うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマーのレビュー・感想・評価
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長年、何度も見ていると流石に飽きる
斬新な展開、設定、絵づくりで、何度見たか分からない。
このコンテンツはかなり好きだけど、劇場版を最も見ていて、次がテレビアニメ、そして実は原作への思い入れはほとんどない。
最初にテレビから入り、劇場版のビデオでハマって、原作を読んでみると意外と楽しめなかった記憶─。
最も見たであろうこの劇場版、何がそれほど自分を引きつけたのか─。やはり一風変わった作品だったからだということが大きいからで、その摩訶不思議な映像を繰り返し見て楽しめた。
時を経て改めて見ると、さすがに全てにおいて色褪せたものを感じてしまって、あの感動はもう皆無、残念ながら・・・。
ふと、思い出すのは、繰り返し見続けていく中で、一番面白いと思っていたビューティフルドリーマーからかわって、最初のオンリーユーが自分の中でだんだん一番になっていったこと。挿入歌含め、やっぱ最初が一番─。
とはいえ、このビューティフルドリーマーの情熱、野心、トライは消えることはなく、観賞の面白みが減ってきているとはいえ、色々と見るべきところはまだまだある、というかフォーエバー。
『巻き戻され無限ループに陥った現実と云う虚構』
原作はおろかTVアニメ版も殆ど観た事が無く、実はアニメ自体が無知蒙昧なジャンルではあるものの自宅にて鑑賞。難解なモチーフをクール且つ可愛らしい絵柄で見せる。主観性と客観性、或いは時間や空間、意識の共有、心象面・物理面を含めた他者との距離感、自我に寄ったそれらの産物と云ったテーマが描かれ、“タクシー運転手”が“サクラ”に語り掛ける科白にそれらが凝縮されている。度々登場する「浦島太郎」における仮定のエピソード、云う迄もなくそこに本作の肝がある。好みの噺でもあるが、なるほどよく出来ている、存分に愉しめた。75/100点。
・夜半にのっぺらぼうのチンドン屋一行は正に悪夢で、ここのみでも立派なホラーシーケンス。このチンドン屋にも同行し、他にも現実が巻き取られる様な様々なシーンに登場するつば広帽子にワンピースと白で統一された衣裳を纏う少女が奇妙な存在である。ラスト近くで明かされる彼女の素顔(正体)は意外に思えたが、シリーズの他作を知らないので、詳細はお詳しい方にお任せする(ちなみにこの少女とフランケンシュタインと云う構図は『ミツバチのささやき('73)』そのものである)。本作の元となるシリーズの世界観やキャラクターの詳細、原作等を殆ど知らないが、この少女は有名なキャラクターなのだろうか。公衆電話を含め一斉に鳴り出す電話も気味が悪い。それらとは対照的に路地裏で大量の風鈴が横切るシーンや手掛かりを求め迷路じみた夜の校舎を探索するシーン等は幻想的である。
・同じ一日がリピートされる中、街中の人が消失すると同時に街が退廃して行く設定が興味深い。無限に繰り返される現実は本作以降、多数のフォロワーを産んだと思われるが、本篇内でも触れられる通り、古くは荘子の記した私は蝶になった夢を見ているのか、それとも人を夢見た蝶なのかと云う「胡蝶の夢」であり、このテーマや疑似体験・仮想現実、模造記憶等を手を変え品変え書き続けた感のあるP.K.ディックの「虚空の眼('57・他人の夢の共有と云う設定は本作と全く同じ)」や「時は乱れて('59)」他、彼の諸作を想起した。
・ネタバレとして、第三者による環境下でのコントロールされた日常生活と云う世界観や設定は、『新・世にも不思議なアメージング・ストーリー2('88)』に収録されている『シークレット・シネマ "Secret Cinema('86年4月6日米国TVにて初放送)"』、『トゥルーマン・ショー('98)』、『エドtv('99)』、『ダークシティ('98)』、『シグナル('14)』等に酷似している。
・本作はTVシリーズの一エピソード、'83年7月27日放送された第101話『みじめ! 愛とさすらいの母!?』が元ネタであると脚本を兼ねた監督が認めている。尚、TV放映当時、制作側から虚構と現実を往き来するこの様なのは二度とやるなと釘を刺され、大目玉を喰らったと監督は回想している。
