ピアノ・レッスンのレビュー・感想・評価
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手が触れるかなしみ
手が触れると悲しくなるときがある。
強張った感触を得れば、〈あなた〉の声は美辞麗句を並べただけで、〈私〉を許してないことが分かるし、安心の感触はその柔らかさと共に〈あなた〉との隔たりを自覚させる。手は声よりも本当のことを語り、〈私〉と〈あなた〉がどこまでいっても一緒になれないことを告げる。その悲しみ。
エマニュエル・レヴィナスが同様のことを既に言っている。
「愛撫は、そこに存在するものを、いわばそこに存在しないものとして探求する。いうなれば、この場合、皮膚は自分自身の撤退の痕跡であり、それゆえ愛撫とは、このうえもなくそこに存在するものを、不在として探求し続ける焦慮なのだ。接触しつつも合致しえないということ、つまりは限りない露出(デニュダシオン)が愛撫である。隣人が隙間を埋めることはない。皮膚の柔らかさ、それは接近するものと接近されるものとの間隙にほかならず、この間隙は離散性、非志向性、非目的性である。その結果、愛撫の無秩序が、隔時性が、現在なき快楽が、憐憫が、苦悶が生じる。近さ、直接性、それは他人によって享受し、他人によって苦しむことである」(p.216 、 E.レヴィナス『存在の彼方へ』)
本作では「触れる」運動が重要だ。声を発しないエイダがピアノに触れる。夫のスチュアートがエイダに触れられる。スチュアートのビジネスパートナーのベインズやマオリ族の皆がピアノに触れる。その触れあいは、愛撫にも暴力にも転化する。しかしその時、嘘や本当が顕わになって、快楽と苦悶が生じる。
だから私は本作の嘘と愛撫と本当の〈声〉が発せられないスチュアートについて語りたい。
現在において、本作に触れた私は、本作について語られた多くのことが嘘のように思えてしまう。
「エイダは家父長制に抗った人物だ」「エイダはピアノの音色で声を発している」「エイダはセックスによる性的快楽で主体性を獲得した」「レッスンと引き換えに手に入れたのは、世界にひとりだけの「私」」「自分らしくありのままに生きようとするヒロイン像の原点」
このようなことを本作は描いていない。本作には嘘が多すぎる。そもそも「ピアノ・レッスン」が、ベインズがエイダに近づくための取引であり、嘘であるわけだし、娘のフロラがエイダの声を「翻訳」するが、でたらめといって過言ではない。劇中劇の影絵による斧の切断も嘘なのだ。
だから上述の語りをひとつひとつ検討すれば嘘はすぐに分かる。
エイダはスチュアートに対して妻として所有化を拒否しただけで、ベインズに対する所有化はむしろ望んでいるから家父長制に抗ったわけではない。
エイダは音としての声は発していないが、〈声〉は常に発している。それは手話としての身振りであり、何より「顔」だ。彼女の顔は声以上に多くのことを発している。さらにピアノの音色が代弁しているわけではない。なぜエイダは演奏中にベインズに弄られても「美しく」弾くのだろうか。その音声イメージを聴いても苦悶は読み取れない。むしろエイダが〈声〉を発するのは、ピアノから手を離し、演奏を中断し、後ろを振り向く顔でしかないだろう。
セックスによって主体性を獲得したのも間違いだと思う。それならば娘のフロラの存在やその関係をどう説明すればいいのだろう。エイダが「産む機械」としてフロラを出産したならば、なぜ前夫との出来事を楽しげに語り、娘と添い寝するほど親密なのだろうか。
別にレッスンと引き換えに「私」を手に入れたわけでもない。ピアノはエイダのモノであって、エイダ=ピアノの等号は成立する。だから、レッスンごとに黒鍵を手に入れて「私」を手に入れる≒取り戻すことは言える。けれどそれならば、なぜレッスンはベインズがエイダを「手に入れたこと」で中断し、ピアノは返されるのだろう。そこにエイダの家父長制に抗うアクションも努力も「主体性」も見出せない。
自分らしくありのまま生きようとしたわりには、社会規範から全く逃れていないし、「ありのまま」を「性愛に奔放」と捉えていいのだろうか。
本作には嘘が散見される。しかし私は嘘が決して悪いこととは思わないし、むしろ嘘と本当の混濁した様を巧みに描き、女性性以上に人間性を的確に語ったことが本作の素晴らしさだと思う。
フロラの翻訳はでたらめかもしれない。けれどエイダの本当の心情を語ってはいる。劇中劇の斧の切断は、観劇者のマオリ族に本当のことだと思わせ、劇と劇中劇の攪乱を行わせている。物語自体の「本当の」悲劇にも転じる。嘘は本当と化す。けれどベインズの〈声〉は、エイダを恋い焦がれる「本当」を語ると同時にセックス後、再会を望む騙りに転じる。本当もまた嘘に転じる。
本当と嘘の白黒は、ピアノの白鍵と黒鍵にリフレインされる。ピアノは白鍵と黒鍵の両方がなければ美しい音色は奏でられない。だから私たちもまた本当と嘘を奏でて生きていかなければならない。それこそ人間性だろう。そしてこのことを本作では衣装の白黒でも巧みに描いている。
