砂の女

劇場公開日:1964年2月15日

解説

安部公房の原作を、安部公房が脚色、「おとし穴」の勅使河原宏が監督した寓話、撮影もコンビの瀬川浩。

1964年製作/147分/日本
配給:東宝
劇場公開日:1964年2月15日

あらすじ

八月のある日、一人の教師が砂地に棲む昆虫を求めて砂丘地帯にやって来た。やがて夕暮となり砂丘の集落のある家で一夜を過した。蟻地獄のような穴の底にあり砂に蝕まれた破屋。そこに住む艶かしい三十前後の女。夜更けて女は砂の浸蝕から家を守るため砂かきの労働を始めた。翌朝目覚めた男は素裸で砂にまみれて寝ている女を見、苦々しい思いで家の外に出たが、崖には昨夜使った縄梯子は消え失せていた。驚いた男は自分が砂かきの労働力として雇われたことを知り愕然とした。女の言によれば、この集落は、砂という同一の敵によって固く団結していると聞かされるが。男はどうにかして逃げようとする。砂かきの世界に安住する女と、空白感に耐えられない男。しかし遂に穴の外に出ることに成功する日が来た女を騙し、ロープで崖を登る。が監視員に発見され失敗に終った。男はしかし脱出の夢は捨てなかった。穴を掘ってカラスをいけどり希望という名をつけたのもその現われだ。そんなある日、その穴に水がわき出ることを知り狂喜した。渇きに耐えられなかった男は、この突然の発見が脱出への渇望をおしのけた。やがて冬になり、女は子宮外妊娠で穴から出たのを機会に、男は縄梯子を登り、穴の外に立った。しかし男はまた穴の中に帰っていった。溜水装置を点検した男はもはや逃げる理由はなかった。男は水の出現で砂の穴の生活から自由を発見したのだ。それから七年後男の失踪宣告が下った。

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スタッフ・キャスト

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受賞歴

第37回 アカデミー賞(1965年)

ノミネート

外国語映画賞  
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映画レビュー

4.0見る者をも閉じ込める「砂の穴」

2025年7月1日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

冒頭で、男がひとり砂丘をさまよい、昆虫を採集する姿が淡々と映し出されます。台詞も説明もないまま、乾いた風と奇妙な効果音が空間を満たし、観る者もいつしか現実から隔絶された“砂の異界”へと足を踏み入れていきます。

<密室演出と構図の意味――主題を“考えさせずに”感じさせる>
勅使河原宏監督は本作において、ロングショットをほぼ排除し、顔と砂粒の至近距離での接写を徹底します。通常、映画のロングショットは風景や空間の奥行きを提示することで、観客に心理的な逃走経路や俯瞰的視点を提供します。しかし『砂の女』ではその広がりが消去され、観客はフレーム内の閉塞に巻き込まれることになります。
人物の顔や砂の粒子へ異様なまでに接近するカメラワークは、単に「見る」行為を超え、むしろ「のぞき込まされる」感覚に近づきます。これにより観客の視覚は拘束され、登場人物と同じ密室構造の中に幽閉されるのです。
この空間構成によって、観客は映画を傍観的に「鑑賞」するのではなく、登場人物と同様に〈そこに存在している者〉として、労働の反復、不条理な存在、自由の逆説といった主題と正面から向き合わされます。つまり本作では、主題が「台詞」や「ストーリー」によって語られるのではなく、カメラと構図の物理的構成そのものとして、観客の身体に迫ってくるのです。
言い換えれば、観客は「考える」のではなく、「感じ、圧迫され、導かれる」ことによって、主題に否応なく引き寄せられる。これこそが『砂の女』という作品における、主題の純化と強制の力学です。

では、その主題とは何でしょうか?

