砂の器のレビュー・感想・評価
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経費で遠出するのにワクワク感が隠せない丹波哲郎がいい
時間ができたので、ちゃんと観たことがなかった名作を観てみました。
結構脚本には無理があるなあ。汽車の中から、シャツを紙吹雪のように捨てる女、それに偶然居合わせた記者、その記事を偶然読んだ若い刑事、とか。う〜ん。
丹波哲郎が演じた今西刑事が好感。遠出するのが好き、経費で行くとソワソワする、手柄たてたい、でも独り占めはしない、涙もろい。。。めちゃくちゃ人臭いキャラ。これをクールな二枚目イメージの丹波哲郎が演じたからこそ、そこにギャップが生まれ、好感のもてる登場人物が出来上がった。
しかし、凄い役者達が出ていたんだなあ。
丹波哲郎、加藤剛、渥美清、緒方拳、加藤嘉、島田陽子、森田健作、、、。亡くなった元駐在さんが緒方拳だった時にはその豪勢さに驚いた。
クライマックスシーンが秀逸。
加藤剛の演奏シーンに合わせ、幼い頃から現在に至るまでの描写が展開される。音楽の盛り上がりと場面がシンクロする。斬新だ。
※島田陽子美しい。
※渥美清が演じる映画館の支配人は、寅さんに見えて仕方がない(笑
もろく崩れさるもの
長く重く複雑な砂の器の映像化は難産で、ウィキにいくつかの逸話が記されていたが、なかんずく山田洋次の回想が興味深かった。
橋本忍とともに脚本を担当した山田洋次は──、
『「最初にあの膨大な原作を橋本さんから「これ、ちょっと研究してみろよ」と渡されて、ぼくはとっても無理だと思ったんです。それで橋本さんに「ぼく、とてもこれは映画になると思いません」と言ったんですよ。そうしたら「そうなんだよ。難しいんだよね。ただね、ここのところが何とかなんないかな」と言って、付箋の貼ってあるページを開けて、赤鉛筆で線が引いてあるんです。「この部分なんだ」と言うんです。「ここのところ、小説に書かれてない、親子にしかわからない場面がイメージをそそらないか」と橋本さんは言うんですよ。「親子の浮浪者が日本中をあちこち遍路する。そこをポイントに出来ないか。無理なエピソードは省いていいんだよ」ということで、それから構成を練って、書き出したのかな」』
(ウィキペディア「砂の器」より)
──と語ったそうだ。
言説どおり、映画砂の器は父子の浮浪者のイメージが常につきまとう映画になった。
病におかされた本浦千代吉(加藤嘉)が子を連れて行脚の旅に出る。当時ハンセン病は不治の病とされ、徹底した隔離・排除がなされていたので、行脚には世捨てと祈りの両義があったと思われる。
映画内では乞食という古い呼称が使われる父子は、文字通り行く先々でおめぐみに頼りながら、ぼろぼろになって津々浦々をあてもなくさまよい歩く。
薬や治療が確立されていなかった時代、ハンセン病は外見の変貌が人々から怖れられた。皮疹をもたらし兎眼から角膜障害へいたり激痛、脱毛、潰瘍、手指と足指は摩滅するかのように変形していく。
それは創作のなかでタタラ場の病者や大谷吉継のように描かれてきたが、ハンセン病の言語化可視化の原始は広く認知された砂の器と映画砂の器であったにちがいない。
その暗いハンセン病のイメージがつきまとうことで映画砂の器は推理ものでありながら深く黒々とした暗渠を見つめるような禁忌的重々しさをともなった。
また物語においてハンセン病はそれを差別しなかった者の善や正義を表象する機能を併せ持つ。タタラ場の病者を保護したのはエボシ御前であり大谷吉継を庇ったのは石田三成であり千代吉ら父子に慈悲をもって接したのは三木謙一(緒方拳)であった。
ただしハンセン病や行脚の父子がでてくるのは半ば過ぎからで、前半はずっと「カメダ」の謎を追う丹波哲郎が描かれる。
砂の器の推理の中枢は方言であり、方言が主役のドラマと言っていい。
松本清張が砂の器の着想としたと思しいエッセイがウィキに紹介されていた。
『雑誌『旅』1955年4月号に掲載されたエッセイ「ひとり旅」で、著者は以下のように記している。「備後落合というところに泊った(中略)。朝の一番で木次線で行くという五十歳ばかりの夫婦が寝もやらずに話し合っている。出雲の言葉は東北弁を聞いているようだった。その話声に聞き入っては眠りまた話し声に眼が醒めた。笑い声一つ交えず、めんめんと朝まで語りつづけている」。この経験が、のちに本作の着想に生かされたと推定されている。』