エイダはポスタービジュアルのように日常生活では黒色のドレスを着飾る。それは本当を語らず、嘘で取り繕っていることだろう。けれどそれはスチュアートとの夫婦関係を穏便に済ませるひとつの手段であるし、スチュアートも髪を整え、取り繕うのだから誰しも日常生活で行っていることだ。しかし嘘は綻びるし、本当は現れてこない。本当との隔たりを生じさせ、訝りを生む。だから私たちは嘘の衣装を、幕を、ベールを脱がなければならない。それがエイダにとって、ベインズと出会うことやピアノ・レッスンであり、黒色のドレスから白色の下着への着替えだ。そして白色の素肌を露出させるのだ。
手が肌に触れる。愛撫し合う。その時、エイダは声を発せずとも、手が、顔が、肌が〈声〉を発する。その〈声〉はベインズに本当のことを語る。それはエイダにとって喜びであるが、スチュアートではなくベインズであることに物語上の悲しみが伴う。
本作で最も〈声〉を発していないのはスチュアートだ。スチュアートが家父長制の表象であることも嘘だと思っている。それはラストにさしかかるスチュアートがエイダの指を斧で切断させる暴力性に裏打ちされている。しかし彼がそのようなアクションに向かってしまったのは日常生活で家父長らしく振る舞えずエイダを支配できなかったからだ。スチュアートはエイダの嘘を、影を、背後をみれない。彼はエイダが声を発しないから、正面を向かざるを得ない。しかしそれも二人の結婚記念写真のように互いが正面を向いても、視線が交わることはない。結局、スチュアートは何もみていないし、本当のことを言い出せない。本当はエイダがピアノを弾く後ろ姿をみなくてはいけないのに、本当ではない予感に、訝りに拘泥してしまっている。
エイダはスチュアートに背後をみせないのだが、スチュアートはエイダに背後をみせる。それは、寝ているスチュアートの背後をエイダが触れる時だ。
スチュアートは訝しむ。なぜ触れてくるのかと。手を繋ぐことはできたけど、キスすることもセックスもできていないのに。触れられる快楽はある。けれどその快楽はすぐに過ぎ去り、訝りに転じる。なぜ触ってくるのか?これはエイダなりの愛情表現であり愛撫なのか?私はエイダに許されているのか?なら私も触っていいのか?と。けれどその出来事をみた私たち観賞者は分かる。エイダはスチュアートの肌でベインズの不在を、その痕跡を触っていることに。スチュアートはベインズになれないし、スチュアートとエイダも一緒になれない。深い悲しみが横たわっている。そして何よりスチュアートはエイダに素肌をみせることができない。本当を曝け出すことができない。ならば黒色の衣装を纏ったままのスチュアートがエイダを「貫く」ことも、衣服を着たままの野外でのセックスが未遂に終わることも必然なのだ。
だから本作が悲劇に転じたのは、エイダがありのままに生きたからではなく、スチュアートがありのままに生きられなかったからだと捉えることはできるだろう。
そしてラストは真偽を放擲させている印象を感じてしまう。エイダが死んだとしても、水中に沈む彼女は衣服を着たままだから嘘のように思えるが、光が射しているから本当とも思える。エイダが生きているとしても、彼女は別のピアノと等号が成立しているし、家には白いカーテンがあるから本当のように思えるが、彼女が纏うベールは黒色だから嘘のように思える。死んだのならば彼女がナレーションとして語る時間はどこに存在するのだろうか。けれどそれが映画なのかもしれない。
白黒は別にもある。それは私たち観客が溶け込む闇の劇場とスクリーンの白だ。私たちはエイダがピアノを弾くように、正面を向いて本作をみなければならない。映されたものは本当だ。では私たちの生きる時間は嘘なのか。嘘と本当が混濁している。訝りが生じる。本当が背後にあるかもしれない。私たちはどこまでいっても本作に触れることはできない。触れたことを知覚することと同一化して語る/騙るしかできない。それもまた悲しみかもしれない。でも必要なのはスチュアートができなかった背後をみることと本当を曝け出すことだ。スクリーンの背後にある本当をみること、曝け出すこと、それだけが私たちの生が悲劇に転じない手立てかもしれない。これが本作で描かれていることだ。
疑問点
DVDで見ましたが、凄い映画でした。
ただ他の人も提示していると思いますが以下の疑問があります。
1.なぜホリーハンターはハーベイカイテルを好きになるのか
ピアノの回りを裸でうろついたり、ホリーハンターの腕を触ったり
足の間に潜り込もうとしたり、ハーベイカイテルは一見単なる変態で
す。なぜこんな男をホリーハンターは好きになるのでしょうか。
2.ホリーハンターとサムニールの関係
ホリーハンターが、サムニールのベッドに入り足に触れて、彼を「その気」にさせようとするシーンがありますが、その時はハーベイカイテルが好きになっていたはず。なぜこういう矛盾した行為をするのか理解できません。
3.死にたかったのかどうか
ホリーハンターとその娘、ハーベイカイテルらが船で島を脱出しますが、ピアノが海に落ちるシーンがあり、その時ピアノを船に結び付けていたロープにホリーハンターは自ら足を突っ込み、海に自分も落ちてしまいます。自殺しようとしたのかなと思ったら、自分でロープを足から外して浮かび上がり、助けられます。死にたかったのかどうか、これも私には謎のシーンでした。
途中までこの作品が大っ嫌い、、、 って思ってたけど複雑な人間の感情...
