ラストエンペラーのレビュー・感想・評価
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色んなことが詰まっている作品
過去の歴史について、学ぶことがあった。
美しい色彩、音楽が素晴らしかった。そして、ラストシーンもとてもよかった。
感慨深い
偶然にもスクリーンで上映されてることに気付き足を運んだ。
歴史的な知識量が昔と異なることもあり、非常に感慨深いものがあった。反日感情の源的な史実を垣間見ることができる。
ジョンローンの演技、史上初の紫禁城での撮影、その他邦人俳優など見所多し。
説話論的記憶違いを正す
まず、初めて劇場で観た今回、自分の記憶違いに気付かされた。
愛新覚羅 溥儀が即位したとき、小さな体の溥儀が玉座に向かって段差を駆け上がっていくシーンがあったと記憶していた。しかし、改めて観ると、溥儀は玉座から降りて、太和殿の外へ駆け出していくのだ。被写体の移動する方向をまるで正反対に記憶していた。
そして、このような記憶違いを犯すにははっきりとした理由が存在することも同時に分かった。
ベルナルド・ベルトルッチは階段の昇り降りを説話論的に取り入れる作家であると考える。その昇降が、被写体の権力関係を表していることは、いくつかの作品中で明らかであり、この「ラスト・エンペラー」においてもその説話論は繰り返される。
この記憶違いは、つまり、溥儀と権力の関係について思い違いをしていたことの裏返しである。
即位した溥儀は中華世界の最高権力者たる皇帝となったのだから、記憶の中では階段を昇っていくことになっていたのだ。至高の権力への上昇イメージが、このシーンの記憶を変更してしまっていたと言えよう。
しかし、今回明らかになったように、幼い溥儀は宦官たちの制止を無視して、無邪気に玉座を降りてしまう。溥儀が臣下と同じ高さに自ら降りたシーンの説話論的な意味は、皇帝・溥儀の本来持つはずの権力、聖性が失われたということである。これは、清朝最後の皇帝の生涯を通じて描いた、最高権力者の虚しさ、権力を失うことの恐ろしさというこの映画のテーマそのものである。
この重要な、映画の主題そのものを表しているシーンを、フィルムとは異なった形で記憶していたことは、人間の記憶とそこからイメージの再生という生理そのものが、常にメディアとそれを受け取る人間の拮抗の中で発生していることを思い知らされる。
皇帝は、臣下や保護者たる日本の軍人に政務を委託するという形で、権力を手放すことはできる。しかし、権力者の居処から出ることは許されない。
映画はそのことを、やはり繰り返し説話論的に語る。そのいずれもで、溥儀は愛する女性を追うのだが、臣下たちに扉を閉ざされてしまうというものだ。
一回目は、まだ少年の溥儀が、紫禁城を去る乳母を追った時。この時溥儀は、力強く「扉を開けよ」と声をあげる。少年時代の愛玩物であったハツカネズミを、紫禁城と外界を隔てる扉に叩き付けることで文字通り乳離れをした溥儀には、怒りという感情が備わっていた。
しかし、不義の子を産んだ皇后が満州国皇帝の宮殿を追われるとき、溥儀の口からは同じく「扉を開けよ」の言葉が発せられるが、その声は力なく、虚しさや諦めを伴っている。裏切られてもなお愛する妻と満州国皇帝としての誇りを同時に失った時には、憤りの感情を表にすることもなく、肩を落とした姿が描かれるのみである。
紫禁城を追われ、外国の軍隊に軟禁されていても、自分が満州族の正当な統治者であることは、愛新覚羅氏出身の皇后が傍らにいることでかろうじて担保されていた。これを失った時の寂寞とした溥儀の姿が観客の胸に迫ってくるのは、目の前で扉を閉ざされる姿が繰り返されていることで強化されているからだ。
さて、階段を降りて、自分の身を落とすことになるのは溥儀だけではない。溥儀の第二夫人、先述の皇后も階段を降りて溥儀の前から姿を消している。
しかしここで疑問が生まれる。日本が降伏したときに、甘粕正彦が階段を降りることなく二回の部屋で自決するのはなぜか。スクリーンという世界から消える運命の人物は階段を降りていくことが、ベルトルッチの映画文法ではなかったか。
この疑問は次のように考えると、ベルトルッチの語り口に即してなお当然の演出であることが分かる。つまり、甘粕は階段を降りることを死をもって拒否したということである。
日本軍の特務機関の将校であり、満映のプロデューサーでもあった甘粕は、まさに満州国という巨大なシミュレーションのプロデューサーでもあった。ソ連軍が迫ってきたときに、彼はその座から降りる代わりに死を選ぶ。
これが、頭に短銃を打ち込んだ場所が二階であることの理由であろう。実際に、溥儀が何度も日本の軍人を見上げなければならなかった吹き抜けを使って、甘粕が死を選んだ場所が二階であることを映画はわざわざ示している。
では、第二次大戦直後に溥儀が収容される場所の所長が、階段を昇る溥儀の靴紐を解くシーンはどのように解することが可能だろうか。
終盤の文革のシークエンスでも明らかなように、溥儀はこの収容所の所長には好感を持っている。その所長が、弟の溥傑に結ばせた靴紐をわざとほどくシーンを入れているのはなぜだろう。
単なる嫌がらせを所長がやったというならば、他のも彼の卑怯な姿を映すのではないだろうか。ところが、意地の悪い所長の姿は見えない。このシーンは、前後の脈絡と直接結びつかず、その時点では観客は不可解を抱えたまま次のシーンへ進まなければならない。
