Strange Circus 奇妙なサーカスのレビュー・感想・評価
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すぱげってえわしづかみで世界観だすぜ
昭和平成の世代で人気女優だった宮崎萬純さんを覚えておられる方も多いと思う。きりりとした宝塚男役のような顔立ちで売れっ子女優だった。その復帰作が奇妙なサーカスだった。復帰するにせよ、なんで園子温で復帰するのだろう──と疑問に思った記憶がある。(復帰後すぐ乳がんが発覚し本格復帰にはならなかった。)
映画はこけおどし。過剰にすると鬼(才)になれちゃう──をしょうめいする日本映画。
不条理や非倫理や、スパゲッティわしづかみで食べれば世界観でると思ってる監督のケッサクです。ぜひごらんください。
ところで今回の告発の発端は硫黄島からの手紙に出演していた俳優松崎悠希氏のツイッター(2022/03)だったようだ。
詳しくは知らないのだが松崎悠希氏はハリウッド俳優であって日本の業界の中にいない。(キャリアのすべてがアメリカ。まったく日本訛りのないりゅうちょうな英語をはなす。)
いないからこそ「日本を代表する映画監督」である園某を告発することができたのだろう。が、その構造をかえりみると愕然とする。
つまり松崎氏ほど日本の芸能界から縁遠い人でなければ園子温を告発することができなかった──わけ。
ようするに同監督が目を光らせている業界内では、そこで働くかぎり、なにをされようと泣き寝入りするしか、なかったということ、ではなかろうか。
監督は告発を受けて、謝罪したものの「記事には事実と異なる点が多い」と主張し「代理人を通じてしかるべき措置をとる」とのこと。
けっきょく日本の公人の往生際パターンを踏襲したわけだが、ふざけんなよこの野郎!監督業休止だろうが。
おまえの映画の作風がこけおどしだからってセクハラで告発されていながら「しかるべき措置」とか逆におどすってどうなってんだよ。
ネットにあがっていたエンタメニュース──、
『(~略)「生理的欲求に忠実な奇才ですが、手法が時代遅れだったと思います。撮影中に女優の乳首に赤ワインをかけて、なめるような巨匠に憧れて監督になったので、排泄(はいせつ)行為や性行為に関して、妙に解放的だったので、目を覆いたくなることも多かったです」とプロダクション幹部は打ち明ける。
「しかしその成功の裏には、多くの女優の涙が流れていたといえるでしょう。売れる前から女好きでした。売れる監督になったことで、権力に酔いしれた王様になってしまったんでしょうね。周囲が調子にのせてしまったことも否めません。映画のヒットメーカーだったプロデューサーやグラビア雑誌全盛期の接待王といった昭和の悪しき風習の継承者たちが『自殺クラブ』あたりから園監督を担ぎ出して、変なスイッチを入れてしまったように思います」と別の芸能プロダクションのマネジャーも語る。(後略)』
(夕刊フジの記事より)
アメリカのMeTooから数年遅れだがこれを期に日本でも告発が常態化してほしいと思っている。
(個人的には真理突いていると思っているものの)憶測/偏見にすぎないが──、
ハリウッドに集う映画人が映画にたずさわる動機は「映画がつくりたい」だった。