途中までこの作品が大っ嫌い、、、
って思ってたけど複雑な人間の感情が描かれていて
綺麗で女性の怒りに満ち溢れていてそしてその憎しみの解放になっていて、すごい映画だった。
セリーヌ・シアマの燃ゆる女の肖像が好きなのでこの作品から影響を感じた。
映画にて4Kリバイバル上映を鑑賞
閉塞的状況からの解放
噂にはかねがね、という有名な映画ではあるが今回が初鑑賞。
最初からラスト直前まで圧倒的に閉ざされ窮屈な状況が続く。
どんよりとした暗い海、打ち捨てられたピアノ、鬱蒼とした森の奥地での生活、望まない再婚、理解力に乏しい夫、枷のようなドレス・・・
そこにベインズがピアノを通じて突破口を与えてくれるのだが、どうもピアノ云々より結局性欲で通じ合った??という印象。
娘は勝手な母にいろいろ利用されて可哀想に思えた。
鑑賞時、べインズはマオリ族だと思っていたのでエイダと荒海を渡るエンディングでは、
「白人と結婚した有色人種の死」フラグを恐れていたが、生きて新生活を迎えてくれた点は良かった。
勝手にもう少し色々ピアノ音楽も聴けるかと期待していたが、そのような映画ではなかった。良く纏まっているのだが、個人的には観ていてどうも疲労感が溜り、何度もリピートしたいとは思えなかった。
19世紀半ばの物語。 エイダ(ホリー・ハンター)は6歳の頃にしゃべ...
19世紀半ばの物語。
エイダ(ホリー・ハンター)は6歳の頃にしゃべることを拒否し、その後は手話やピアノを弾くことで周囲とコミュニケーションをとって来た。
結婚し、娘も生まれたが、夫とは死別。
ニュージーランドの入植者スチュアート(サム・ニール)のもとに嫁ぐことになり、娘フローラ(アンナ・パキン)とともにスコットランドから移住してきた。
当然、エイダの魂ともいえるピアノとともに。
しかし、海岸まで迎えに来たスチュアートは、屋敷までの悪路を理由にエイダのピアノを海岸に放置していった・・・
というところからはじまる物語で、今回のリバイバル上映の予告編で流れるピアノ曲は、海岸に放置されたピアノをエイダが崖の上から眺めるシーンで初めて流れる。
この演出で、ピアノがエイダの魂・心であることが象徴され、スチュアートとエイダの関係が示されることになる。
数日のち、エイダはスチュアートが留守の際に、先に入植し、現地人との通訳も兼ねている粗野な地主ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)に頼み込んで、ピアノのある海岸までフローラとともに連れて行ってもらう。
久しぶりに自身の魂に触れたエイダは心からピアノを弾き、フローラは波打ち際で楽し気に踊る。
その様子を見ていたベインズは、エイダの人間的な表情に惹かれ、この女性を自分のものにしたいと願う。
ベインズは策を弄す。
自分の土地とピアノを交換しようとスチュアートに持ちかける。
エイダは、ピアノは自分のものだと主張するが、スチュアートは受け入れず、結果、ピアノはベインズのものになってしまう。
が、ベインズはエイダにとって、どれほどピアノが大事かを知っている。
エイダからピアノのレッスンを受けたいとスチュアートに持ち掛け、レッスンに来たエイダには、レッスンごとに鍵盤ひとつ分ずつエイダに返却すると申し出る。
しかも、自分に教えるのではなく、エイダの自由にピアノを弾いてよい、自分はそれを見るだけだ、と。
そして、奇妙なレッスンがはじまる・・・
と展開するわけだが、ここまでではエイダにとってピアノが魂・心であることは、ベインズは(たぶん)知らない。
大事なものだが、そこまでのものとは知らない。
が、観客はピアノがエイダの魂・心だと知っている。
エイダは自分の心を取り戻したいのだ。
エイダが欲しいベインズの要求は次第にエスカレートする。
弾いている腕に触らせろ、上半身のドレスを脱げ、スカートの裾をあげろ、と。
それまで禁欲的だったエイダは、ピアノを弾き、自分の魂を取り戻しつつある中で、異性に触れらることによって、性的な欲求が湧きだしてくる。
ここの描写、初公開時に観たときに、かなりエロティックと感じたわけです。
今回もエロスを感じたわけだが、こちらは歳をとった。
やや冷静に観れるようになり、ジェーン・カンピオンの演出に注目できるようになりました。
禁欲的な黒いドレスの上半身を取ったエイダの下着は白く、その対比が上手い。
ピアノを弾くエイダの腕に触れるベインズの手の描写も上手い、と。
この後の展開はドロドロの嫉妬の物語。
スチュアートもさることながら、これまでエイダを独占してきた娘フローラの疎外感は強くなり、エイダを裏切り、スチュアートに不貞を密告してしまう。
ピアノを介在してエイダの肉体を手に入れたベインズは、結果、エイダの心も手に入れる。
エイダも肉体が先だったかもしれないが、結果、閉じ込められていた心をベインズに対して解放する。