<主題1:自由とは何か――〈自由意志〉と〈環境的強制〉の逆説>
本作の中核にあるのは、「自由とは何か」という問いです。とくに、自由意志は本当に自律的なものなのか、それとも外的環境によって条件づけられているにすぎないのかというテーマが強く打ち出されています。
主人公は冒頭で、「学校の教師」であり、「昆虫を研究して論文にまとめる」という日常を生きる人物として描かれます。彼は自分の行動や価値観を“自分で選んでいる”と信じて疑いません。しかし、物語が進むにつれ、それらがすべて〈社会構造〉や〈職業倫理〉といった外部から与えられた枠組みに依存していることがあらわになります。つまり、彼の「自由」ははじめから構造の中に封じ込められていたのです。
ところが皮肉にも、穴の中という極限的に制限された空間に閉じ込められたとき、彼は初めて“逃げない”という選択を「自ら」行います。この瞬間にこそ、真の自由意志が芽生えるのです。与えられた環境から逃れることができない状況のなかで、それでもなお意味を見出すこと。それこそが人間の自由である――本作はその逆説を体現しています。
このように『砂の女』は、従来の「自由=外部拘束からの解放」という単純な図式を転倒させ、「不条理の只中において意味を創出すること」こそが自由であるという視座へと、観客を導いていきます。

<主題2:実存の再構築――〈意味の倒錯〉と〈新たな価値の発見〉>
『砂の女』は、実存とは何か、そしてその意味がどのように構築され直されるかという問いにも深く切り込んでいます。
主人公は当初、自らの人生における価値を「昆虫を研究し、論文にまとめること」に見出していました。これは知の体系を社会に還元するという意味で、いわば“社会的承認”に根ざした実存です。彼にとって「研究」とは、自身の存在証明であり、意味ある行為として内面化されていました。
ところが、穴の中という特殊環境に置かれたとき、彼が価値を見出すのは「水をためる方法を考えること」になります。一見、倒錯した選択のようにも見えますが、ここには重要な変化が起こっています。
両者はいずれも「知の探求」という行為においては類似していますが、その目的と価値の基盤が決定的に異なります。前者が“共同体”の中で承認される知であるのに対し、後者は“生存”という即物的かつ存在論的な条件に根ざした知です。つまり、意味の基盤が〈社会〉から〈存在〉へとスライドしているのです。
この過程を通じて、主人公の実存は再構築されます。社会的アイデンティティを失ったとき、人間はなおも新たな価値を創造し得るという点に、本作の実存的テーマの核心があります。そしてそれは、絶望の中においても人間の尊厳を回復しうるという可能性を示しているのです。

<主題3:認識の変化――〈構造〉への気づきと視座の反転>
『砂の女』における主人公の変化は、身体的拘束や心理的葛藤にとどまりません。最も深い層では、彼の「世界に対する認識」そのものが根底から揺さぶられていきます。これはまさに、認識論的な転回と呼ぶべき変容です。
当初、彼は都市に暮らす「文明人」として、穴の中の生活を“異常”で“野蛮”なものと見なし、自身の暮らしを「本来の世界」「正常な場所」と信じて疑いませんでした。しかし、脱出の失敗と、反復する日常を経る中で、その前提は徐々に解体されていきます。
やがて彼は、文明社会での生活もまた「構造化された檻」にすぎず、本質的には穴の中の生活と変わらないことに気づきます。社会の制度や規範、職業や役割――それらもまた“構造”であり、“与えられた条件”にすぎなかったという認識に至るのです。
このとき、彼の内なる視座は反転します。「外の世界」こそが幻想であり、「閉じ込められたはずの場所」にこそ、自己の真実と出会う場があったという逆説。これは単なる「順応」ではなく、現実そのものに対する深い洞察の結果として訪れた気づきです。
主人公は、信じていた構造が崩壊していく中で、無意識のうちに“剥き出し”にされていく存在です。言い換えれば、それは自己欺瞞の剥落の過程でもあるでしょう。
つまり『砂の女』は、閉じ込められた人間のサバイバルを描くだけでなく、人間の“世界理解の構造”がいかにして変容しうるかを精緻に描いた、極めて哲学的な作品なのです。