反して、日本の映画人──重鎮/天才/鬼才と呼称されている人たちが映画にたずさわった動機は「女の裸が見たい」だった。あるいは「女優とねんごろになれる」だったかもしれない。
現実に日本の多数の映画監督がポルノスタートだった。
「映画をつくりたい」の野心がポルノと表裏になっているのが日本映画界。とうぜん余禄にあずかろうとして飛び込んだ人は少なくなかっただろう。そんな業界に倫理プロトコルをもとめるのはむり。
よってキーボしながら撮影に挑む──日本の映画人がわいせつで芋づる式に失脚していく。のは合理。
いちぶの英才あるいはテレビ界出身監督の映画など、まっとうな映画監督をのぞいて、日本は映画をつくらなくていい。と個人的には思っている。
VODが充実した今ではマイナーな国内映画が見られるのだが、ほんと○○みたいな日本映画つくんなくていい。まったくひつようがない。
日本映画がダメなのは→100%技術的な芸能=映画を、感性とか個性とか根性とかに委ねているから。感性個性根性、いらない。技術を習得して下さい──という話。
「がんばってつくる」──そこに涙と正義があると思っている人たちのじゃれ合い。
日本映画も日本映画界も、日本版MeTooを期に滅んだほうがいい。と思います。
難解過ぎる映画
園子温監督の世界観満載の鬼作。現実か夢か、夢か現実か?幼少期に父から受けた近親相姦により自我が崩壊し、母と自分の認識が出来なくなる女性の物語のように見える。ストーリーが途中でコロコロ入れ替わる(夢と現実)のでついていくのに困惑し、凄く疲れた。エンディングでは…。
二回目で理解
二度見て、二度目で作品の世界観を理解。
園子温監督の映画はよくクラシックが使われるがクラシックファンとして、なんとなくそれは微妙。
しかも私の好きな曲がお祭り騒ぎみたいな映像に合わせて流れてると、上手く言葉にはできないが園子温監督の思惑を感じてしまう。近親姦のシーンは、あの女の子の子役の子、あんな喘ぎ声を聞かされて大丈夫なのだろうか?と心配になったが、そのあたりはきちんと配慮しながらの撮影だったのだろうか。
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自宅にて音楽・脚本・監督の園子温目当てで鑑賞。ヴィヴィッドな色彩が眼を惹く。“尾沢剛三”の故大口広司が全開。“尾沢小百合(三ッ沢妙子)”の宮崎ますみはまずまず。夢か現か、現か夢か……何はともあれ振り切ってる作品だがラスト近くいしだ壱成演じる“田宮雄二”独白の件りが少々くどい。アンダーグラウンドを全面に押し出した意欲は認めるが、作り手の憧憬の様な不思議な印象を受ける──恐らく優等生が思い描くアブノーマルでタブーな世界観では。エンドロールでは妖しげな名がスタッフ・キャストに散見。痛い描写有り。55/100点。
・鑑賞日:2011年11月8日(火)
いつも題材はいいのだ園子温
あるあるですが、園子温テーマはいいのだ。
興味がわく、女性がぐっとくるサスペンスホラーというか
ぞくぞくするテーマ。
なのに、邪魔な演出がありすぎ
あと、配役や演技に、え?ってなるぐらい
合わない人がいて、後半になると
映画に興味がなくなっている。
そして、疲労感。
有名な監督だから、予告もいい人が作っていて
予告は完璧!
映画始まったら、なんだこりゃ。
いつも惹かれて観るものの
冷たい熱帯魚を超える映画は今世紀はないのでは。
私は誰?