最終的には、エイダはピアノを弾く手にパッションを受けるわけだが、それを補完するものがベインズから与えられる。
これまで、エイダの閉じ込めらた魂・心の象徴だったピアノは、閉じ込められていたエイダとともに海の底に沈む。
いやぁすごい映画だった。
こんなにすごい映画だったとは、初公開時の若い自分にはわからなかった。
今年観た中では最上級の映画でした。
説得力のある名作だった
この作品が公開された1993年は映画凍結期であり今回が初見。キネ旬のベストワンになったのでメチャ気になっていた作品。
19世紀半ば、スコットランドからニュージーランドの孤島に嫁いだ口のきけないエイダ(ホリー・ハンター)、娘のフローラ(アンナ・パキン)と1台のピアノと共に。
夫となったスチュアート(サム・ニール)はエイダの命とも言えるピアノを土地と引き換えに地主のベインズ(ハーヴェイ・カイテル)に渡した。
エイダの心をベインズに引き渡すが如く。
レッスンと称しベインズのもとに通いピアノを弾くエイダ。
回数を重ねるほどに愛情あるいは欲情を募らせるベインズ。彼の思いを背中でもれなく受け取るエイダ。
渇望する二人がいた。甘美なピアノの音色とともにこの上ない前戯となった。
観る我々は最高のまぐわいであったことを確信する。
う〜ん、これは凄い。
全てが必然。
エイダと結ばれることなく嫉妬に狂いながらも二人を解放する夫と共にねじ伏せられた
なにこれ…全然綺麗な話じゃなかった
変態プレイを強要してきた人を好きになっちゃうってどういうこと?
そういうシチュエーションに興奮したってこと?
むしろ自分の大切なピアノを利用して近づいてきたことに怒るべきでは?
あんなに他人にピアノを触らせることを嫌っておきながら、調律してもらっただけで簡単に心開いてしまうのかい?
全然理解できん。
ピアノの音が言葉よりもこんなに雄弁だなんて…!という感動なんかどこにもないし、主人公にとってピアノがどれだけ大切な物なのかさえイマイチ伝わってこない。
そもそも嫁ぐ時にピアノを持っていくことを事前に相談していれば済んだ話にも思える。
娘の方がずっと大人だ。
絶対呼ばないと言っていたのに、ちゃんとパパと呼ぶようになったんだから。
どうしても、ヒステリーでひたすら自分勝手な主人公を最後まで好きになれなかった。
ピアノレッスンとマイケル・ナイマン
ピアノレッスン 4Kデジタルリマスター
兵庫県西宮市にある映画館TOHOシネマズ西宮OSにて鑑賞 2024年4月1日(月)
パンフレット入手
19世紀半ば、エイダ(ホリー・ハンター)は、まだ若い娘のフロラ(アンナ・パキン)とスコットランドに暮らしいた。エイダは6歳で話すことをやめた。その理由は自分でもわからなかったが、自分に声がないとは思っていない。得意とするピアノ演奏で"声"を奏でることができるからだ。
夫のいないエイダは、父親が決めた結婚相手と結婚することになる。エイダは愛用のピアノと共に、新しい夫となるスチュアート(サム・ニール)の住むスチュアート(サム・ニール)ニュージーランドの孤島へと船で旅立つ。
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エイダを乗せた船が海岸に到着するが、荒れた天候のせいか迎えはなく、その夜は野宿を強いられる。翌日、荷物運びの先住民たちと、彼らとの通訳を務めるベインズ(ハーヴェイ・カイテル)と共に現れたスチュアートは、ピアノは「重すぎる」からと、海岸に置き去りにする。
スチュアートが先住民の土地を買うための旅に出ると、エイダはフロラを連れてべインズの家を訪ね、ピアノの元へ連れていってくれと頼み込む。海辺に着いたエイダは、日が暮れるのも気にせず一心にピアノを弾く。べインズは黙って、その姿をを見つめるのだった。
帰ってきたスチュアートに、べインズは自分の土地とピアノを交換しないかと持ち掛ける。条件はピアノを教えてくれること。土地欲しさに同意したスチュアートに、エイダは手話で「私のピアノに触るな、べインズは字を読めないバカな男」と激怒する。だがスチュアートは「犠牲に耐えるのが家族だ」と聞く耳を持たない。
渋々べインズの家を訪ねたエイダは、フロラを通して「音の外れたピアノでは教えられない」と告げるが、べインズは調律師に頼んで音を直していた。さらにべインズは、彼女の演奏をただ聴いているだけでいいという。
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2回目の「レッスン」で、演奏中にべインズから不意にうなじにキスされ驚いて飛び上がるエイダに、べインズはある取引を提案する。1回来るごとに、鍵盤をひとつずつ返し、最終的にはピアノそのものを返すというのだ。エイダは思案した末、白鍵の半分に当たる黒鍵で数えるならいいと応じる。
