わんわん忠臣蔵

劇場公開日:

解説

手塚治虫の原案により、「白蛇伝」「西遊記(1960)」などを手がけた飯島敬、白川大作が、共同でシナリオを執筆、白川大作が演出、大工原章が監督した長編漫画。撮影もコンビの杉山健次、吉村次郎。

1963年製作/81分/日本
原題または英題:Doggie March
配給:東映
劇場公開日:1963年12月21日

ストーリー

〔1森のギャング虎と狐〕森の犬小屋に親子の日本犬が飼われていた。母はシロ、子供はロックと呼ばれ森の動物達の人気者だった。ところがその山奥には動物を餌食と狙うキラーという虎と赤耳狐がいた。邪魔者とされたシロは、この虎達のためにおびき出されてしまった。〔2返り討〕口惜し泣きに毎日を暮しているロックはとうとう「僕がやっつけてやる!」と山奥目指して走り出た。びっくりしたラビやリマはひきとめた。それ程、敵の虎は強いのだ。〔3街の仲間〕虎に目をつけられたロックは、森を下りて街に出た。しかし田舎者のロックには、街の様子は恐いものだらけだった。ビル街の空地でゴロという友達にあい、親切なゴロは、ロックの身のうえを聞いて虎退治の協力を約束してくれた。この情報は、すぐ山の友達にも伝わったが、このニュースはすぐ赤耳にも、キラーにも伝わった。驚いたキラーは赤耳と狸ヌキ太とを街に偵察隊として派遣した。〔赤耳狐の悪だくみ〕一方ロックは毎日フットワークにはげんでいたが、赤耳はこれを知って、山の仲間だとロックをおびき出した。何も知らないロックは倉庫迄かけ出したが、赤耳の手にかかって樽に入れられ河へ突落された。大波にもまれたロックは、息も絶え絶えになった。〔5動物園の恐ろしい噂〕心配している山の友達のうえにも、恐ろしい事件があった。人間の手によって動物園送りとなったのだ。いやがる山の動物を後にキラーと赤耳は自分から檻に入った。最初は素適にみえた動物園生活も、またキラーが支配権をもって、赤耳を使っては小動物を襲っていた。この噂は燕によって、少女に助けられて、たくましく成長しているロックに知らされた。〔6苦心の討入り作戦〕さっそくロックは、ゴロと再会し助けにいったが、動物園に入りこむことは難しかったが、今では改心して、ロックに責任を感じているヌキ太は、守衛をだまして入園した。ラビやリマの協力もあって、赤耳が動物を襲うマンホールをみつけ、そこから入ることになった。さて、大きな猛獣をせいばつするには、南国生れの猛獣が一番弱い雪の日がいいときまった。〔7猛獣どもをやっつけろ〕さて雪の夜、四十七匹の犬は勢揃いして、マンホールから討入った。だが、赤耳達もこの時態を知って、用心棒を動員激戦が転回した。しかし犬の大群には手が出ず、ついにマンホールから公園のジェットコースターににげた。〔8ジェットコースターの対決〕ジェットコースターを、たくみに使って、小さなロック達を苦しめるキラーは、もう死にものぐるいだ。ロケットにのって戦っていたキラーは、戦いの途中、落下して敷皮のようにのびてしまった。〔9勝どきあげて〕大勝利に祝福あびるロックもうれしさでいっぱいだ。ラビや、リマも、楽しくなった動物園に帰っていった。見送るロックの顔は明るかった。

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スタッフ・キャスト

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映画レビュー

4.5捕食者が悪者?

2024年7月10日
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鑑賞方法:VOD
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When I am 75♥️

2.5忠臣蔵要素はない

2024年6月23日
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鑑賞方法:VOD

雪の日に大勢で復讐ってだけでした

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まる

4.0年末なので、忠臣蔵。

2023年12月22日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

笑える

楽しい

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くろすけ

3.0「忠臣蔵」とはいえないが…

2023年1月17日
iPhoneアプリから投稿

四方田犬彦が日本映画における「忠臣蔵もの」の隆盛から日本人のナショナルな心性を読み解く、的な批評を書いていて、その中で「忠臣蔵もの」の精確な計数を困難なものとしている傍流として本作や『OL忠臣蔵』が挙げられていた。とはいえ忠臣蔵の名前を冠している以上はおおまかなプロットは踏襲しているはずだと思い鑑賞したが、復讐譚であるということ以外に忠臣蔵的要素は見受けられなかった。 本作ではキラーというならず者の虎に母親を殺された子犬のロックがキラーへの復讐を成就させる。しかし浅野内匠頭と大石倉之助の関係を取り結んでいたものが血縁関係に拠らない「忠義」であったことを鑑みると、復讐の動機を「親子の情」としている本作はある意味で忠臣蔵から精神的に最も遠い復讐譚であるといえる。単なる復讐譚であれば忠臣蔵でなくともそこいらに横溢しているため、本作を「忠臣蔵もの」として評価することは難しいように感じた。 さて忠臣蔵として見ると片手落ちの感が否めない本作だが、60年代のアニメーション劇映画の系譜の中で考えてみるとなかなか面白いかもしれない。 太平洋戦争末期に制作された『桃太郎 海の神兵』から本作に至るまで、ジャパニメーションはアメリカのディズニーを範型としながら発展を遂げてきた。現在のジャパニメーションの源流と名高い1958年の『白蛇伝』でさえディズニー的な作画文法をふんだんに用いていた。範型、といえば聞こえはいいが、それは見方を変えれば「アメリカに追いつかねばならない」というオブセッションの表れだったのかもしれない。本作でロックが街に出るシーンで、街の風景が明らかに非日本的(=西洋的)なモダニズムに彩られていることなどがその好例だろう。街中をモダン建築と英語で埋め尽くすことで「貧相で古臭い東洋」を徹底的に排除しようという意図が読み取れる。動物たちの物理法則を無視したスラップスティックなギャグ表現などもいかにもカートゥーン的だ。 とはいえ一方でアメリカのカートゥーンには見受けられないような、いわゆる「ジャパニメーション的」な表現がところどころに滲出していることも事実だ。『桃太郎 海の神兵』では、概してディズニー的なスタイルではあるものの、序盤の自然描写や終盤の落下傘部隊投下シーンなどは、現実の物理に即したリアルな重みが感じられた。本作であれば、たとえば冒頭の小動物がキツネの赤耳から逃げるシーン。ここでは2匹の様子を引きのショットで映すのではなく、小動物の一人称視点を背景動画でダイナミックに描くという立体的な作画手法が採用されている。こうしたリアリズム的表現というのは、後のジャパニメーションの発展史においてもことさら重要な役割を果たしたといっていい。ジャパニメーションが宮崎駿や大友克洋や押井守や新海誠を生み出せたのも、黎明期の日本製アニメがディズニーを呼吸しながらも独自のスタイルを錬磨していったからに他ならない。

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