(ウィキペディア「砂の器」より)
筋が豊富かつ複合的で、推理が主知的で、ストーリーが独創的で、登場人物が多彩で、そこにハンセン病というトラウマチックな重みが加わり、こういうのを書ける人が今いるのだろうかと思わせる松本清張の凄みを感じる映画だった。
その凄みを色づけをせずに仕上げた野村芳太郎もさることながら、わざわざプロダクションをつくって書いた橋本忍の執念の映像化だったと思う。
ただし後半の演奏会描写がくどかった。
「宿命」は砂の器のために予算を投じて書き下ろした楽曲なので、大フューチャーしたい理屈はわかるが、加藤剛が演じるピアノ兼指揮者とオーケストラが、まさにオーケストラルな盛り上がりを構成するのは、大仰さと古さを感じた。悲愴な楽曲をバックに、悲劇的回想がフラッシュバックされるのも、今見ると大時代的だった。IMDB7.3。
【“難病への偏見と、二つの親子愛が惹き起こしてしまった悲劇。”今作は、昭和の推理小説の傑作を名匠、野村芳太郎が見事に映像化した逸品である。】
ー 松本清張氏による原作は、日本の推理、社会派小説の傑作であり、S・S・ヴァンダインのファイロ・ヴァンスシリーズなど、推理小説に嵌っていた〇学生時代に読んだ記憶がある。そして、その重層的な構造、方言分布の解釈、及び社会的メッセージの重さまで盛り込んだ内容に、驚いたものである。ー
◆感想<Caution!やや、内容に触れています。>
・そして、原作を読んで満足していたのだが、最近、昭和の名画をリバイバルした映画が公開された事で、今作を思い出し、観賞した訳である。
■結論から言えば、この作品は傑作小説をほぼ忠実に映像化しつつ、映像化した意義が効果的に観る側に伝わる点が素晴しい。(特に原作を読んでいる者にとっては。)
日本各地を飛び回り真実に近づいて行く刑事(丹波哲郎)の姿と、難病を持つ両親の子として産まれたために人生をやり直した男(加藤剛)と、男を親身に育てた善良極まりない警官(緒形拳)との関係性が、見事に描き出されている点と、
著名な音楽家になった男が、満場のコンサート会場で重厚なピアノを弾くシーンと、刑事が多くの捜査関係者を前に事件の真相を述べるシーンと、幼き男と父(加藤嘉)が、村々で差別を受けながら放浪を重ねる二人の過去の哀しすぎるシーンを被らせて描き出した再後半のシーンは、見事である。
<今作は、、昭和の推理小説の傑作を名匠、野村芳太郎が見事に映像化した逸品なのである。
ラストのテロップで流れる難病に対する偏見を糾弾するかの如き、重いメッセージがこの作品をより社会的に意義あるモノにしているのである。
昭和の名優が、多数出演している所も、若輩者には嬉しき限りの作品である。>
日本の心
山や海などの日本人の原風景が映し出された長い回想シーンとテーマ曲が観客の感情を揺さぶる様に制作されていて、これが日本人の心を鷲掴みにしたのだと思います。制作側は策士ですね。
日本人は、何故だか苦労話が大好き。人生とは理不尽であり苦しみが絶えないもの。でもその苦しみに耐え忍ぶのを美徳とするのが日本の心なのです。欧州や欧米の作品であれば、もっとストレートに“おいコラ、ハンセン病患者を差別してんじゃねえぞ”ともなりそうですが、日本人は本作みたいな表現が合うのかな。
本作の理不尽はハンセン病と貧しさでしたが、公開時の観客は戦争体験者も多くいたと思います。あの第二次世界大戦・太平洋戦争は、ほとんどの日本人にとって、理不尽極まりないことです。被爆者、戦争孤児、沖縄や在日の方への差別や偏見も多くあったと想像します。観客は登場人物の人生に自らの理不尽な戦争体験を重ねて鑑賞し、多くの共感を呼んだのだと思いました。
「宿命」に集約される情感的作品
丸の内TOEIで開催中の『昭和100年映画祭 あの感動をもう一度』企画の3本目。本作は配信で観たことがあるものの、劇場では初めての鑑賞でした。
一応刑事物、推理物に分類されるものの、主題は犯人である和賀英良(加藤剛)の人生そのもの。そして彼が作曲した「宿命」という曲が、自らのピアノとオーケストラで演奏される調べに乗って流れる回想シーンこそが見所中の見所でした。「宿命」は、本作の中心に常に存在しており、やはり劇場で味わうにひと味もふた味も違いました。