その取引が何を指しているのか分かっていたエイダは、次のレッスンからフロラに外で遊んでいるようにと命じる。ある日のべインズは演奏中にスカートを上げるよう求め、別の日は上着を脱ぐようにと願う。エイダはべインズの言いなりにはならず、彼が露になった腕に触れようとしたときには、すかさず鍵盤2本との引き換えを要求する。
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そんな中、日曜学校の学芸会にフロラが出演することになり、スチュアートとエイダが舞台を見守る。スチュアートは愛想笑いの一つもしないエイダを、エイダは所有地を広げることにしか興味のないスチュアートを理解できず、二人は全く打ち解けていなかった、それでも人前では仲のいい夫婦のように振る舞う二人を見て傷ついていたべインズは、次のレッスンで10本の黒鍵と交換に裸になって触れ合うことを希う。
ところがべインズが突然、エイダにピアノを返すと告げる。「君を淫売にしては自分が情けない」と言う。自分がエイダに愛されることはないと諦めたべインズは「帰ってくれ」と悲しげに言い放つ。
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返されたピアノを、弾く気になれないエイダ。ようやく鍵盤に指をすべらせるが、べインズの熱い視線も慈しむような愛撫もそこにはない。弾かれたように家を飛び出し、べインズの元に走ったエイダに、べインズは君を思い過ぎてとてに苦しいと打ち明ける。「俺のことを思っていないなら行ってくれ」とドアを開けるべインズに、エイダは感情が溢れるままに殴りかかる。互いの気持ちを確かめた二人は激しく抱き合うが、フロラの言動から疑惑を抱いたスチュアートが、べインズの家を訪れ二人を目撃してしてしまう。
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「君が本気なら明日も来てくれ」とべインズに言われたエイダは、翌日も彼の元へと向かうが、スチュアートに阻止される。スチュアートはエイダを連れて帰ると、窓と扉をふさぎ家に閉じ込めている。数日後、スチュアートは扉を開放し、「君を信じている」と言い置いて仕事へと出かける。すると、べインズが島を去ると耳にしていたエイダは、「私の心はあなたのものよ」と刻んだ鍵盤を、べインズに届けるようフロラに頼むが、娘は母を裏切りそれうをスチュアートに渡してしまう。遂にスチュアートの怒りは限界を超え、手にしていた斧をエイダの指へ振り下ろすのだった。
ところが、夜になって事態は一変する。べインズの前に現れたスチュアートが、エイダの「何をするかがわからない自分の強い意志が怖い。べインズと一緒にここを立ち去らせて。彼なら私を救える」と訴える心の声に耐えられず、二人でサルことを許すというのだ。
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先住民の漕ぐ船に乗って、フロラとピアノと共に旅立つべインズとエイダ。海の上でエイダは突然、ピアノを捨てると言い張る。彼女に従ってピアノが海に投げこまれたその時、エイダは繋がれたロープの輪に自らの足を差し入れ共に海へと沈んでいくーーーー。
しかしその時、生きたいという強い力に突き動かされたエイダは、靴を脱ぎ捨て、水面へと浮かびあがる。
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今、エイダはべインズとフロラ、そして新しいピアノと北の町で暮らしている。べインズが作ってくれた銀の義指でピアノ教師をはじめ、再び話してみようと、発声練習をしている。
夜になると、エイダは海底の墓場のピアノを想い、その上をたたよう自分の姿を見る。二度と会うことのない自分の姿をー。
監督・脚本 ジェーン・カンピオン
音楽 マイケル・ナイマン
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感想など
わたしはマイケル・ナイマンのピアノ曲を前からずっと聞いていた。あまりにも美しすぎるメロディーに深く耽溺していた。スコアを入手、電子ピアノで演奏したりしていました。
映画「ピアノレッスン」は鑑賞していませんでしたので、ようやく会えたよと、エイダとその娘フロラ!
親子揃ってピアノ演奏・・・に感謝の思い。
マイケル・ナイマンの曲以外にも、演奏された曲があります。
フランス生まれの作曲家 エリック サティ「ジュ・トゥ・ヴ(Je te veux)(あなたが欲しい)」
この作品はほんとうは「THE PIANO」です。なので「ピアノレッスン」ではなく「ピアノ」ではとかんじています。
30年前の作品、30年ぶりに鑑賞です。再びBunkamuraで(改...
