<映画のことば>
お前…雪子か。
国鉄幌舞線の端頭駅・幌舞駅―。
今でこそ赤字ローカル線となってはいるものの、往時は幌舞炭鉱からの石炭輸送を一手に引き受けていたことでしょう。
今まさに高度経済成長期を迎えた社会情勢を背景に、すべからく公共交通の枢要を担う―。
本作の題名から、この時代を生き抜いた鉄道マン…否、ぽっぽ屋のそういう気概を感じ取ったのも、独り評論子だけではなかったことと、評論子は思います。
そして、ひとつの駅を預かる駅長として、ぽっぽ屋(鉄道マン)の職務を果たすためには私生活を省みなかったその陰では、一体の和人形を媒介として、乙松と、夭折(ようせつ)してしまったその実の娘・雪子との心の交流が、とてもとても、とでも心に温かく、評論子にも素晴らしい一本でした。
同じ高倉健の主演作品になぞらえて言えば、別作品『幸福の黄色いハンカチ』が、お互いに器用とは言えない夫婦の関係性を描いた作品であるところ、本作は、「この世」と「あの世」との隔たりを超えて、相(あい)謁見(まみ)えた実の父娘の物語―。
そんな評が適切だろうとも思います。
愛娘との間で、こんな父娘関係がもし築けたら…。
それは、さぞ、幸せなことでしょう。
ひとりの娘の父である評論子も、かくありたいものです。
そう思いました。
もともとが重度かつ難治(不治?)の「先天性涙腺脆弱症」の既往症を抱える評論子は、独り涙しながら。
充分以上の佳作と評すべきでしょう。
本作は。
(追記)
本作では、乙松の妻・静枝が折に触れて口ずさむ「テネシーワルツ」…その情感あふれる曲調がキーにもなっています。
これは、降旗監督が高倉健をとくに説き伏せて作中に挿入した楽曲であるとか(映画.comサイトの作品解説)。
それは、作中の乙松が静枝を髣髴(ほうふつ)とさせる楽曲であったほか、実生活でも、主演者・高倉健には奥様(故・江利チエミ)を髣髴とさせる楽曲であったようです。
夫婦の間の情愛を象徴することについて、これ以上のものはないと降籏監督は受け止めたのだろうと推察しますけれども。
評論子としても、まったく同感であることを、申し添えておきたいと思います。
(追記)
ときに、幌舞駅に現れたのは、どうして「雪子」だったのでしょうか。
つまり、「静枝」あるいは「静枝と雪子」では、いけなかったのでしょうか。
(本作で、乙松の静枝に対する愛情も、上記のとおり決して薄いものではなかったことに思いを致すと、現れたのが「静枝」や「静枝と雪子」であっても、何の不思議もなかったはずです)
この点、体調を崩して病院に向かうために幌舞線に乗車した折、乙松が車窓に延ばした白手袋の手に、ひと拍子遅れてガラス越しに手を重ねたときの静枝の表情を思い起こせば、彼女のその表情が決して柔和ではなかった、否、かなり険しいものだったことがヒントになりそうです。
つまり、彼女のその表情は、決して彼女の体調不要のため(だけ?)によるものではなく、その時の彼女の胸中には、職務を優先し、体調を崩してしまった自分に付き添ってくれようとしない乙松への不満と怒りとが、確かに、渦巻いていたことでしょう。
(そう考えて思い起こせば、雪子が亡くなったことについて、静枝が乙松に詰め寄るシーンもあったかと思います。もちろん、せめて手だけでも差し伸べた乙松も、その胸中では、どんなにか彼女に付き添いたかったことでしょうか―。評論子は、そう受け止めるのですけれども。)
そういうことから考えると、やはり、本作で幌舞駅に現れるのは「雪子だけ」でなければならなかったのだろうとも、評論子は思います。
(なお作中では、雪子に静枝の普段着の服装をさせ、彼女を髣髴とさせるシーンを織り込むことで、降籏監督は、静枝本人が現れないことを補っていると、評論子は考えます。少なくとも、乙松と雪子は血がつながっているが、妻の静枝は、しょせんは血のつながりはない「他人」だったから…というような、つまらない理由でなかったことだけは確かだとも、評論子は考えます。)
そこに「エッセンシャル・ワーカー」としての働き方の悲哀というものを見て取ったのも、独り評論子だけではなかったこととも思います。
なお、このことを考察するについては、映画.comレビュアー・Cape Godさんのレビューからも貴重な示唆をいただきました。的確なレビューで、評論子の思索を促してくださったCape Godさんに、厚く感謝し、お礼申し上げます。
(追記)
ところで、令和の世の女性の社会進出は、鉄道ファンの世界とて無縁ではありません。
かつて鉄道ファンといえば男性=鉄男君と通り相場が決まっていた「男社会」でしたけれども。