一方、推理物として観ると、前半部の今西刑事(丹波哲郎)らによる日本中を歩き回る捜査は中々結実せず、後半になって犯人が特定されて逮捕状が発行されて行く過程はかなり省略されている感がありました。捜査会議で和賀英良の人生を振り返り涙する今西刑事の姿は、こちらにも涙を誘うものであり、またこの演出により、映画としてのテンポは担保されているものの、推理物としてはちょっと不完全燃焼に思えなくもありませんでした。
それにしても俳優陣は超豪華であり、また野村芳太郎監督、橋本忍と山田洋治の脚本、さらには原作が松本清張と、隅から隅までオールスターで作られており、ややもすれば船頭多くしてとなるところを、きちんと統合された作品に仕上げた野村監督の手腕は流石と感じざるを得ませんでした。
あとちょっと気になったのが、終盤の捜査会議で、刑事部長らしい人が「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と読んだこと。ん?これって誤読じゃないのかしらと思ってググったところ、この「じゅんぷうまんぽ」問題は結構有名なようで、いろいろなコメントが確認できました。結論とすると、映画制作当時は「じゅんぷうまんぽ」という読みも容認されていたようで、「じゅんぷうまんぱん」が正しいとされるようになったのは最近のことであるらしいとのことでした。これは意外なお話でした。
そんな訳で、本作の評価は★4.6とします。
50年を経ても映画館を満席にする日本映画の傑作
言わずと知れた傑作。
私も好きな邦画を問われると必ずこの名を挙げます。
主演の丹波哲郎さんはとても格好よく、森田健作さんも若々しく、
どの役者さんにも引き込まれてしまいますが、
やはり特筆すべきは加藤嘉さんでしょう。
あのセリフは数ある名作映画の中でもトップクラスに、
みなさんの心を締め付けたのではないでしょうか。
導入は物騒な殺人事件だったはずなのに、ラストでは涙を抑えられない展開。
さすがに50年前の作品なので、色々と表現も価値観も今とは違います。
私の性別が女性であることも大いに影響しますが、
ただの舞台装置のように扱われるリエコには何とも言えない気持ちになりました。
さてこの映画は語り手である刑事のある一言を境に、
それ以前とそれ以降の空気感が一瞬で変わります。
その一言からしばらくは説明シーンもセリフもほぼありません。
ですが、罪を犯した男がどのような人生を背負ってきたか、
それがこの一言で一瞬でわかるようになっているのです。
多くを語らないのに、観る者に畳みかけるように強く訴えかける映像。
これが本作を傑作たらしめる理由のひとつであるに違いありません。
しかし、この理解の解像度は時代によって・人によって大きく変わります。
令和の時代を若者として過ごしている人たちが、
果たして公開当時に鑑賞した人たちと同じ衝撃を受けるでしょうか。
恐らくですが、答えはNoです。
映画の最後に社会背景の説明などが語られるのですが、
これだけでは不十分で「へえそうなんだ」程度の感想になるのではないでしょうか。
後半も「身なりが汚いから・乞食だから虐められてるのかな」、
そう思われても何らおかしくありません。
現在は特に、歴史を学ぶことや社会背景を知ることは二の次で、
すぐに役立つ技術や能力の取得がより優先されているように感じます。
ですが、この病気を抱える人たちの扱いがどうであったかを知っているか否かで、
この映画の感想は一味も二味も違ってくると考えます。
私の近くには、この病気の社会的扱いを研究対象とした方がいました。
そのため自ずと理解度が深まり、忘れられない映画となっています。
いわゆる「文系」の知識は無駄が多いとすら言われますが、
その「無駄」があることで気が付くことができるものが、
世の中にはたくさんあると思うのです。
話は横にそれますが、そろそろ桜の季節です。
東京には多摩全生園という桜の名所があります。
これはハンセン病患者療養施設ですが、
「いつか患者も、そうでない人たちも一緒に桜を愛でられるように」
という思いで今から約70年前に植樹されたものだそうです。
それが今こうして桜の名所として親しまれていることは、
とても素敵なことではないでしょうか。
この映画を観た後でこのエピソードを知ったとすれば
去年も見た桜並木が、また違う景色として見えてくるのではないでしょうか。
長くなりましたが、原作超えの傑作です。
古い作品だと脇に置かず、若い世代の方にもぜひ観ていただきたいですね。
砂で造ったもののように儚い
