硫黄島からの手紙 : 特集
太平洋戦争の数ある戦いの中でも、最激戦のひとつとして知られる硫黄島の戦いを、クリント・イーストウッド監督が日米双方の視点から描く意欲的連作「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」。硫黄島は歴とした日本の領土でありながら、私たちはこの島についてあまり多くを知らない。そこでこの特集では、この2本の映画を鑑賞するにあたり、硫黄島について知っておくべき事柄をまとめてみた。(文・構成:編集部)
硫黄島についての素朴な疑問と答え(1)
Q:硫黄島って、どこにあるの?
硫黄島は、東京から南に約1250キロ、グアムから北に約1380キロという位置にある東京都小笠原村に属する硫黄列島3島の中の一つで、南硫黄島、北硫黄島に挟まれている。大きさは東西8キロ、南北4キロ。現在も活動が活発な火山島で、島内には至る所に温泉があるという。島で一番の高地は標高169メートルの摺鉢山で、その山頂に旗を立てたのが「父親たちの星条旗」の主人公たちである。山頂からは、小さな硫黄島のすべてが見渡せるという。
Q:硫黄島には、どうやって行くの?
映画「父親たちの星条旗」では、何隻もの船から、何千という兵士が硫黄島に上陸していたが、実は硫黄島には港がなく、浜辺から入るにしても普通の船では停泊させることができないため、現在は空路によってしか入ることができない。とは言え、上陸することができるのは、原則として遺族、軍、政府関係者、マスコミだけ。従って、観光目的で島に入ることはもちろんできないが、船で島の周りを巡回することは可能。そういうツアーも催行されている。
Q:硫黄島の名前の由来は? また、正しい読み方は?
16世紀の中頃に発見されたときには、単に「火山島」と呼ばれ、18世紀後半のイギリスの船乗りであるクック船長の部下ゴアがこの島を訪れたときに、硫黄の匂いがすることから「Sulfur Island(=硫黄島)」と名付けたという。その後、1887年に東京府知事らが硫黄島を視察。そして、1891年に日本領土に編入され、東京都小笠原島庁の所轄となり、3つの島はそれぞれ北硫黄島、硫黄島、南硫黄島と命名された。読み方は、現在はアメリカの呼び方の影響で「いおうじま」と呼ぶ人が多くなっているが、正しくは「いおうとう」である。
Q:硫黄島は、重要な場所だったの?
太平洋戦争中の米軍は、サイパン占領後、サイパンからB-29戦闘機を使って日本への長距離爆撃を行っていたが、やはり距離が長い上に護衛機を付けられないために、日本軍に迎撃されることが多々あり、多くの損害を被っていた。そこで、中国に基地を作って日本を空襲する計画も立てられたが、中国沿岸には日本軍の力が働いていたために大量の物資を配置するのは容易ではなかった。そこでクローズアップされたのが、東京とグアムの中間に位置する硫黄島であった。この島を獲り、攻撃拠点とすることで、日本本土への長距離爆撃、護衛戦闘機の配備、緊急着陸基地の確保、そして日本軍によるB-29への迎撃を抑えられるのではないかという思惑が働き、米軍は硫黄島を獲りに動いたのである。
Q:硫黄島の戦いって、本当に激戦だったの?
日米共に譲れない土地だったため、総力戦となったこの硫黄島決戦。1945年2月18日、米軍の上陸作戦から始まった戦いは、米軍約3万3000人、日本軍約2万2000人がつぎ込まれた。日本軍司令官の栗林忠道中将の機略によって、当初米軍が予定していた日数を1カ月以上も延ばし、36日間に及ぶ戦いとなった。結果、米軍は死者約6800人、負傷者約2万6000人という過去最高の損害を被った。また日本軍も死者約2万1000人を数え、ほぼ全滅に近い状態で戦闘を終えた。まさに戦史に残る死闘であった。