『赤ひげ』を観終えて、まず感じたのは「黒澤明が問いを失ってしまった」という喪失感でした。これまでの黒澤作品が「世界への問いかけ」に満ちていたのに対し、この映画にはすでに「答え」が用意されている。赤ひげという全能的な医師が倫理と正義の体現者として君臨し、その周囲の人々──とくに若い医師・保本が、その「正しさ」を受け入れていくという物語。言い換えれば、これは「学びの物語」であって、「問いの物語」ではありません。
黒澤映画に特徴的だった「どう生きるべきか」「何が正義なのか」「何が真実なのか」といった根本的な問いは、ここにはない。観客が登場人物とともに悩み、揺れ、問いを深めていく構造がこの作品では機能していない。すでに完成された倫理世界が広がっており、観客はそれをなぞるしかないのです。
これは黒澤の才能があまりにも突出していたがゆえに、もはや対話者を持てなかったことの帰結かもしれません。『赤ひげ』という作品は、黒澤が自らの理想像を主人公(赤ひげ)に投影し、その“答え”をひとり語りしているようにも感じられました。その語りは決して嫌味ではなく、むしろ誠実で力強い。しかし、観客に開かれた問いを失った瞬間、作品は閉じた世界になってしまう。
たとえば、保本は中盤で自己像の崩壊を経験し、実存と実在の乖離に打ちのめされます。これは非常に哲学的で、興味深い転換点でした。しかし、その苦悩はあくまで物語の枠内で処理され、観客には飛び火してこない。本人が勝手に回心し、物語が完結するのです。そこに“共鳴”はあっても“共苦”はない。
また、全体のエピソード構成もややバラつきがあり、連作短編のような印象を受けます。狂女の香川京子、絵師の六介、佐八とおなか──それぞれに独立した物語があるにもかかわらず、全体の主題と統一されずに終わる印象です。
とくに女性キャラクターに関しては、黒澤の長年の課題が露呈します。香川京子の演じる狂女は情念やエロスがまったく描かれず、演出も表層的。おなかの自死的な愛情表現も、情動としては成立しておらず、“事件”として処理されています。おとよに至っては、あれだけ濃密な関係性でありながら、恋や性的な感情が完全に排除されており、もはや非現実的。原作との違いはあるにせよ、「少女の成長譚」として描くには、あまりに倫理的すぎて不自然です。
この映画は人間の不幸や貧困をテーマに据えていますが、その根底にある情念や葛藤、矛盾といった“人間の複雑さ”には最後まで踏み込まなかった。そのため、どうしても「良くできた道徳劇」のような印象が残ってしまいます。
総じて、『赤ひげ』は黒澤明の誠実な“答え”の提示ではありますが、“問いの映画作家”としての黒澤明を愛する観客にとっては、少々物足りなく、観終わったあとに残らない作品になってしまったかもしれません。
U-NEXTで鑑賞 (HDリマスター)
80点