序盤に 警部補の今西栄太郎(丹波哲郎)と 巡査の𠮷村弘(森田健作)の二人が 出張(という名目の旅)をしているシーンがあり、終盤に 本浦千代吉(加藤嘉)と 本浦秀夫(春田和秀)の二人が、とある理由で(それは核心に迫る話なので ここでは秘密だが)旅をしている。
旅で始まり 旅で終わる作品なのだ。せっかく遠くまで行っても無駄だったり、結果的に残らない砂で造ったもののように、人生のひと時の幸せと儚さが描かれている。
本浦親子の旅が、コンサート会場で組曲「宿命」を演奏している者と捜査会議に出席している者たちの回想または想像のように見せるクライマックスの演出が秀逸である。
今となっては、現代パートも過去パートも ノスタルジックで味がある。
くりかえし くりかえし、くりかえし くりかえし・・・
殺人を犯してまで隠したい過去
1974年作品。
原作・松本清張。
監督・野村芳太郎。脚本・橋本忍と山田洋次。
社会派ミステリーの傑作です。
ピアニストの和賀(加藤剛)の殺人の動機・・・それは生い立ちにあった。
父親(加藤嘉)が、ハンセン病の患者だった過去。
今では感染しないと証明されていますが当時は忌み嫌われた病でした。
父親と幼い和賀は巡礼の汚れた白装束に身を包み、
放浪の日々、物乞いをする乞食のようにして生きてきた。
父は衰えた腕を杖に頼り、幼ない和賀はいつも腹を減らしていた。
そして成人してピロアニス・作曲家として有名になり、
良家の娘を婚約をしていた。
《ストーリー》
ある日、見知らぬ男から、懐かしい、成功されて嬉しいとの電話が来る。
その男は人の良い刑事だった。
和賀は過去を知るその男の存在を、受け入れることは不可能で、
ただただ抹殺したい・・・それしか考え付かなかった。
そして彼は用意周到な完全犯罪を目論むのです。
過去や隠したい秘密・・・松本清張の小説では、隠したいことが、
殺人の動機になります。
「ゼロの焦点」も「波の塔」も「点と線」もそうです。
過去は変えられないから、消すしかない?
殺人者は思い込みます。
ラストでは、和賀のキャリアの絶頂期と言えるピアノ協奏曲「運命」を、
和賀が自らピアノ演奏する姿に、
父と息子が海辺を放浪する巡礼のシーン、
過去の回想シーンが、オーケストラとピアノ演奏の美しさと対照して
それに被さる親子のみすぼらしさ、哀れさが、
津波のように覆いかさぶってくるのです。
鮮烈で心揺さぶられます。
主演の加藤剛(日本人の良心のような人の犯罪者役、)
父親役の加藤嘉(惨めさを演じたら、右に出る人はいない、)
ペテラン刑事の丹波哲郎、新米刑事の森田健作。
原作・監督・脚本・俳優
全てが最高の役割を果たした傑作です。
またジャケット写真の美しさは比類ない。
原作が良い、緒方拳が良い、加藤嘉が良い、がチカラの伝わらない作りは残念。
物語の設定は昭和初頭から中期。
撮影は1970年初め頃と随所に昭和感がある。
やはり原作の松本清張ありきで
綴られる物語の内容は深い。
主演よりも後半登場する緒方拳・加藤嘉が良い。
どちらも善人・悪人を演じられる優れた俳優で
この映画の中でも「その人」を演じている。
その他の登場人物も本当に多彩・豪華で
ほとんどワンシーン・ワンカット登場が多く
彼らだけで後何本も映画の撮れるほどだ。
しかし残念なのは犯人の薄さ、意図のなさ
人間としての「その人不在」は悲しくなる。
また音と演奏の動きの合っていないピアニスト
その姿には残念以外に思い当たる言葉はない。
プロならもっと練習して挑んでほしく
プロならOKを出してはいけない、
レベルは低い、と厳しく思う。
その中で救いは緒方拳・加藤嘉の演技
そして今はもう無い昭和の風景だった。
※
望まれない善意
「誰からも恨まれることのない善人」と呼ばれた元警官が殺された事件。
犯人は昔助けたハンセン病の父を持つ息子。
「子どもだけは絶対に産むな」といった男は、幼少期の自分の過去を恨んでいたのかな。
父もまた過去のどうしようもなかったとはいえ自らの病気により息子に重い「宿命」を背負わせた罪から
「全く知らない子だ」と会うことを拒否。
でも父はたった一人、文書を交わしあってきた元警官である恩人には心の内を明かしていた。
親子を想う善人により再びはっきりと
浮かびあがる親子の「宿命」。
自分にとっての善が人の善とは限らないの究極。
人の人生に踏み込むことの恐ろしさ
かわいそうな父子の道行き→名作となる「宿命」!