・監督が絵コンテをきっている際の仮題は"Forever Dream"であり、製作時には"Remember Dream"と呼ばれていた。“サクラ”が“面堂終太郎”と“諸星あたる”を呼び出す際に宛てた手紙にある「ありおり侍りいまそかり(そもそもは古文におけるラ行変格活用の暗記法)」と云う文面は、小松左京が書いた「明日泥棒」に登場する“ゴエモン”の口癖から引用したらしい。
・本作のタイトルはスタッフロールが始まる直前迄表示されず、更にそこで写される校舎に在る時計台はロールが終了し、BGMがフェードアウトする中、画面が暗転する迄、チャイム(鐘)を鳴らし続けている。
・本篇前に表示されるロゴでも判るが、本作の権利は東宝が所有しており、その関係で劇場でかかっているコンテンツ(メタ的な劇中劇)の一齣や準備される学園祭のコスプレ、張りぼてとしてかの“キング・オブ・モンスターズ”やウルトラマン、バルタン星人、ピグモン、カネゴンと云った円谷のキャラクターも顔を出している。亦、シリーズ中、当時米国で唯一リリースされなかった一本(東宝が米国の上映権も所有してた為)であると云う。
日常系SFアニメの構造を逆手に取った名作。
今なお高い人気を誇るアニメ『うる星やつら』の劇場版第2作。
文化祭前日のため準備で大忙しな友引高校に起こるある異変に、あたるたちが巻き込まれてしまう。
監督/脚本は前作から引き続き押井守が担当している。
名作と名高い本作。
季節が巡っても進級も卒業もしない日常系アニメであることのアンチテーゼとして、文化祭の前日という1日がループしているという構造が面白い。
冒頭の文化祭準備シーンはキャラクターが活き活きして非常に楽しそうだが、同じ1日が繰り返されている事に視聴者も登場人物も気付いていく。それにつれ徐々に恐怖が募るような演出は流石。
♨️がさくら先生に自分の考察を話すシーンは本当に総毛立つ。
ループ空間から抜け出そうとするまでは本当に面白いが、ループ世界の崩壊から先は正直盛り下がる。黒幕である夢邪気がでてからが一番面白くないのはなんだかなー、という感じ。
個性的なキャラクターとそれを演じきる声優陣は最高。
粘りある作画、丁寧な動き、音楽の使い方は非常に良い。
オチはあっさりしすぎだと思うが…
大人になって…
「終わりなき日常」における倫理的態度
本作ではうる星やつらの内包する世界観、そして「終わりなき日常」と呼ばれた80年代の空気感を批評的に描き出すことに成功している。
学園祭の前日が永遠に繰り返されるラムの夢は比喩的に言えば、うる星という作品の無限ループ構造そのものであり、同時にあたるを胎内に閉じ込めようとするラムの欲望である。
ラムの夢の世界を内破し現実に帰る方法は、あたるがラムに告白し「責任を取る」しかない。けれどもそれは、それこそ永久にラムの体内に閉じ込められることになるパラドックスでもある。
ここで示されているのは内破の不可能性を承知の上であえて内破を試みなければならないという一種のアイロニズムである。そしてそれこそが80年代的「終わりなき日常」における一つの倫理的態度だったのかもしれない。
夢幻のウチだっちゃ!
『うる星やつら』は高橋留美子の作品だが、押井守が手掛けたものだけは押井守の作品でもある。
それが最もよく表された劇場版第2作目。
押井が今のスタイルを確立した出世作であり、押井の傑作の一つであり、日本アニメーションの名作。
しかし、『うる星やつら』としては…、異色作。
高橋留美子が押井の才能は絶賛しながらも、作品には否定的な意見を述べたのは有名な話。
友引高校学園祭前夜。
連日泊まり込みで準備に追われるラムやあたるたち。
しかし、次の日になってもまた次の日になっても“明日”が来ない。
一体いつになったら学園祭の“明日”が来るのか、自分たちは一体いつから泊まり込みをしているのか…?
ようやく異変に気付いた一同は町から脱出しようとするが、何故か友引高校に戻ってしまう。
面堂の飛行機で何とか脱出。
空から見た驚愕の光景とは…!
本作は2つの概念に大胆に切り込んでいる。
まず一つは、時間。
年、月、週、日、時、分、秒…。
そもそも、時間って?
朝が来て夜が来て、日本には四季があって、それで時間や時の流れが何となく分かるとしても、そんなの誰が決めた?
それ以前に、時間という“もの”は存在するのか?
例えば、今日2月12日。今午前10時過ぎ。
これは本当に正しい時間なのか?
日付や時間がそう決められているから、皆そう思っているだけ。
時間なんてものは何処かで誰かが作ったに過ぎないもので、実際は時間なんて概念は存在せず、ただ延々と同じ時が流れているだけではないのか…?