じつは、このシーンこそ、紅衛兵たちに吊し上げられた所長を、老いた溥儀が擁護するシーンと対比すべきシーンなのではないだろうか。
共産主義国家の官吏たる所長から見れば、溥儀が自分でくつ紐を結ばないことは明らかにブルジョワ的で、反社会主義的な姿である。所長はこのことを見咎め、心配をして、溥儀が靴紐くらい結べるようにならなければならないとの考えで、紐をほどいたのだ。
こうした溥儀の人生の再生を願う所長の思いがあってか、後日、溥儀は釈放され、市井の人となって余生を過ごすことが許される。そしてこれが所長の「教育」の賜物であることを溥儀は心得ていたのだ。だからこそ、紅衛兵に向かって、「この人は立派な教師なんだ。」と訴えるのだ。
時代と立場は特殊であるが美しく強い師弟愛がここに描かれている。文革で否定された中国社会の儒教的な美徳である。この映画が製作された1988年は文革終了から10年を経ている。撮影協力には中国政府の協力は不可欠であり、この時点で文革を否定的に捉える歴史的見解を、中国政府のはっきりとした姿勢が見て取れることも見逃せない。
さあ、ここまで論考を重ねてくると、階段で靴紐をほどくシーンの説話論的な位置づけも分かってきたのではないだろうか。
靴紐を解かれた溥儀は階段を昇る。つまり、彼が所長よりも高い所へ上がり、所長は溥儀を見上げることになる。このシーンが、説話論的に溥儀と所長の行く末の立場が逆転することを暗示しいると述べることができる。
後年、ベルトルッチは「シャンドライの恋」においても、階段を昇る主人公の女性と、階段を降りてくる男性の立場の逆転を描く。
この作品が、紫禁城でロケを敢行!という歴史大作としてセンセーションを放ち、世界の映画市場で受け入れられたのは、単なる物量や資金の投入の成果ではない。
説話論の積み重ねが一本のフィルムのドラマを強化しているからこそ、数十年を経てもなお鑑賞に堪えるのだ。
翻弄される人生
溥儀の人生、全てが周りの思惑で動いている。自ら選択したことは、何かあったのか?
日本の歴史にも関わる方のなので、おすすめします。ベルトリッチ監督の他の作品見てますが、映像やカメラワークが素晴らしいです。
まるでタイムスリップしたように
清国の終わりを観ることができます。
ラストエンペラーの生涯が描かれた作品。歴史に名を残す人というのは、えてして壮絶な人生を過ごしたんだな。
蒼窮の昴を読んで、観たくなった映画。
ラストシーンが圧巻
とても長い映画なので、途中ダレるところもあるのですが、最後までじっくりと愛新覚羅溥儀の生き様を観て欲しい。かつては幾千の宦官にかしづかれ、靴紐すら結んだことの無かった溥儀が、最後のシーンでは粗末な人民服をまとい、自ら靴紐を結んで自転車にまたがり出掛けてゆく。向かったのはかつて彼が皇帝として暮らした紫禁城。観光客が出入りする中、ひとりの少年が玉座の前にたたずむ溥儀を見つけます。溥儀は少年を見ると、おもむろに「立ち入り禁止」の綱を乗り越えてかって知ったる玉座の下に手を入れて、小さな箱を取り出します。中から出てきたのは「コウロギ」。元気良く跳ねて飛び出していくのを少年が見ているうちに、溥儀はいなくなっていて……。
このシーンを楽しむために、是非早送りなしで観て欲しい。
日本人なら見た方がいい作品だと思う。いかに溥儀を利用し、彼を不幸に...
日本人なら見た方がいい作品だと思う。いかに溥儀を利用し、彼を不幸にしたか知らなければならないはず。教科書でかじり、傀儡皇帝かわいそー、なんて軽すぎる。ひたすら周りに自分の道を決められ、改革しようにも許されず、不憫な人生を送った主人公には同情心しかわかない。社会不適合者だったらしいし。運命変えられない人って現実にいることを実感。映像と音楽は素晴らしくて、ラストシーンも久々に感動するものだった。空しいものではあったけれど。来春中国留学のとき、紫禁城行きたい。
ベルトリッチの気品
随分前にビデオで鑑賞したことありますが、リバイバル上映に合わせてスクリーンで再鑑賞しました。私はイタリア人監督のカメラの美しさにいつも惚れ惚れするのですが、流石ベルトリッチですね。舞台が満州でも砂漠でも、スクリーンが芸術的になります。スクリーンで鑑賞して本当良かった。
恥ずかしながら満州の歴史をほぼ知らなかったので、本作を鑑賞して満州の歴史を少し理解できました。満州族の文化が煌びやかでユニークで、100年前には世界中にユニークな民族が沢山残っていたと想像します。
あの激動の時代に溥儀にもあんなに沢山の時代の波が押し寄せて、一人の人間の人生としては過酷でした。王政が倒れる時には皆殺しになるor自決すると思っていたので、貧しく惨めになっても死に損なっても結果的に自死せずに生き続けた溥儀になんとも言えない愛しさを感じてしまいました。自分で靴紐を結び自転車に乗りかつて自宅だった紫禁城に出かける溥儀に。
権力を失い財産を失い文化を失い、全てを失った王様の物語なのに景色もジョン・ローンも美しく気品がありました。溥儀の心象に気品があるからなのでしょう。これが、ベルトリッチです。
満州国について、もっと勉強します。
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