原作未読、映画は初見での感想です。
本作の脚本には、設定やプロットに突っ込みどころが多々あります。
● 冒頭の秋田旅行が全く無駄!
● あの少年が成長していきなり天才ピアニスト!売れっ子作曲家!という設定が無理…
● 三木謙一が写真一枚で和賀英良の正体に気づく?親でもないし、30年も会っていないのに…
● 和賀英良は三木謙一と面会しなければいいのに。会ったとしても本浦秀夫なんて知らないと突っぱねれば済む話!
● 和賀英良は血のついたシャツの始末を愛人に託す?自分で始末せえ!
● 愛人はシャツを切り刻んでわざわざ列車の窓からばらまく?燃やせよ…
● 愛人は都合よくあっさり失血死!?肩透かし!
● 和賀英良は他人を石で撲殺した後に平然と作曲活動にいそしめるの?
● わざわざ政治家を登場させておいてなんにも悪さをさせない…
ではなぜこの映画が大ヒットし多くの日本人の心を掴んだのか。昭和を代表する俳優陣の熱演や音楽の素晴らしさもさることながら、「かわいそうな父子のお遍路の道行き」にスポットを当て、浄瑠璃風味映画に仕立てた橋本忍の大勝利ではないでしょうか。本作は私達の「共感性スイッチ」を見事に押します。「差別され迫害される弱き者たちがそれに耐える姿」を見せられると、私達はそれだけで胸が締め付けられてしまいます。それが親子の姿であればなおさらです。この感覚は日本人のDNAに刻み込まれた性のようなものであり、それを描いた作品はすべて名作となる「宿命」です。
0076 そんな奴はしらん!ウッウッ
1974年公開
プログラムピクチャー全盛の日本では対応不可能だった
1年越しの撮影期間。
監督、カメラマンが納得するまで待ち続けて捉えた
映像の深さ。それによって表現される日本の四季。
ジャニタレ、CG全盛では生まれない美の大作。
原作目線では成功者の過去を知っている知人を殺害、
という推理小説の1パターンの元祖で
原作は原作で味があるが脚本の橋本忍は
あれはミステリーとしては全然面白くない。
親子の宿命の話にする、と。
コンサート会場から奏でられる「宿命」素晴らしい!
