『ウエストサイド物語』『サウンド・オブ・ミュージック』の巨匠ロバート・ワイズの監督デビュー作。共同監督としてクレジットされているガンサー・フォン・フリッチが製作日数を守れずに降板、あとを引き継いで10日の撮影で完成させたという。
主要キャストを前作からほぼそのまま引き継いだ、完全なる『キャット・ピープル』の後日談であり、続編でありながらも、その内容はほとんど別物である。
男女の愛憎劇であり、女性の性の目覚めをモチーフにとる怪奇サスペンスであった前作に対して、本作は少女のイマジナリーフレンドをめぐるダークファンタジーとでもいうべきものに仕上がっている。なんなら、『ミツバチのささやき』とか『赤毛のアン』とか『思い出のマーニー』なんかに近い映画かもしれない。あるいは『窓際のトットちゃん』とか。
ぶっちゃけ「キャット・ピープル」要素も皆無なら、「呪い」の要素も皆無なので「表題に偽りあり」なのだが、ここでいう「キャット・ピープルの呪い」が、前作でイレーヌを縛っていた心理的束縛と社会逸脱性を指すとすれば、今作でその「呪い」を背負っているのは、前作でくっついた夫婦の一人娘エイミーだという言い方もできるかもしれない。
いや、もう少し正確にいうなら、「キャット・ピープルの呪い」というのは、一風変わった空想癖やポゼッションに囚われた人間を、社会的規範から外れたアウトサイダーとして断罪し、社会から切り離し、追い詰めてゆく「周囲の無理解」そのものである。世間の人々が、理解のできない内的世界に生きる人間を排除する行為――それこそが、呪いなのだ。
前作で、まさにイレーヌを無理解ゆえに死に追いやった二人が、今度は血のつながった娘で、同じ試練を与えられ、もう一度間違いかけて、娘を喪いかける。その意味では、本作はまごうことなき『キャット・ピープル』の続編だ。
ロバート・ワイズは、前作でも巧みに描かれた「善良なる迫害者」としての夫婦像を、細心の注意をもって引き継いでいる。とくに父親(前作のイレーヌの夫)は、まさに善良さの塊であり、アメリカ的良心を代表するような「まっとうな人間」だが、だからこそ規範から外れる子どものあり方を簡単には認めず、イマジナリーフレンドの存在を否定し、子供を追い詰めてゆく。
ああ……そういや前作でもこういうやつだったよ、こいつは。
人と違った夢想的世界に生きるイレーヌとエイミー。
ただ、二人には大きな違いがあった。
それは年齢だ。
大人なのに、結婚したのに、いまだに社会に適応できず、少女のままでいようとするイレーヌは、「大人」ゆえに容赦なく追い詰められた。物語に悲劇としてしか、幕を下ろせなかった。
だが、エイミーはまだ子供だ。だから許される。
というか、相手が子供で、かつ血のつながりがあると、
親はぐっといろいろ吞み込んで、なんとか歩み寄ることが可能なのだ。
あるいは観方を変えれば、本作は、自閉・多動の傾向をもつお子さんを授かった親御さんが味わう気苦労を、ファンタジー仕立てで描いた作品といえるのかもしれない。
友達とうまくコミュニケーションをとれなかったり、集団行動で別のことにばかり気を取られてしまったり、父親がポストにたとえた木を「本当のポストだと思って」手紙を投函してしまったり、というのは、いずれも自閉症スペクトラムの児童なら「いかにもありそうな」話だしね。
なんにせよ、救いのあるラストシーンを観て正直、心からほっとした。
同時に、前作では嫉妬の炎に身を喰い尽くされてしまったイレーヌが、イマジナリーフレンドとはいえ、どこまでも善良で、子供を守る聖人のような扱いで描かれていたのにも、救われた気がする(鬼子母神みたいなものか)。
願わくはエイミーが、あのお屋敷での老婆の死を、長じて自分のせいだと責めないでくれるといいんだけど。
そういや、子供たちが先生に先導されて、森の下道を駆けてから寝っ転がる出だしのシーケンスだとか、無理解でルールを押し付けてくる父親だとか、そこからの父親サイドの成長だとか、薄暗い洋館と子供の取り合わせとか、『サウンド・オブ・ミュージック』に連なる要素が散見されるのは、興味深い。