30年前の作品、30年ぶりに鑑賞です。再びBunkamuraで(改装中ですが)。
一つ一つの絵面や音が、あまりに力強く。
声を出すのをやめた女性ですが、
意志の強さ、
旋律と表情だけで喜怒哀楽が全て伝わる、
やっぱり圧倒的です。
それにしても、各場面の絵面の、力強さ。
ピアノが海岸に放置、
書面だけの夫とは、心を開くこともなく、表情も硬いまま、
再三の雷雨、
こっそり会いに行く山道、
などなど…。
男性側が、ただ亭主関白(ときに横暴)なだけではなく
心が聞こえたとか、
考え方の移ろいも、興味深いです。
愛と官能を教えて貰った
海辺に取り残されたピアノ
狂おしいまでにピアノと会話をして、
世界を閉ざしていたエイダ(ホリー・ハンター)
心を海辺に置き去りされたエイダに、
ピアノを自分の土地と引き換えに買い取り
レッスンを請うベインズ(ハーベイ・カイテル)に、
エイダはピアノを教える事になる。
ベインズには夫なったスチュワート(サム・ニール)とは
正反対の思い遣りがあった。
レッスンを受けるというベインズは、
レッスン毎に鍵盤を返して行くと提案する。
その代わりにお願いがあると言う、
エイダを宝物のように触れ、嗅ぎ、開かそうとする・・・
鍵盤を数個返すのと引き換えに服を脱げと頼むのだ。
(何という提案でしょう)
心を開かないエイダに絶望したベインズは、
「君を淫売にするのはあまりに自分が情けない」
ベインズは、レッスンをやめて、
無償でピアノをエイダに差し出す、
「俺を愛してないなら、消えてくれ」
突然ベインズとの時間と官能が嵐のように
エイダに湧き起こり、
二人は遂に魂と肉体を重ねてしまう
愛の歓び、官能、背徳、
しかし2人で紡ぐ愛はエイダを潤す
それはスチュワートへの裏切りだった
逆上したスチュワートはエイダの指を
切り落としてしまう
幼い娘のハンナ(アンナ・パキン)は泣きじゃくりながら
指をベインズに届ける
この映画は結果として「愛の歓び」を完結しています。
エイダはバインズと島を出て、ニュージーランドで
「愛の暮らし」を手に入れる
ハッピーエンドなのです。
【ピアノ】
ある人にとっては、
重くて、邪魔で、厄介なものが、
ある人にとっては、
大切な心の丈を託す命のようなもの
ピアノはエイダにとって愛そして言葉そのもの
バインズはいつだってエイダの声を聴き取ろうとした。
言葉を話せない人間にも、
伝えたい事、
エイダは受け取った愛を、
愛で返すことだって出来る。
【後記】
残念ながら、今回4Kデジタルマスター上映館で
観た訳ではありません。
数10年前に観た日の衝撃をずっと忘れずにいました。
エイダの主体的な愛とパインズとの官能描写に
衝撃を受けたのを思い出します。
19世紀半ばのニュージーランドの孤島に、嫁いで来た口を聞かない
シングルマザーと娘。
酔いしれたように没入する
マイケル・ナイマンのピアノと音楽。
毅然として夫を拒絶するホリー・ハンターの演じるエイダ
エイダの通訳でもある娘のハンナを演じるアンナ・パキン。
現地人との通訳をするネイティブとの混血のようなベインズを
演じるハーベイ・カイテルの裸体は饒舌にして実存する悪夢。
今でも新鮮な映画
代償を払っても手に入れる価値のある
《自由と愛》
とんでもなく愛すべき映画だった
素晴らしかった
もう笑ってしまうくらいに素晴らしかった
鑑賞後もとんでもなく幸せな気分でにやにやしながら帰った。
もう、ジェーン・カンピオンを敬服します。
心から崇めたい
倫理と映画は切り離せないものだけど、
ここまで真っ当から描き切り、
エイダの眼差しを観てしまっては何も言えない。
ピアノと共に海に沈むシーンでは
もう口あんぐりでしたよ。
ここまでやってくれたらもうオールタイムベストです。
しかも、エイダは沈まずに這い上がってくるという。
それが出来るのが人間だからね。
あの上品な妖めかしさを、
ピアノを使ってあれ以上に表現できる人はいないよ。
それでもって笑えるんだから、すごいよね。
人の欲望を見ちゃうと笑っちゃうのかね。なんだろうね。
私が観ると名作とは思えない作品だった。映画料金分は元が取れる。
各映画祭で受賞しているし、日本公開時話題となった映画だ。但し、私は見る気持ちが全く起きなかった。指を切断する場面があるとラジオで聞いて、残虐シーン嫌いな私は怖気づいてしまった。
4Kデジタルリマスターで上映される機会に観ることにした。
再婚した主婦が夫の友人と不倫に走る物語だった。まぁ、どこにでもある話だが、事故で声を失ってしまった歌手の設定が、珍しかった。アイデアはいい。ピアノを奏でることで、主人公は精神の均衡を保っている。ピアノが彼女の失った声の替わりである。
一番肝心な不倫する2人の恋愛の始まりが良くわからない。友人の追恋慕だと思うが、それに応えていく主人公の心得て変わりが良くわからない。これは脚本に問題があると私は感じた。俳優達の演技は良い。脚本は監督が書いているから、監督の責任だろう。
それと音楽を担当したマイケル・ナイマンだが、私には優れた音楽には思えない。管弦楽は及第点を与えてもいいが、ピアノソロの音楽は私には平凡だった。
ハリー・ハンターは角度を変えると、私の好きなジェニファー・コネリーに似ている。邦題名は「ピアノレッスン」。映画を見終わると原題通りの「ピアノ」にした方が作品の内容を表している。主人公の頑なとなった心にを暗喩しているからだ。私にはそう思えた。
ギリシャ神話
苦手なジャンルなのだが、予告編にすごく惹かれたので観ることにした。
チャタレイ夫人的な?