「汽車が山道をゆくとき/みづいろの窓によりかかりて/われひとりうれしきことをおもはむ」(萩原朔太郎「旅上」)という、評論子がそうであるような、いわゆる「乗り鉄」の世界だけでなく、今日日(きょうび)は、ごつい望遠レンズを装用の一眼レフカメラを二台も三台も首にぶら下げて歩き回る若い女性の「撮り鉄」の鉄道ファン=鉄子さんも、決して珍しくはなくなりました。
本作では、乙松の幌舞駅を訪れた雪子が、乙松の鉄道用品のコレクションに狂喜します。
そのことから推すと、本作の雪子も、父親の血を引いて、筋金入りの「鉄子さん」になっていたことには、疑いがなかったとも、評論子は思います。
長じた彼女は「乗り鉄」なったのか、それとも「撮り鉄」になったのかは、然(しか)とは分かりかねますけれども。
映画ファンとしてのほか、「鉄ちゃん」でもある評論子には、嬉しいシチュエーションでした。
(追記)
本作は、もちろん主演の俳優・高倉健を堪能できる一本ではありますけれども。
その時々で年代を変え、幾度となく幌舞の駅舎に雪子が現れるたびに、好好爺(こうこうや)然とする彼の表情―。
こんな高倉健は、他作では、おそらくは堪能できないだろうと、評論子は思います。
上記にかかわって言えば、評論子は「良いお父さん」が登場する作品を観るのが好きなのですけれども。
本作も、評論子が密かに選んでいる「良いお父さんが登場する映画 ザ・ベスト」(仮称)には、確実にノミネートされる作品の一本でしょう。
そう思います。
評論子は。
(追記)
<映画のことば>
「まだまだ。(キハ型車両の警笛を聞いて)泣かさるうちは、まだまだ。」
前記で評論子は「ぽっぽ屋」の気概と書きました。
浮力を利用して海上を航行する船舶は別格として、陸上交通の一編成で1,000トンを超える重量物を運搬できるというのは、鋼鉄の車輪で鋼鉄のレールの上を走るという鉄道ならではの「離れ業」というべきでしょう。
(自動車=トラックでは、トレーラー編成でも、「逆立ち」しても、とうてい一編成では運べない貨物量)
それゆえ、一編成当たりの輸送可能人員数だって、到底、旅客機や自動車=バスの、はるかに及ぶところではありません。
(現にある自治体の地下鉄延伸問題にかかわっては、「バスならば20人必要な運転手が、地下鉄なら1人の運転士で運べる」という声もあるそうです)
自動車交通の普及した令和の今でも、都市間などの拠点間輸送では、鉄道が圧倒的な優位・競争力を保持しているゆえんでしょう。
(独自開発のトラック=宅配車を多く利用している猫のマークの大手宅配業者も、都市間の荷物の輸送では、自社のロゴを入れたコンテナで貨物列車を利用している)
ときに、JR北海道の社員採用のキャッチフレーズは「北海道を動かす仕事」―。
そこに、今なお「ぽっぽ屋」=鉄道マンとしての気概を見出すのも、独り評論子だけではないことと思います。
降旗監督が、わざわざこのセリフで本作を締めくくったのも、ぽっぽ屋へのオマージュとして、同じ意図だったと、評論子は理解しました。
(追記)
本作の幌舞駅は、かつては幌舞炭鉱から産出される石炭の運搬を担(にな)う石炭列車を走らせるために敷設されたとか。
本作は、公開時に劇場で初観し、その後、テレビ放映で再観(評論子の記録では2011年4月17日)しています。
そして、今回が三観目。
そして、その「三観目」を、奇しくも、かつては、そういう石炭列車との縁(ゆかり)が決して浅くはない街で観ることになりました。
奇遇といえば、奇遇なのですけれども。
そのことで、評論子には、いっそう、本作の今回の三観目が感慨深いものとなりました。
「映画紹介コーナー」で本作を取り上げ、その三観目の機会を作って下さった、ローカルFM局のラジオ・パーソナリティー氏に、本作に関しても、厚くお礼申し上げます。
【評論子的な関連作品】
〇結婚生活における男女の役割分担
『ちょんまげぷりん』
2010年/108分/日本
中村義洋監督
〇良いお父さんが出てくる映画
『チキ・チキ・バン・バン』(未投稿)
1968年/144分/イギリス
ケン・ヒューズ監督
『訴訟』(未投稿)
1991年/109分/アメリカ
マイケル・アプテッド監督
『ごはん』
2017年/118/日本
安田淳一監督
『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』
2022年/111分/アメリカ
ビル・ポーラッド監督
『あまろっく』
2024年/119分/日本
中村和宏監督
『タイヨウのウタ』
2025年/109分/韓国
チョ・ヨンジュン監督