰ると、窓と扉をふさぎ家に閉じ込めている。数日後、スチュアートは扉を開放し、「君を信じている」と言い置いて仕事へと出かける。すると、べインズが島を去ると耳にしていたエイダは、「私の心はあなたのものよ」と刻んだ鍵盤を、べインズに届けるようフロラに頼むが、娘は母を裏切りそれうをスチュアートに渡してしまう。遂にスチュアートの怒りは限界を超え、手にしていた斧をエイダの指へ振り下ろすのだった。
ところが、夜になって事態は一変する。べインズの前に現れたスチュアートが、エイダの「何をするかがわからない自分の強い意志が怖い。べインズと一緒にここを立ち去らせて。彼なら私を救える」と訴える心の声に耐えられず、二人でサルことを許すというのだ。
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先住民の漕ぐ船に乗って、フロラとピアノと共に旅立つべインズとエイダ。海の上でエイダは突然、ピアノを捨てると言い張る。彼女に従ってピアノが海に投げこまれたその時、エイダは繋がれたロープの輪に自らの足を差し入れ共に海へと沈んでいくーーーー。
しかしその時、生きたいという強い力に突き動かされたエイダは、靴を脱ぎ捨て、水面へと浮かびあがる。
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今、エイダはべインズとフロラ、そして新しいピアノと北の町で暮らしている。べインズが作ってくれた銀の義指でピアノ教師をはじめ、再び話してみようと、発声練習をしている。
夜になると、エイダは海底の墓場のピアノを想い、その上をたたよう自分の姿を見る。二度と会うことのない自分の姿をー。
監督・脚本 ジェーン・カンピオン
音楽 マイケル・ナイマン
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感想など
わたしはマイケル・ナイマンのピアノ曲を前からずっと聞いていた。あまりにも美しすぎるメロディーに深く耽溺していた。スコアを入手、電子ピアノで演奏したりしていました。
映画「ピアノレッスン」は鑑賞していませんでしたので、ようやく会えたよと、エイダとその娘フロラ!
親子揃ってピアノ演奏・・・に感謝の思い。
マイケル・ナイマンの曲以外にも、演奏された曲があります。
フランス生まれの作曲家 エリック サティ「ジュ・トゥ・ヴ(Je te veux)(あなたが欲しい)」
この作品はほんとうは「THE PIANO」です。なので「ピアノレッスン」ではなく「ピアノ」ではとかんじています。
30年前の作品、30年ぶりに鑑賞です。再びBunkamuraで(改...
30年前の作品、30年ぶりに鑑賞です。再びBunkamuraで(改装中ですが)。
一つ一つの絵面や音が、あまりに力強く。
声を出すのをやめた女性ですが、
意志の強さ、
旋律と表情だけで喜怒哀楽が全て伝わる、
やっぱり圧倒的です。
それにしても、各場面の絵面の、力強さ。
ピアノが海岸に放置、
書面だけの夫とは、心を開くこともなく、表情も硬いまま、
再三の雷雨、
こっそり会いに行く山道、
などなど…。
男性側が、ただ亭主関白(ときに横暴)なだけではなく
心が聞こえたとか、
考え方の移ろいも、興味深いです。
愛と官能を教えて貰った
海辺に取り残されたピアノ
狂おしいまでにピアノと会話をして、
世界を閉ざしていたエイダ(ホリー・ハンター)
心を海辺に置き去りされたエイダに、
ピアノを自分の土地と引き換えに買い取り
レッスンを請うベインズ(ハーベイ・カイテル)に、
エイダはピアノを教える事になる。
ベインズには夫なったスチュワート(サム・ニール)とは
正反対の思い遣りがあった。
レッスンを受けるというベインズは、
レッスン毎に鍵盤を返して行くと提案する。
その代わりにお願いがあると言う、
エイダを宝物のように触れ、嗅ぎ、開かそうとする・・・
鍵盤を数個返すのと引き換えに服を脱げと頼むのだ。
(何という提案でしょう)
心を開かないエイダに絶望したベインズは、
「君を淫売にするのはあまりに自分が情けない」
ベインズは、レッスンをやめて、
無償でピアノをエイダに差し出す、
「俺を愛してないなら、消えてくれ」
突然ベインズとの時間と官能が嵐のように
エイダに湧き起こり、
二人は遂に魂と肉体を重ねてしまう
愛の歓び、官能、背徳、
しかし2人で紡ぐ愛はエイダを潤す
それはスチュワートへの裏切りだった
逆上したスチュワートはエイダの指を
切り落としてしまう
幼い娘のハンナ(アンナ・パキン)は泣きじゃくりながら
指をベインズに届ける
この映画は結果として「愛の歓び」を完結しています。
エイダはバインズと島を出て、ニュージーランドで
「愛の暮らし」を手に入れる
ハッピーエンドなのです。
【ピアノ】
ある人にとっては、
重くて、邪魔で、厄介なものが、
ある人にとっては、
大切な心の丈を託す命のようなもの
ピアノはエイダにとって愛そして言葉そのもの
バインズはいつだってエイダの声を聴き取ろうとした。
言葉を話せない人間にも、
伝えたい事、
エイダは受け取った愛を、
愛で返すことだって出来る。
【後記】
残念ながら、今回4Kデジタルマスター上映館で
観た訳ではありません。
数10年前に観た日の衝撃をずっと忘れずにいました。
エイダの主体的な愛とパインズとの官能描写に
衝撃を受けたのを思い出します。
19世紀半ばのニュージーランドの孤島に、嫁いで来た口を聞かない
シングルマザーと娘。
酔いしれたように没入する
マイケル・ナイマンのピアノと音楽。
毅然として夫を拒絶するホリー・ハンターの演じるエイダ
エイダの通訳でもある娘のハンナを演じるアンナ・パキン。
現地人との通訳をするネイティブとの混血のようなベインズを
演じるハーベイ・カイテルの裸体は饒舌にして実存する悪夢。
今でも新鮮な映画
代償を払っても手に入れる価値のある
《自由と愛》
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