バックでは迫害される親子が日本の四季を旅する。
オープニングの砂の器が壊れていく様も印象深い。
初鑑賞は高一でしたが泣けましたね。
話を最後に統括する丹波哲郎も板についています。
あー45年後に亀嵩駅行きましたよ
90点
初鑑賞1977年2月23日 梅田コマゴールド
◆友人が映画解説動画始めたのでよかったら見てくださいね
第一弾は「砂の器」です。
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捜査の中で人物が浮かび上がる
「ある男」と同じ構成、と思ったら実際「ある男」は「砂の器」を意識していたよう。
のんびりと全国を観光するかのような捜査ののちに、徐々に被害者や加害者の人物像が浮かび上がってくる
捜査はかなりのんびり描かれていて、電車から服を散り散りに切って飛ばすのを新聞のコラムで偶然見つける、なんてのは正直嘘くさくてうーんとなる
犯人の指揮者は、父との縁も切るし、不倫相手の子供も認めない
犯人にとっての父と子の関係は一概には断言できないような複雑なところがある
映像と音楽で描かれる親子の旅路は確かに父と子の関係を強く結びつけ、同時に父の受ける差別をそのままに子にも与えている
じゃあそこに不用意な善意で踏み込んだ被害者が、果たして押し付けがましい偽善者だったのかというと、そこも難しい
少なくとも差別者よりはましだったわけで、殺されてしまったのは気の毒
ただまあそういう善意の鬱陶しい部分もあるよなあとは思いつつ
けど、じゃあハンセン病患者を差別するでも手助けするでもなく、傍観するのが良かったのかと問われればそうでもないわけで
どうしようもない根深い問題がそこに残る
ハンセン病を知らなければ分からないだろう。
ハンセン病の悲惨な歴史を知らなければこの作品の重さは分からないだろう。
幸いに自分はある程度その歴史や病気を教える立場にいるので、何の前情報も持たずに観た本作が本疾患の暗い歴史から生まれた悲劇であることの意味を十分に理解出来た。まず、ハンセン病を簡単にでも学んでから観ることをお勧めする。
しかし後半の壮大な音楽「運命」と回想シーンとのマリアージュは大変素晴らしく、これは映画ならでは。原作の小説だけではこの音楽には出会えなかった。
また、丹波哲郎、森田健作、緒形拳などの名優の演技も素晴らしい。
しかし、一回観ただけではちょっと理解しづらかったですかね。
ここまで主張性を含めたいならドキュメンタリーでやった方が良いのでは?
個人的にミステリーに関しては、島田荘司や綾辻行人由来の新本格嗜好なので、松本清張に代表されるような所謂「社会派」はあまり好きになれない。
「差別問題」や「偏見」に対する異議申し立てとしての意味合いは分かるものの、あまりにもテーマが重々し過ぎて、ミステリーやサスペンスとしてのエンタメ要素や謎解きのカタルシスはまったくない。そう言う意味で、あえてこのテーマを「推理もの」というジャンルで扱わなくてはならない必然性が分からない。ここまで主張性を含めたいならドキュメンタリーでやった方が早い。むしろ、こういう形でハンセン氏病を扱う事に疑問が残る。
入手した情報による点と線の結び方も強引で、論理的な推理部分はほとんど無い。
それ以外は旅先の風景の叙情性でもっているようなもの。無駄に時間が長いのも辛い。
過酷な運命が紡ぐ壮大な人間ドラマ
かなり大昔に劇場鑑賞した作品だが、今でも鑑賞した時の衝撃ははっきり覚えている。
冒頭シーン。波打ち際に作られた砂の造形物が、波が打ち寄せる度に少しずつ崩れていく様を憂いを込めて描く。作品タイトルとリンクしていて、作品世界に観客を誘うプロローグであり、凄い作品を観るんだなという予感がした。
JR蒲田駅近くで発生した殺人事件。犯人に結び付く手がかりは少なく、捜査は難航する。しかし、捜査を担当した二人の刑事は、わずかな手がかりをもとに、執拗に、粘り強く、執念の刑事魂で、犯人に迫っていく。
本作は、単なる犯人捜し物語ではない。壮大な人間ドラマである。
犯人の犯行動機が、あまりにも切な過ぎる。
犯人の子供の頃の回想シーン、差別を受けて父子で日本各地を放浪するシーンが、感動的で美しく、哀しく切ない。日本の美しすぎる四季の風景と、壮大で優美な音楽が相まって、いつ果てるともない放浪を続ける父子の姿に感涙必至。繰り返し挿入される、このシーンが作品の背景色的な役割を担っている。作品の雰囲気を作り出している。
父子がようやく辿り着いた安息の地での出会いが、後の過酷な運命につながっていく・・・。
差別、運命、宿命、生きること、愛すること、栄光、悲劇、等々、様々な要素を巧みに盛り込んでいる。それらの要素について深く考えさせられる作品である。長尺作品であるが、作品世界に入り込んで、この壮大な物語を鑑賞、否、体験することができる。正しく映像体験することができる。
観終わって、場内が明るくなっても、席から離れられなかった。暫く観終わったという充足感と、圧倒的な感動の余韻に浸っていた。
こんな作品を後何本観られるだろうか。
こんな作品に出逢えることを信じて、映画生活を続けていきたい。
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