そして、夢。
あたるたちが見た光景とは、巨大な亀の上に乗った友引町。
誰も気付かなかったのも無理はない。
劇中で何度も比喩されてる通り、全員が亀に乗って竜宮城に誘われたのだから。
全ては、夢邪鬼という妖怪の仕業。
いつの間にか、夢邪鬼が創り上げたある人物の夢の中に居た。
この楽しい時が永遠に続いて欲しい、そう思ってるその“ある人物”とは…。
ここでまた一つの概念に頭がくらくらと揺さぶられる。
夢。
夢は本当にただの夢なのだろうか?
私たちが生きる現実こそ虚無であり、自分の望みが溢れた夢の世界こそ自分自身の世界なのではないのか…?
“時間”と“夢”。
この2つの当たり前のように思われてる概念を、根本からひっくり返すように問い掛ける。
考えれば考えるほど頭がこんがらがり、分からなくなり、ショート寸前になりそうになるが、疑問や問い掛けや考えは無限に広がる。
難解な押井守の世界。
他のアニメでは絶対出来ない、これも『うる星やつら』という変幻自在なアニメだからこそ出来た世界。
『うる星やつら』を通して自分の世界を創り上げた大胆さに改めて感心させられる。
遊び心もいっぱい。
てんやわんやの学園祭準備中の校内に、様々なキャラのコスプレが。
これは挙げたらキリが無いので、見る機会があったら是非チェックを。
廃墟と化した友引町でサバイバルするあたるたち。そんな彼らが観る映画は、あの名作!
画のクオリティーも見事。
特筆すべきは、あたるの家でご飯をかっ食らうシーン。
全員が違った動きをする僅か1分ほどの長回し。
一見何でもないようなシーンだが、相当緻密な書き込みと力量が問われた名シーン。
緻密であり、終盤あたるが何度も何度も迷い込む夢のシーンはシュールでありイマジネーション豊かであり、クライマックスは壮大なスケール。
内容的にも作画的にもめくるめく。
これは、『うる星やつら』である。
異色の『うる星やつら』である。
ディストピア・ムービーである。
サバイバル・ムービーである。
ミステリアス・ムービーである。
“時間”と“夢”の哲学ムービーである。
ハイテンション快作ギャグアニメである。
ラムとあたるのロマンチックなラブストーリーである。
そして、唯一無二、夢幻の押井守作品である。
ほ、本当に俺が生まれる前の作品なのか?これが・・・!?
愛はブーメラン
押井守の独自解釈を前面に出しすぎて、原作者高橋留美子を怒らせたという伝説の作品。
私はうる星やつら世代ではなく、むしろはじめてちゃんと視聴したうる星関連作品が本作だったので初見時にそれほど違和感はなかったです。
冒頭から終盤まで印象的なシーンや掛け合いの連続で、ノスタルジーを感じさせるBGM(特にメインテーマ:モチーフ「不安」)も相まって、鑑賞後にはいつも感傷的になってしまいます。
終わらない文化祭前夜という舞台も、切なくもあり楽しくもあり、最高の作品だと思います。
なんだこれ…!!
この話全体が うる星をはじめとした日常
アニメを皮肉っているような作り。
後の時代に ループものは 飽きる程作られたが この映画は押井溶液に
どっぷりと 浸かっているためか まだまだ
異臭(良い意味で)が漂っている。
懐かしのアニメをみています
ひさびさに見返してみた。
よく出来てる映画だし、面白いんだけどやはり押井節全開のややめんどくさい場面が気にはなる。
例えばメガネのトラックに乗ってる時のモノローグ?とか
さくらと無邪鬼の一連のやり取りとかね。
唐突に難解な会話をほうりこんでくるからなあ。パトレイバーでもそうだったが
押井守がやると押井守作品にみんななってしまう。高橋留美子としてはそれが我慢ならなかったのかも。
それがうまいバランスで出来てるのがギリギリこの映画だとは思うけど。
難解と書いたが理解できないほどでなく、パトレイバーや攻殻みたいにあまりにそれが行きすぎてちょっとなかなかついていけないほどじゃない
とは言え何度見てもわからない場面があって
一番ひっかかってるのが
しのぶがみんなと歩いてる時に急に狭い路地みたいなところに迷いこみ、風鈴の屋台が通ったりするなかゆっくりと走る、スローモーション
それで、路地を出たところで立ち止まるとそれをアパートの窓から男がみている後ろ姿だけで誰かはわからない
あの場面は一体なんだ?なんかへのオマージュだろうか。自分はテレビアニメは全部みたけど全くわからない。
しかしながら、テレビアニメも原作とはかなり違うんだよね。アガサ・クリスティみたいなことしてみたりあたるのおかんを主役にしてみたり、たぶん原作にはない話だと思うけど。
