イントレランス
劇場公開日:1919年3月
劇場公開日:1919年3月
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2018年2月15日この作品の評価には気を付けなくてはいけません。 そもそもこの作品を観ようというような人間はそこそこの映画マニアに限られ、且つそういう人たちは私も含めて観る前にあちこちで「映画史に燦然と輝く不朽の名作」といった評価や記事を目にしているので、点数はかなり上げ底になっています。 全く予備知識のない人にとっては「何だかよくわからなくて、やたら長い罰ゲーム無声映画」というのが公平でまっとうな評価です。 四つの独立したお話が「不寛容=許さない」という主題で並行的に進んでゆく点は初めの字幕で示され、そこは良心的です。 しかし、それぞれのエピソードは「本筋」の話に「脇道」の話が絡んで進んでゆくわけですが、「脇道」についての説明が不十分、且つ「本筋」にどう関係してゆくのかわかりにくく、更に無声映画全般にいえることですが、無声であるが故に登場人物や場所を特定しづらく、主題がどうこういう以前にあらすじがよくわかりません。とりあえず、あらすじの記載されたブログなどを横に置い観ることをお薦めします。 音楽についても「国民の創生」と同様に、戦闘シーンだろうが恋愛シーンだろうが、場面の雰囲気に関係なく、初めから終わりまで有名なクラシック音楽を、ただひたすら「かけっぱなし」で、音響効果も何もあったもんじゃありません。まあ、大正時代はこんなもんなんですかね? 映画史的には極めて重要な作品ではあるので、映画ファンなら一度は観ておくべき必須科目ではありますが「風と共に去りぬ」「七人の侍」「ゴッドファーザー」などの時代を超えた不朽の名作ではありません。
遂に本作を映画館で観る事が出来ました。嬉しい!。108年前の映画で著作権もとっくに切れているので今ならば Youtube で観る事もできるのですが、「映画は映画館」での信念の下、これまで我慢し続け初めての鑑賞です。 本作監督の J.W.グリフィスは、現代に通じる様々な映画的技法を映画黎明期に築き上げた監督として知られ、本作は彼の代表作であるのみならず映画史上の金字塔とも呼ばれる3時間近い大作です。本作は勿論サイレントなのですが、今回はそこに澤登翠さん・片岡一郎さんという当代一の活動弁士お二人の語りが付きます。これ以上望めない条件を見逃す手はありません。たった一日の特別上映だったこともあり、場内は満席でした。 実は、グリフィスには『國民の創生』(1915) というもう一つの代表作があります。こちらは様々な訳があって映画館で上映される事はもうない(アメリカでは実質上上映禁止状態らしい)だろうと思われたのでDVDで鑑賞しました。これも、「斬新な手法で」と紹介される事が多いのですが、僕には「杜撰な物語だなぁ」としか思えませんでした。だから、「もしかしたら今回も・・」と危惧する面があったのです。でも、それは全くの杞憂でした。 本作は、紀元前6世紀の新バビロニア・キリスト最期の日々・16世紀フランスのサンバルテルミの虐殺・現代(1910年代)の4つの時代の悲劇を「不寛容(Intolerance)」という観点から描いた物語です。この四つの物語が並行して進むと言う設定が、本作独特のスピード感を生んでいます。この映画では、やはりバビロニア・パートの壮大な映像に息を吞んでしまいます。ポスター写真にある途轍もない神殿なのですが、今ならばPCの前に座って作り上げる事も出来るのでしょうが、この時代は勿論全てセットです。 「どれだけバカでかい物を作ってるんだぁ~」 「一体、何千人のエキストラを投入してるんだぁ」 とその迫力に只々口をアングリなのでした。 いや、そうしたお金を掛けた映像のみならず、無実の罪による死刑を食い止めようとする現代パートではハラハラ・ドキドキの演出が巧みですっかり手に汗を握ってしまいます。百年以上前に、これはやっぱり凄いなぁ。 そして、活動弁士のお二人の語りは、決して出過ぎる事がないながらも物語をグイグイと牽引しました。 これは値打ちもの。台風を押してでも出かけてよかったぁ。 PS. でも、今回も「僕は西洋史の知見が足りてないなぁ。欧米の人々にはこんな事は常識的前提なんだろうな」と感じる点が少なからずありました。この歳でも、勉強、勉強。
古代バビロニア帝国での国王と高僧の対立、キリストの生涯における有名な挿話で断片的に構成されたユダヤ篇、サン・バルテルミの虐殺を題材としたとされる政治的決定を下すまでの宮廷内での件や結婚を翌日に控えた娘ブラウン・アイズとその婚約者の末路、現代篇と4つのエピソードで構成されているのだが、整合性のとれた形式によって、それぞれのエピソードが同尺で提示されるわけではない。 それは、D・W・グリフィス監督の映画的なモンタージュや数々の歴史的背景、それに纏わる監督独自の不寛容の視点、壮大なセットの建造、試行錯誤の末導き出したショットといったあらゆる要素が組み合わさってできたある種映像への挑戦がこの映画の凄みを強調させるのではないかと思う。 他方、率直な感想においては、 トーキーがゆえに、役者の表情、息づかいがとても細やかで引き立ち、感情を動かされるなということ。 作中、脳内で何度も"不寛容"について反芻された。 それほど不寛容にまつわる話が立て続けに起こるのだ。 そして時代の変化と共にそれぞれの境遇で悲劇や歴史の再生は繰り返されど、少しずつ希望に向かっていくのが心地いい。 勿論その背景や裏には幾重もの裏切り哀しみ淘汰が繰り広げられているわけだが、それでも人生に希望を持っても良いんだなと思わせてくれた。
ストーリー:父を亡くし、乳飲み子を奪われ、夫が逮捕された女は悲嘆に暮れる。ガサツな女は王に感謝し獅子奮迅の活躍をする。フランスではカトリックとプロテスタントの衝突の兆しがある。キリストは水をワインに変える奇跡を起こす。 出だしはあまりの面白くなさに飽き飽きする。しかし、バビロンの攻城戦の辺りからこの映画は只者ではないとわかる。そして終盤にかけて4つの時代が同時並行で畳み掛けて来るクライマックス。なんじゃこりゃ。圧巻である。 見なければわからなかった。これはすごい。百年以上前の映画なのにいまだに賞賛されるわけだ。 今週の気付いた事:最強の剃刀は3枚刃。