今の時代だったら違う表現になっただろうなー、と思うところが多々あり、ここ最近で急激に男女観が変わったということを思った。
男ならではの愚かさ、女ならではの愚かさ、というのを描くとステレオタイプだと批判されてしまう昨今だけども、ぼくはそういう物語も抒情的で良いと思う。
主人公の病的で耽美な演技も良いのだけど、娘の明るく無邪気な感じもとても良い。
美しい母子というのは、ギリシャ神話のアフロディーテーとエロスを連想する。
娘が天使の翼をしょっているのでなおさら。
アフロディーテーは愛と美と性を司る、海の泡から誕生した女神である。
主人公がその美しさで男性たちを魅了したり、海からやってきて海に還っていくのも、主人公が美の神であるという暗喩だろうか。
また、アフロディーテーとエロスは怪獣におそわれたときに魚に変身し、逃げた、という物語がある。このとき、母子がはなればなれにならないように、「ひも」で結んだ。この「ひも」で結ばれた二匹の魚の姿が魚座の由来になったという。最後、主人公とピアノを結んだ「ひも」を思わせる。
言葉を話せないとか、黒鍵の数だけ来るように約束させるとかも、なんか神話っぽくていい。
最後、「悲劇」ではなく、「再生」の物語になるところも良かった。ピアノは海中に捨てられることによって、永遠になったのだなあ、というか…。「タイタニック」のエンディングを思わせる。
愛とは美しくて醜い
予備知識なく鑑賞。
そのためもっとピアノにフォーカスした作品かと思っていて、しかし恋愛.不倫でやや嫌悪感を抱きながら最後まで鑑賞してしまった。
大切なピアノを海辺に置き去りにされたエイダの気持ちも、海辺へ連れて行き陽が沈むまでピアノを弾かせ、そして調律しエイダに自由に奏でさせるベインズにエイダが惹かれていくのも理解できるが共感までは難しい。
不快感を感じたのはベインズがいやらしいから。エイダが家族を犠牲にしてでもベインズを追いかけるから。でも人間の欲望とは通常人に見せないだけで、本来はあんなものなのかもしれない。。
愛とは美しくて醜いもの。
愛って生々しい。
理性を無くしてまで愛せるなんて愛は怖い。
映像はアートのようで美しかった、
エイダもとても美しかった。
そして最後のシーンがとても印象的。
あの最後を観れたことで、この作品の美しさを少し分かったような気がした。
モヤモヤと鑑賞していた途中、最後のあのシーンで何だか全てを許せた気になれた美しい終わり方だった。
スチュアート夫人の恋人、または、NZ南島の精霊
観たか未見かの記憶さえ曖昧な作品がかなりあるのだが、本作もその一つ。
『海の上のピアニスト』の方は観たところ、どうやら再見らしいと結論したが、本作は、たぶん初見っぽい。
マイケル・ナイマンのテーマ曲だけは、聴き馴染んだ、いわゆる知ってる曲だったが、本作サントラは全世界で300万枚以上の売上げを記録した大ヒット曲だったので、未見でも知ってて可笑しくはない。
クラシック絡みの作品だなと思って気にはなってたけど、ちょうど今の仕事に就いて忙しい時期だったんで観られなかったんじゃないかと思う。
で、とにかく観はじめると驚くことばかり。
主人公エイダ(ホリー・ハンター 公開時34歳)が発話障がい者であること、
彼女はスコットランド生まれながら、一女フロラ(アンナ・パキン 10歳)を連れて(未婚の母か再婚かは説明されない)、嫁入り先として海を越えて渡ったニュージーランドが舞台であること、
も初めて知って驚いた。
荒れ狂う波が寄せ来る浜辺で、エイダがピアノを弾く姿や、その遠景、
器械体操よろしくフロラがクルクルと回転する様子の構図が美しいな、幻想味があるな、アートだな、
と思って観てたら、もっと驚く展開が待ってた。
‥‥邦題にもなってる「ピアノ・レッスン」は真のメインテーマでは全然なかった。
本当の主題は、スチュアート(サム・ニール 45歳)夫人となったエイダと通訳のベインズ(ハーヴェイ・カイテル 53歳)との性愛のレッスンだったってことだ。
*最後まで、入墨姿のベインズはマオリ(族)だと思って観ていたが、パンフレットの原田真見北大准教授によると白人でありながら自らマオリの世界に入って行った人物であるようだ。
それより、演じているのは、かのタランティーノの出世作『レザボア・ドッグス』(1991年)のいかついMr.ホワイト、ハーヴェイ・カイテルではないか!
