クローズ・アップ

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クローズ・アップ

解説

「友だちのうちはどこ?」などで知られるイランのアッバス・キアロスタミ監督が、実際に起きたなりすまし詐欺事件を題材に、事件の当事者による再現映像とドキュメンタリー映像を交えて描いた作品。

映画青年サブジアンはバスで隣に座った女性から話しかけられ、思わず自分は著名な映画監督モフセン・マフマルバフだと名乗ってしまう。女性はその嘘をすっかり信じ込み、彼を家に招待する。サブジアンは嘘を重ねるうちに女性の家族を架空の映画製作に巻き込み、ついには詐欺罪で逮捕されてしまう。事件に興味を持ったキアロスタミ監督は、裁判所を訪れて公判の模様をカメラに記録。さらに事件の顛末を当事者たちに演じさせて再現し、真相を明らかにしていく。

1990年製作/98分/イラン
原題または英題:Close-Up
配給:ユーロスペース
劇場公開日:1995年7月29日

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(C)1990 Farabi Cinema

映画レビュー

5.0虚と実の境目を失くす、驚くべき映画

2018年2月28日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

知的

クリント・イーストウッドの『15時17分、パリ行き』のように、実際の事件の当事者を起用して再現した作品なのだが、リアリズムの演出ではイーストウッドよりもさらに洗練された、驚きべき作品。

裁判の場面などはドキュメンタリー映像なのだが、実際にはこれも一部再現であり、事実の記録と再現パートの完全にないまぜにされていて、真実と虚の境が完全になくなっている。物語も、ある青年が有名映画監督になりすますという、嘘を巡るものであり、事実とは何か、虚構とは何かという問いに、物語からも、手法の点からも迫っている。

それにしても素人たちの見事な演技。事件の再現パートもそのままドキュメンタリーのようにも見えるほどの自然な佇まい。加えてキアロスタミ監督は自然音の使い方が絶妙に上手い。音と映像で巧みに観客を騙し、虚と実の入り混じった、キアロスタミ独特の空間に観客を放り込んでしまう。

リアリティの追求のためだけに当事者が起用されているのではない、虚と実の垣根を壊すために当事者が必要だったのだろう。観終えた時には、何が事実か嘘なのか、それが瑣末なことに感じる地平に観客を誘うすごい映画だ。

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杉本穂高

4.5フィクションに滲む真実

2022年10月24日
iPhoneアプリから投稿

モフセン・マフマルバフの名を騙り、ブルジョア一家の歓待を受けた青年。真実を知った彼らに訴えを起こされた青年は、法廷で「映画監督になればみんなが自分の言うことを聞いてくれると思った」と陳情する。しかし一方で彼は、君がテーマのドキュメンタリーを撮りたいと申し出てきたアッバス・キアロスタミに「持たざる者の痛みに耳を傾けてほしい」と切実な思いを述べてもいた。

「持たざる者」として長らく存在を無視されてきた彼が、他者との関わりを回復するために映画監督、つまり「持つ者」に成りすまそうとしたことは当然の帰結だといえる。実際、そうすることで青年は一時的にブルジョア一家から尊敬と信頼を獲得することに成功する。

しかし映画監督(のふりをした青年)とブルジョア一家を取り結ぶ関係にもまた持つ者・持たざる者の傾斜がある。青年をマフマルバフだと信じたブルジョア一家は、知性や名声といった点において自分たちを凌駕する彼にほとんど全面的に跪拝する。彼らはところどころで「この人なんか変だな」とは感じつつも、マフマルバフというネームバリューに逆らうことができない。

結局ブルジョア一家は青年が偽物であることを喝破し、彼を警察に突き出すが、翻って言えば、彼がもし本物であったならば、ブルジョア一家は依然として彼の指示に従い続けていただろう。

これら一連の描写には「持つ者」が「持たざる者」と関わることの困難さが露呈している。「持つ者」が「持たざる者」と近づいたとき、「持たざる者」は青年のように自分を誇大広告するか、ブルジョア一家のように盲目的な従順を示すしかない。言わずもがな、そのようにして実現した「関係」にはフラットさが欠如している。

このことはドキュメンタリーにおける「撮る者」「撮られる者」の関係にも敷衍できる。どれだけ作家が虚心坦懐にカメラを向けようが、カメラを向けられたほうは否が応でもそれを、あるいは作家の存在を意識してしまう。そういえば蓮實御大も「カメラに収めてしまった瞬間、何であれそれはフィクションになる」とどこかで言っていた。しかし言わずもがな、カメラを向けなければ作品は生まれない。

このようなジレンマを果たしてどう解決すべきか?アッバス・キアロスタミが用意した解はとんでもなくアクロバティックなものだった。それは、実際の事件の当事者たちに、当時のできごとをフィクションとして再演してもらうというものだ。

これは演者たち、つまり当事者たちにとっては過去の傷を抉られるような苦痛に等しい。しかしそれでもキアロスタミは彼らに演じさせ続ける。カメラを向け続ける。

思えば本作が撮られる直前、キアロスタミは既に他の映画の製作に取りかかっていた。しかし「マフマルバフを騙った男が逮捕された」というニュースを耳にした瞬間、彼はそれまでの製作をすべてほっぽり出して本作の製作を開始した。要するにキアロスタミは純粋に自分の映画監督的欲望から本作を撮りはじめたといえる。敢えて嫌な言い方をすれば「持つ者」としての暴力的な職権行使だ。