美津子という少女が居る。彼女は両親のセックスを目撃する。そのうち母親の小百合と一緒に父親に犯されるようになる。美津子は改造したチェロのケースに押し込められ、小百合とのセックスを見ることを強いられるのだ。そんな倒錯した関係が続くうちに美津子の自我は揺らぎ、小百合と自分との区別がつかなくなる。ここまでが小説の話で、その小説を書いているのは妙子という女性だった。こんな過激な小説を書いている妙子のファンであることを公言し、担当になる編集者の雄二。彼は編集長の指示により妙子の身辺を調べるようになる。小説中の出来事は自伝ではないのか? 彼女の正体は誰なのか? 事態はやがて思わぬ真相を見せることになる……。
園子温監督の映画は、いつも思うことなのだけれどその過激さでこちらの度肝を抜く。もちろん『ちゃんと伝える』や『気球クラブ、その後』といったそんな過激さとは一見すると無縁に映る映画もあることはあるのだけれど、この映画はエログロな要素が全開で絶好調な園監督の本領を発揮しているという印象を感じさせるのだ。だから正直なところ、観ていてその強烈さにやられてしばらく纏まったことをなにも考えられなかった。疲れてしまったのだ。精神的にタフでない時には観ない方が賢明だろう。本当に強烈な映画だと思う。
女優たちの演技が素晴らしい。特に宮崎ますみ氏の演技がなかなかのもので、これもまた演技指導に関して徹底的に厳しい園監督の熱意とそれに応えた宮崎氏の底力故のものなのだろうと感じさせられる。エキセントリックというか、幼い頃に強烈なセックスの体験を経て来たことから精神が壊れてしまった女性の役を巧みに演じていると思う。普段は影が薄いいしだ壱成氏もまた、この映画では重要な役回りを(宮崎氏と比べるとどうしても見劣りはしてしまうのだけれど)演じているのではないかと思う。その点では力作なのではないかと思う。
あとはこの映画を貫く美意識のあり方に目を見張らされる。どぎつい、と書くと単純になってしまうのだけれど、それ以外に表現のしようがない色使いの異常さや先述したセックス場面の生々しさが観終えた後も忘れようのないものとして迫って来るのだった。殊に「赤」を巧みに使っているな、と思わさせられる。壁の赤、血の赤……衣装の赤もこの映画に強烈なインパクトを与えている。その結果として鮮烈な作品として仕上がっているように思わせられる。園監督の映画でこうした色彩美を味わうというのは、こちらの鑑賞歴が乏しいせいもあって初めてのことだったので改めて脱帽してしまった。園監督の引き出しは本当に多い。
これ以上書けることというのも特にないのだった……四肢切断、あるいはセックス描写、そういったエログロな要素が山盛りとなっているこの映画は万人に簡単にお薦め出来るものではない。園監督の映画をこの作品から初めて観ようという方が居たら、考え直すことを薦めたい。最初は先にも名を挙げた『ちゃんと伝える』や『気球クラブ、その後』といった(これらは「佳作」だと思うが)作品を観てからこの作品に挑むことをお薦めしたい。まあ、くどいが引き出しの多い監督なので園ワールドに何処から入って行くかを薦めるのは至難の業なのだが――。
ややネタを割ることになるが、この映画を観ていると「人格」というものがどういうものなのか分からなくなる。この映画では先述したプロットの整理が示すように、美津子と小百合の人格が揺らぎ区別がつかなくなる。自分が美津子なのか小百合なのか分からなくなってしまうのだ。このあたりのミステリアスな展開はこの映画のキモなのでこれ以上迂闊なことは書けないが、私は大いに裏切られた、と書いておけば充分だろうか。私を私足らしめるものなんて結構曖昧なものなのかもしれない。その狂気のあり方もまたこちらの度肝を抜くものである。自分が誰なのか分からなくなる幻想的な(エログロ入ったデヴィッド・リンチのような?)世界を是非堪能していただきたい。
そんなところだろうか。園監督の多才さ、その世界の多彩さに改めてやられた一作だった、と記しておけば良いだろうか。果たして発展に向かっているのか破綻に向かっているのか分からないまま、途方もなく膨れ上がっていく園ワールドの強烈さが特筆に値する……先ほどから同じことを手を変え品を変え書いているのだけれど、こればかりは私の未熟に由来するものとして降参するしかない。本当に凄まじい映画を観てしまった。園ワールドはもっともっと掘り返して行く必要があるようだ。次は『夢の中へ』を観てみようかと思っている。
本当に、強烈な一作だった。その過激さぶりにおいては、私の観た範囲内では『自殺サークル』『冷たい熱帯魚』『紀子の食卓』にも引けを取らないであろう。赤を多用した美意識が全開になっているところは、脈絡などなにもないのだけれど蜷川実花『ヘルタースケルター』を連想させるところもある。奇妙に艶めかしく、そして鮮烈。これもまた同じことの繰り返しに過ぎないのだけれど、この映画を語れる他の語彙を私は持っていない以上仕方がない。なかなか手強い一作である、と記して筆を置くことにしよう。観るのは厳しい一作だったが、観ただけの価値はあったと思う。
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