どうも、どこかで観たような顔だけど、マオリの俳優って知らないしなぁ、とか思ってたら、その前提からして間違ってたって訳だった。
最初は、エイダが命より大事にしていたピアノをスチュアートが浜辺に放ったままにしておいたのを譲り受けて、まぁ本当にエイダのピアノ・レッスンを始める‥
ってか、実際は、彼女にだけ演奏させて、その姿を情欲の目で眺めることを日課にし始める訳だけれど‥‥
ここまで、妻となるエイダの意志を全く尊重しようとしないスチュアートも無理なら、
この人妻を我が家に通わせて肉欲の対象とするベインズも、「無ぅ理ぃっ!」てな感じで、‥
ベインズがひとり全裸になって着ていた肌着でピアノ全体を撫でまわすように拭き始めたのを観て、
なにぃッ、この変態はッ、
って思ってたら、いよいよエイダに、
裸になってこっち来い、
ってなるし、‥‥
‥‥かと思ったら、その様子を夫スチュアートが床下に潜んでうかがうだけで、介入して止めようともしないし、‥‥
何じゃ、こりゃ、変態映画か、
ってな感じで、‥‥
‥‥仕舞いには、エイダ本人から進んで、ベインズとセックスしに行くようになるし、
それを幼いフロラがしっかり覗き見るし、 エイダはベインズへの伝令役としてフロラを使おうとするしで、‥‥
もう、このあたりまでは、
何だか障がい者をエロの対象としてもてあそんでるし、
(ベインズがマオリだと思ってたんで)レイシズムを悪用した発情シーンがヤマ場になるわ、
子どもに不倫セックスを見せるわ、
で、
出て来る登場人物、主人公のエイダ含めて皆んな変態ちっくでマトモな人間ひとりもいないし、
と、いくら名作の誉れ高かろうと、パルムドール受賞作だろうと、スコア2点台は決定だな、の勢いではありました。
スチュアートは、てっきり性的不能者なのかな、と思ってたら、突然、エイダの方から性的な愛撫を受けるようになって一応喜んではいるし(でも、自らそれ以上に進もうとしないから不能説もまだありかも知れないが‥ まぁチャタレー夫人の要素はあるかな、と)、‥‥
それなのにスチュアート、エイダが、ピアノのハンマー抜いて、ベインズへの愛を伝えようとしたことを知ると怒り狂って、彼女の指を斧で斬り落とすし、‥‥
何ちゃら島の精霊かって‥
で、ああ、こりゃダメだ、この映画はッ、
て思いかけたところで、急転直下、
ベインズの家を訪ねたスチュアートが、曰く、
俺は、エイダが話す言葉が、この頭の中で聴こえたんだ。
エイダが本当に愛しているのはベインズ、お前だってことが、さ。
で、本当に、スチュアート、エイダをベインズのもとに送り出した。
‥‥ えッ?
これって、ハッピィエンドだったん??
マオリの伝統的な舟で、北(首都ウェリントンのあるノースアイランドならむ)に向かうベインズとエイダ。
エイダの大切なものだからと、横幅の狭いマオリの舟に、ピアノを無理に載せている。
エイダは、
もう壊れてるから要らない、海に捨ててよ、
ということで、ピアノを海に投じると、
それに引っ張られて解けた縄がエイダの足に絡んで、
ドボーンッ!
あぁ、やっぱりバッドエンドなのね、
って思ってたら‥
What a death !
What a chance !
What a surprise !
のナレーションとともに、エイダは自力で波の上に泳ぎあがり‥‥
無事ふたりはノースアイランドで、仲睦まじい夫婦となって、ピアノ・レッスンを糧とする生活を送るのでありました。
と本当に、ハッピィエンドで、めでたし、めでたし。
やれ、障がい者差別じゃないか、レイシズムじゃないか、登場人物みんなマトモじゃない、
とか思い込んでたら、障がいの壁も、民族の壁(ベインズが白人だとしても入墨して自らマオリとなったので)も乗り越えて、スチュアート(彼のその後は描かれないが)も、エイダも、ベインズも、最後には、ベストの選択をして、自ら望んだ幸福をつかみ取ったという結果に、まぁ、正直、うならざるを得なかった訳です。
とにかく望まない結婚に始まった不幸が、 エイダの、発話障がいも、不倫のそしりも、ドロドロのぬかるみも、物ともしない強い意志と行動によって、スチュアートをはじめとする全てを動かし、幸福に反転していく、っていう展開は、あっぱれと言わなくてはならないでしょう。
してやられたなぁ、って。
これは、3.5 以上でないと公平じゃないよなぁ、って。
脚本も自ら書いたジェーン・カンピオン監督(1954- )、女性監督初のパルムドールですって。
さすがは、カンヌです。
そうそう、マオリの血も引くNZのタイカ・ワイティティ監督の『ネクスト・ゴール・ウィンズ』にファファフィネと呼ばれるサモアの第三の性が出て来ましたけど、本作でもマオリのそれが登場してましたね。
ではまた。
ホリー・ハンター
公開当時未鑑賞だったが、当時観た同僚が「エロ映画だった」と言っていたことだけは覚えていたアラフィフS
4Kリマスター映画と聞くと居ても立っても居られないアラフィフS、今日は新宿へGO💨
ホリー・ハンターは、若い頃より現在のホリー支持派なのだが←ドーデモイイデスヨ~、今作では子悪魔っぷりを盾にハーベイ・カイテルとサム・ニールの二人のオヤジ俳優を狂わせます
文芸モノだと観ていると、結構珍味っぷり発揮する好き嫌い別れる映画なので
一人で観るのがイイデショー(・∀・) オワリ!
あの名曲はここから誕生
よく耳にするピアノのフレーズ。
この作品の曲だったのか!!
4kデジタルリマスターで初めて見ました。
当時の時代背景を考えると、このような出来事は少なくはなかったのかも。
愛されたい、愛されないがゆえに過激な行動をとったスチュアートの気持ちも分からなくはないが、斧で指を切り落とすのはやりすぎ。怖すぎ。
父が決めた結婚、先住民との出逢いから知った本当の愛……。
彼女が海にピアノを沈めて、自身も身投げするシーンは、過去の自分、前の夫たちたちとの決別を意味している。
そこから自力で這い上がって新たな人生と幸せを掴もうという決意の表れだと。
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