海兵四号生徒
劇場公開日:1971年10月30日
解説
江田島の海軍兵学校の厳しい規律の中で凛々しく生きた青年たちのひたむきな姿を描く青春映画。原作は豊田穣の同名小説。脚本は「儀式」の佐々木守。監督は黒田義之。撮影は「おんな牢秘図」の武田千吉郎がそれぞれ担当。
1971年製作/91分/日本
配給:大映
劇場公開日:1971年10月30日
ストーリー
昭和十二年春。広島県江田島海軍兵学校に第六十八期生約三百名が四号(一学年)として入学した。入校第一日目姓名申告を命じられた四号たちはいくら大声で名乗っても「聞こえん!」と怒鳴られ、失笑した矢沢は伍長補の一号嶋之内の殴打を受けた。起床ラッパに始る兵学校の生活は、迅速、正確な動作が要求され、厳しい規律と訓練の繰返しだった。カッター訓練、古鷹山登山、みんながアゴを出す烈しい練磨の日々の中、二番の成績で入学、二分隊先任四号十条正文だけは優等生らしくやり抜き賞讃とねたみの的になっていた。郷里への手紙の中に、矢沢が「江田島は幻滅の場所である」と書いたことこから二分隊四号全員が嶋之内から凄まじい修正を受けた。殆んどの四号がぶっ倒れた中で、盛田修平だけが倒れなかった。初夏、六月、「天下に冠たる」と水泳主任嶋之内生徒が形容する水泳訓練が始まった。二分隊では、修平、関野、十条の三人が全然泳げぬ赤帽組だった。沖合に連れていかれた三人は、いきなり水中に放り込まれ、五分間海中で動けと拷問に近い命令を受けた。七月七日日中戦争始まる。夏季休暇を終えた修平は、小銃係に呼びつけられた。小銃の遊底覆いが銹びていたのだ。菊の御紋章入りで戦争に参加してきた銃を銹びさせたのだから、ただで済むはずはなかった。連帯責任で四号全員痛烈な洗礼を受けた。九月下旬、生徒全員が参加する分隊水泳競技が行なわれた。十一月宮島弥山登山競技の日がきた。この日のために古鷹山で鍛えた成果がものをいうのだ。海抜五百メートル二千数百段の石段を駆け上る。精神力と体力の競技だった。冬季休暇帰京した修平は、水兵に志願した同窓の水野が戦死したことを知り心が引き緊るのを覚えた。三月下旬、蛍の光が吹奏されるなか小尉候補生の姿も凛々しく一号が巣立っていった。昭和十六年太平洋戦争始まる。同二十年捕虜収容所で終戦を迎た修平は、押川の弟義郎と出逢い、押川ほか同期の戦死を聞いた。押川の母は、歴代海軍の戦功者、戦死者を出した家柄の厳しさを示し、義郎に短剣を差し出し自決を促した。墓前で自決しようとする義郎の前に立ちはだかった修平は、短剣を取り上げ海中に投げ込んだ。