原作全て読んでないので断言できませんが。
しかし、押井守が抜けたあとのテレビアニメや映画があまりパッとしないこと、この後作られた
めぞん一刻
らんま1/2
人魚の森
などどれも原作をなぞってるだけでいまいち面白味がないことを考えると
やはり押井あってこそのうる星やつらアニメだったと
この映画についてはさくらと温泉マークが喫茶店で奇妙な会話をする場面から一気に異世界に引き込まれるこれがやはり心地いい。
ラストについてはまあ、ちょっと微妙とも思うけど
噂に違わぬ80年代の傑作
よく日本のアニメ史やSFを語る時に名前が挙がるけど、うる星やつらなんて世代じゃないから設定もわからないし、シナリオの構造がループ物として凝ってるらしいけど、当時だから目新しくてチヤホヤされたってだけでしょ? まぁ、名作と言われるから一応観ておくけどさぁ…。一応ね。
ってノリで観てみたら、それはもうビックリするくらい面白かった。目からウロコとはこのことだ。何故日本は30年前にこのアニメを作れたのに、現在は作ることができないのか。どうしてなのか。
確かに日常ループものとしての設定自体が特殊なわけではない。ペラ1枚にまとめたプロットがあったら、至極平凡なものだろう。しかしアニメーションとしての練度が違う。ループする日常への導入、演出、そしてエンディングへの収束のテンポが絶妙。各キャラクターの演技(?)も凄まじく、台詞だけで語らせず、微妙な挙動や表情の変化でその心理をおおいに表現しており、その技術力に目を見張るばかりだった。それゆえに、うる星やつらの設定が一切わからない自分でも十二分にたしめた。これって本当に最近の和製アニメーションにとってロストテクノロジーになりつつあるんじゃないか?
“文化祭の前夜祭”という舞台設定もループものに適当な設定だ。おおいに動きまくる最初の数分間の文化祭の喧騒は、現役学生でなくともかつて感じた青春のお祭り騒ぎの楽しさを心に去来させ、その瞬間的な、過ぎ去ることが目に見えたひとときに愛おしいほどの名残惜しさを感じるがゆえに、ループものという設定が活きるのだろう。
キャラクターの挙動もそうだが、演出面も、存分に動き回るシーンと台詞の長回しをするシーンの差がしっかりついていて、この抑揚もSFのはちゃめちゃなお祭り騒ぎ感と、不思議な情緒や寂寥感、不気味さをより際立たせている。
冒頭の文化祭前夜祭のシーンや、巫女の先生と温泉マークとの会話、夜中にチンドン屋と遭遇するまでのシーン、荒廃世界でのメガネの独白などが特に印象に残る。
夢オチもたいていは悪く評価されがちだが、本作はなるべくして帰結した夢オチとして特に不快感は感じられなかった。
日常系SFアニメなんてこの30年間できっとたくさん出てるだろうに、これを越える作品は自分の知る限りではまだ無い。感銘は受けつつ、海外にもおおいに影響を与えた日本のアニメの全盛期が、やはり遠い昔の作品であったことが、否が応にも感じずにはいられなかった。
押井監督最高傑作!
押井監督作品は小難しいものが多いですが、こういうドタバタコメディに落とし込む方が得意なのだと思います。
謎を残した表現技法も多く、ラストは「お~~~っ!」となるオチで、「この作品はなんだったんだろう」と何度でも見返したくなります。
「BSアニメ夜話」で分かりやすい解説をしているので、観終わった後は是非。
ヤッパリ良くできてる
ハルヒやまどマギでもやってた無限ループ系の元祖?
久しぶりに見返したけど、今でも十分見れる。ラムがいないハーレムは意味がないってとこに少しだけホロッとくる。
最後3階建ての高校が2階しかないのは、まだ夢は醒めてない(何が現実かなんてわからない)ってこと?
たまらない
映画館で見て以来何度も見ていて久しぶりに見返した。ビジュアルイメージが凄まじくて、特に幻惑的なコラージュのようなクライマックスがたまらない。その手前の破壊された映画館でゴジラを見ている場面などもすごくいい。あんな状況で取りあえず遊んでいる彼らの図太さが、元気があってすごくよかった。夜の友引高校を探索する場面もお化け屋敷のようで楽しかった。
展開や構成がかなり無理矢理で、しかしそれでなければ描けないテンポや雰囲気があって見事に合致していたのではないだろうか。気にならなくなるくらい楽しい。
ナチスのコスプレを無邪気にやっていたり、様々な著作権がからむキャラクターを無邪気に描いていて、現在の観点からドキドキするのだが、それくらいが楽しくていいと思う。
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