タイマグラばあちゃん

劇場公開日:

解説

岩手県の開拓地”タイマグラ“に生きた老夫婦の姿を、15年に渡って記録した長篇ドキュメンタリー。監督は澄川嘉彦。撮影を太田信明と澄川監督が担当している。第78回文化映画ベスト・テン第5位、日本映画ペンクラブ賞会員選出ベスト5、ノン・シアトリカル第5位、文化庁支援作品。

2004年製作/110分/日本
劇場公開日:2004年10月23日

ストーリー

岩手県のほぼ真ん中に位置する早池峰山。その麓に戦後、“タイマグラ”と呼ばれる小さな開拓地がつくられ10軒あまりの農家が入植した。しかし、東京オリンピックの頃までにはほとんどの家が去り、残ったのは向田久米蔵さん、マサヨさんの夫婦二人だけだ。昭和63年夏、タイマグラには大阪から若者が引っ越してきて、久々にお隣さんができ、年の瀬にはタイマグラにとうとう電気が引かれた。マサヨばあちゃんはタイマグラで、素朴ながらも心豊かな毎日を送っている。

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スタッフ・キャスト

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映画レビュー

4.5森の奥へと続く道

2019年9月29日
iPhoneアプリから投稿

タイマグラばあちゃん、というドキュメンタリー映画を観た。
今まで知らなかったけど、2004年の作品でテレビ関係者が撮ったらしく、あいちトリエンナーレの補助金を取り止めた文化庁も関わってる。
新しい友人と古い友人がつながってのお誘いがなければ見なかったであろう、素晴らしい記録映像に出会うことができました。
タイマグラとは、早池峰山麓にある集落(戦後の開拓地)の地名で、アイヌ語で「森の奥へと続く道」という意味だそう。
森の恩恵を忘れて久しいわたしたちが、今見るべき映画のひとつだろう。
くまもり協会が各地で自主上映しているみたいなので機会があればぜひ。
一言でいうなら、とてもよかった。
これほど感動したのは久しぶりなくらい、今のわたしに必要なタイミングで受け止め、魂が震え心に染み渡りました。
これと似た感覚を受けたのは、徳山ダムに沈む村の最後の住民たちの豊かな暮らしを撮った、岐阜県池田町出身の映画監督大西暢夫の「水になった村」だ。
こちらは2007年の作品だが、共通するのは、わたしからすれば不便極まりない限界集落以下の消えゆく集落で、なぜ最期まで暮らそうとするのか。
お金や、老後の衰えや病に不安はないのか。
答えは、まったくない、だった。
こんな豊かな暮らしが目の前にあるのに、なぜこの場所を去る必要があるのか、と逆に勇気づけられることばかり。
方や、キノコや山菜といった山の幸を保存食にして冬を越す方法などなど、方や、味噌玉や豆腐やジャガイモを粉にして団子汁にする方法など、自然豊かな食を手間暇かけて、雨の日や厳寒期ならではの仕事など、年中やることがいっぱいで、大変かと思いきや、大変ならやめたらいいのにと心の中で話しかけてる自分。
しかし、その語りかける笑顔のなんと美しいことか。
顔のアップをたくさん撮影してたのは、監督も感動してたからだと思う。
高齢を感じさせない肌艶のよさ。
向田の久米蔵じいちゃんは、山の神さまに守られて静かに大地へ還っていった。
それにしてもマサヨばあちゃんは強いなぁ。
いろんな名言があったけど、一番響いたのは、畑が山の生き物たちに荒らされても気にしないこと。
もともと山の生き物の土地に人間がやってきて狭めたのだから、残りをいただくだけで感謝してる。
とにかく山暮らしの日々は、大変なことを大変でないようしなやかに、くり返しくり返し手作業し、あちこち野山を歩かないといけない。
その元気の源はどこにあるかと言えば、たくさんの食べ物=山のエネルギーなのだ。
雨が降ろうが、風が吹こうが、感謝してる。
恵みを与えてくれる大地に感謝してるからこそ、大地のエネルギーが健康で豊かな暮らしを約束してくれてるんだろうと思う。
うちの母も町で暮らし、介護が必要な高齢ですが、故郷の六ノ里で母の同級生に会うと今でも山仕事したり見た目も若く元気なのだ。
映画のラストはどちらも、山を下りなければならないときがやってくる。
すると映画撮影が何年もかかってて変わらず元気に黒髪で艶やかな顔立ちだったのが、町に住んだり病院に入ると数か月で白髪に染まり、顔立ちも別人のように老け、玉手箱のフタを開けた浦島太郎のようになるのだ。
そして二度と山に帰ることなく、この世を去ってしまう。
会いたかったなぁ、タイマグラばあちゃんに。
映画の中で生きてるだけでなく、映画のラストで新住人の奥畑さん一家の味噌玉の中で生きてることに安心しました。
帰ってネットでちょっと調べると、その奥畑さん夫妻が今でもタイマグラで民宿をやってることがわかったので行ってみたくなった。
あの味噌玉に会いに!

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fuhgetsu