しかし彼は、そんなことは初めから自覚していた。既に述べた通り、映画監督という絶対者=「持つ者」として事件によって傷ついた「持たざる者」たちに臨む以上、本作を完全にフラットなドキュメンタリーとして撮り上げることはそもそも不可能だと。

それならばいっそフィクションにしてしまえばいい。演者たちに向かって「君たちは君たち本人として何かを語る必要はありません。君たちはただ、過去の自分を演じてくれればいいのです」と伝えてやればいい。

自分を語ることは難しい。ましてやカメラの前で本音を吐露することなど、よほど傲慢な自惚れ屋でもない限りできない。だから敢えて「演技」させる。何かをそのまま語ることは難しいが、演じるという中間性を介入させることでそれはグッと平易になる。演者たちは自分自身を演じているうちに、自分でも気が付かないうちに節々で本音をこぼしている。

キアロスタミは「撮られる者」つまり「持たざる者」に水準を合わせず(そもそもそんなことは不可能だから)、むしろ「撮る者」つまり「持つ者」の立場から彼らに演じることを、フィクションに徹底することを命じるのだ。それによって逆説的に彼らのノンフィクションな真実が浮かび上がってくる。

「命じる」とは言ったものの、何もキアロスタミは演者たちを顎で使っていたわけではない。むしろ青年とブルジョア一家の確執に自ら斬り込み、自分自身も一人の演者として映画に参画していた。理論はどうあれ事実として他人を巻き込んでいる以上は自分自身も巻き込まれなければいけないだろうというフェア精神がいかにもキアロスタミらしい。冷静さの中にも絶えず温かい人情が流れている。

色々と述べてきたが、本作はドキュメンタリーに対するフィクションの全面勝利を高らかに謳い上げるといった類の作品でもない。青年が本物のマフマルバフと出会う場面からの一連のシークエンスは完全に青年の意表を突いたドッキリだという。泣き崩れる青年に優しく語りかけるマフマルバフ。すると突然隠しマイクが壊れ、音声は途切れ途切れになってしまう。このなんともうまくいかない歯痒さ、もどかしさはドキュメンタリーならではの醍醐味である。これが演出ではなく偶然起きてしまったことだということがひたすら恐ろしい。もはや奇跡というか、映画の神に愛されているとしか形容しようがない。

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因果

5.0キアロスタミ監督の大傑作!

2022年4月9日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

「こんな映画を作ってしまったアッバス・キアロスタミ監督の頭の中は、どうなっているのだろうか…」と思ってしまう大傑作!
天才としか言いようがない。

この映画、日本で観られるアッバス・キアロスタミ監督の長編作で唯一、自分が未見だった作品で、「ドキュメンタリー/社会派」といったジャンル分けされている。
しかし、映画を観てみると、「ドキュメンタリーで捉えた現実」と「俳優たちの演技」の境目が分からない。

物語としては、ある男がイラン有名監督の名を騙って、ある一家から金を得るなどして詐欺罪で逮捕される。そして、逮捕された男が収監されている牢屋にキアロスタミ監督がカメラ持参で出向いて行って男と話をする。
その後の法廷では、その男の「クローズ・アップ」を捕えながら、裁かれる男の「映画愛」が語れる……といったもの。

購入DVDで鑑賞後、DVD特典のリーフレットに「この作品をキアロスタミ監督が、どのようにして撮ったか」が記載されていて、「こんな撮り方をした映画は観たこと無い」…と思うばかり。

キアロスタミ監督作品群の中でもベスト級の傑作であることは間違いない!

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たいちぃ

4.0空き缶の行方はどこ? 再送信

2022年1月11日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

楽しい

知的

以前のアカウントがわからなくなったので、履歴保管のため、レビューを再送信します。

1 現代アートハウス入門2の一夜として、取り上げられたのがキアロスタミの本作。上映後に深田晃司の講義があった。
2 本作は、実在の映画監督になりすましした一人の青年の行状と裁判のやりとりを描いたドキュメント。全体的にこの映画を撮るに当たってのキアロスタミの周到な準備と指導、演出力を感じた。
3 ドキュメントとは言いながら、冒頭からなりすましした青年を逮捕するまでの道行の場面は劇映画のト−ンになっている。先導役の記者を中心に動的である。道端の空き缶がなにげに蹴られ、カラカラと音を立てながら転がっていく様をカメラが捉え続けていた。これからの青年の行末を暗示するかのようで印象的なショットであった。
4 青年の逮捕の場面は、映画の中盤では、青年と被害を受けた家族側から再現される。青年と会話していた家長の家に記者が訪れ、なりすましが暴かれていく。状況を察した青年の翳っていく表情をカメラが捉える。このシ−ンは、映画の導入部の視点を変えた繰り返しであり、奥行きを広げる手法として上手いと思った。
5 裁判のシ−ンは、深田の話では、再現ではないらしいが、流れに停滞や淀みが一切なく、実写なのかは疑わしい。ここでは、被害を受けた息子が事件の原因は社会の混乱が生み出した貧困であるとし、自分の苦しい立場を述べ、青年の減刑を求めた。キアロスタミのイラン社会への厳しい眼差しを示した。
6 出所後の場面は、驚きとともに大事なピ−スとなった。そして、鉢植えのショットは美しく印象的であった。

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コショワイ