溝口監督の戦前作品を初めて観た。
この映画の骨子は、愛する男性を陰で支え、
その成功を見届けながら
ひっそりと消えていく女性の物語で、
良く有りがちな内容ではある。
しかし、
この映画の世界に引き込まれるのは、
計算され尽くした映像美が
作品の風格を醸し出しているためのように
感じると共に、
更に、溝口映画特有の長回しが、
私の思考を助ける装置として機能してくれた
ためとも思えた。
ただ、直近に観た「西鶴一代女」に比べると、
その長回しが
少し冗長に感じる箇所が見受けられて、
戦後作品までの発展途上的出来栄えにも
感じた。
この作品のストーリーは前述の通り、
男の出世に命まで捧げた薄幸の女性の物語
のようにも感じるが、
菊之助に比べて、
お徳の生き様は明らかに能動的である。
彼女の人生には、単なる犠牲ではない、
人を正しい道に導く
骨太な人生観を彼女に感じないこともない。
“残菊”という言葉を初めての知ったが、
菊之助が人生ギリギリのところで
見事に咲いたという意味よりも、
彼の成功のために、
ギリギリまで咲いて散ったお徳の生き様
のことだったろうか。
しかし、それでも、
当時の封建的な世界での犠牲者のような
お徳の人生だったとも
思わざるを得なかった。
それにしても最後のシーン、
公演前に見舞いに来た菊之助は
既に社会的な力を
有しているはずなので、
お徳のために、どうして
早く医者を呼ぶなりの手配をしないのかと、
こちらがイライラするほど、
作品の世界に取り込まれてしまっていた。