<主題4:労働と反復の存在論――“意味なき作業”に意味を見出すとは?>
『砂の女』における「砂をかき出す」という作業は、表面的には“無意味な反復労働”として描かれます。いくら砂を運んでも翌朝にはまた積もり、状況は一向に改善しない。そこにあるのは、成果も報酬もなく、ただ身体が消耗していくだけの作業です。
この「反復する労働」は、サルトルやカミュの実存主義的な“不条理”と深く共鳴しています。とりわけカミュの『シーシュポスの神話』における「石を押し上げることに意味を見出す存在」との一致は明確です。
しかしこの映画では、その“意味なき作業”のなかにこそ、主人公が〈能動的に意味を発見する〉プロセスが仕込まれています。水を溜める仕組みの発明はその象徴であり、与えられた不条理な作業に対して「自ら工夫し、技術を編み出す」ことで、能動的な主体に変わっていくのです。
つまりこの作品は、「人間がいかに“無意味”と見なされたものの中に意味を注ぎ込めるか」という存在論的な問いを内包しており、それ自体が生の倫理を問う主題になっています。

<主題5:女性という装置――共同体と欲望、母性の象徴>
穴の中で主人公と共に暮らす「女」は、一人の人物として描かれる一方で、物語の中では重層的な役割を帯びた存在となってます。
第一に、彼女は「共同体への埋没」を象徴しています。自分がなぜそこにいるのかを問わず、淡々と生活を回す彼女は、共同体的秩序(掟・労働・生存)への完全な従属を体現しています。彼女の存在は、主人公が文明から切り離されるための“媒介”であり、閉鎖空間に彼を引き込む装置です。
第二に、彼女は「性」や「母性」の象徴でもあります。性的接触の描写、妊娠、そして水を溜めるという“生を育む行為”への協力は、単なる男女関係を超えて、「生の反復」そのものを担っています。
彼女が与えるものは「愛」ではなく、「必要性」と「構造」です。つまり、この映画における“女”とは、個人というよりむしろ「環境」や「生の条件」として機能しているのです。

『砂の女』における〈砂/水/穴〉は、それぞれ「構造」「意味」「実存」といった哲学的カテゴリーに対応しながら、単なる比喩にとどまらず、観る者の身体感覚に訴えかける思想の物質的表現として機能しています。

<砂──崩壊する秩序とエントロピーのメタファー>
砂はこの映画における「世界そのもの」であり、「構造の不安定さ」や「不可逆的な時間」を象徴しています。
・構築しようとしても崩れる知・制度・人格
 これはまさに〈社会的アイデンティティ〉や〈学術的成果〉といった「人が積み上げようとするもの」の脆さの可視化です。
・止まらない侵食
 家の中にまで入り込み、生命を脅かす砂は「静かにだが確実に進行する死」の象徴でもあります(=死の予告)。
・変わらない反復/変わり続ける地形
 同じ動作を繰り返しても、地形(人生)は変化していく――その中で「変化しない自分」を保持することの困難さが示されます。
この意味で砂は、「エントロピー(秩序から無秩序への流れ)」の視覚的表現と言えるでしょう。

<水──内側から湧く秩序と実存の核>
水は映画の中で唯一、自らの労苦と工夫によって得られる成果物です。
・「生命」そのもの
 物理的な生命維持に不可欠であると同時に、「意味」を生む行為(知・創造・工夫)を媒介します。
・構造に対する能動的対抗手段
 砂というカオスに対し、彼は水を得ることで秩序を取り戻します。つまりこれは、与えられた環境の中で“意味を掘り出す”人間の力を象徴しています。
・儒教的/道家的二面性
 水は「したたかで柔らかく、しかし形を変えてあらゆる器に適応する」。この「環境との調和と能動的創出」の両面性は、まさに道家(老荘思想)と儒教倫理(努力と工夫)の合流点です。

<穴──実存の密室/母胎/構造の具現>
穴は一義的には「閉じ込められた場所」ですが、物語が進むにつれ以下のような多層的意味が浮かび上がります。
・社会の縮図(制度・共同体)
 村という共同体の周縁にある「隔離空間」でありながら、そこにもまたルールと秩序が存在する。
・母胎的象徴/子宮としての空間
 穴=女性/女の身体という読み替えも可能です。閉塞性と同時に、再生・循環・新たな自己の誕生を含意します。
・実存のステージ
 穴は最終的に「外」と対置されることで、彼が“真に生き始めた場所”となります。脱出しなかったこと=選択の証。

<主題の一本化>
演出・脚本・構図・人物すべてが主題に従属するため、鑑賞後に残るのはテーマそのものだけです。多層構造を誇る黒澤作品とは対極に、勅使河原宏は“主題の一点突破”で観客を殴りつけてきます。

砂を掻き、水を溜め、穴で営まれる終わりなき反復は、現代社会に生きる私たちの日常とどこか構造を同じくしています。崩壊に抗う行為にどういう意味づけを行うのか――その選択こそが、自由の有無を決めるのです。本作は、視覚を通じて「掘ることの意味」を問いかけてきます。そして今もなお続く「砂の穴」へと、私たちを誘い込んでくるのです。

鑑賞:WOWOWオンデマンド

評価:90点 (明確なテーマが読み取りやすかったです)

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neonrg

3.5砂の穴の中で暮らす女、何ともシュールな世界観だ。 女の家に泊めても...

2025年4月19日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

砂の穴の中で暮らす女、何ともシュールな世界観だ。
女の家に泊めてもらった男が「抜け出せなくなっていく」というから、てっきり女の魅力に取りつかれて精神的に抜け出せなくなるのかと思っていた。
ところが物理的に抜け出せない状態で、そっちかい!とのけ反ってしまう。
部落の人間もなぜあんな家が埋まらないように尽力する必要があるのかさっぱり分からない。
男も教師をしているというが、かなり感情の起伏が激しく、頭も悪そう。
男の馬鹿さ加減にはイライラするが、作品としてはおもしろい。

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省二

4.0毛細管現象?!〜武満徹の音楽との相性も素晴らしく。

2025年4月17日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

笑える

怖い

1964年公開、配給・東宝。

【監督】:勅使河原宏
【脚本・原作】:安部公房
【音楽】:武満徹

主な配役
【休暇を利用し昆虫採集する教師】:岡田英次
【砂の女】:岸田今日子

1.安部公房に挑戦する気概を称賛したい

高校生〜大学生のころ、数多くの安部公房作品を読んだ。
まさに「読んだ」という言葉がピッタリで、共感したり、批評するレベルになかった。
安部公房や中井英夫を読んでいると自分が賢くなった錯覚に陥ることができた。

安部公房の作品は難解だと思う。
本作前半の男女の「砂の湿度」に関するやりとり。
観ているうちに、どちらが正しいかわからなくなってくる。

本作は、武満徹の音楽との相性も素晴らしく、
見応えある作品になっている。
ちなみに、
『箱男』も観たが、レビュー不能だった。

2.美醜、笑い、官能の理不尽劇

全編トリッキーな脚本だ。
耳の裏が痒いと騒いだり、
ラジオのノイズのようなジリジリ音(砂を表現している?)とともに唐突に部分ドアップが流れたり、
次は何だ?となる。

官能といっても、ダイレクトなそれではない。
夜通しの砂かき作業に疲れ切った女が
全裸で横たわって眠っている。

そしてそのカラダの上にも、砂が降り積もる。

3.砂まみれのラブシーン

静岡県の浜岡砂丘がロケ地とのこと。
後半まで観ていくと、こちらまで砂をかぶっている気がしてくる。

岡田英次 44歳
岸田今日子 34歳

砂まみれのラブシーンはなかなかの迫力だ。

スコップの持ち方の指南されるくだりは笑える。

4.まとめ

毛細管現象から物語は大団円?を迎えることになる。
とにかく、すべてが不条理すぎる!
☆4.0

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Haihai

3.5マットな艶

2025年4月10日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

悲しい

怖い

斬新

 昆虫採集のため砂丘地帯に来た教師。帰りのバスが無くなったため、村人の案内で、大きな穴の底で砂に埋もれそうな民家へ泊めてもらう。家には一人の女がいて、砂をかき出していた。翌朝、彼はその穴から出られないと知り。
 原作は、30年以上前に読みました。状況から「ミザリー」を、ラストは「惑星ソラリス」を思い出しました。しかし原作も映画化も、それらより前です。
 乾いた砂とは裏腹に、ジメジメと湿度を感じます。そして岸田今日子にも、マットな感じでありながら、艶も感じました。後の岸田今日子しか知らなかったので、新鮮。

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sironabe