感想
小石川養生所の門前に一人の男が歩いてくる。男の名は保本登。幕府の御典医の紹介で長崎で三年間、オランダの最新医術を学び研鑽を積み遊学していた。遊学後は御目見医職を紹介拝命する予定であるが父親に勧められ、たまたま養生所の見学に来てみたのであった。所内を医員である津川玄三に案内してもらい所長の新出去定(赤ひげ)に挨拶をする。
津川の話によれば赤ひげは大名諸侯や富豪には名が通っていで信奉者も多く、治療は熱心で医術の腕も確かであるが、その行動は独善的で独栽者のような極端な振る舞いが多く最近は皆から鼻摘み者の烙印をおされているという。
新出は所長部屋に入り正座した保本を本質を見定めるように見つめる。保本が自己紹介するも尚、顔を洞察し続ける。思わず目を逸らす保本。沈黙の後、唐突に「赤ひげだ。本名は舌を噛みそうな名前でな。新出去定。お前は今日から見習いとしてここに詰める。それから長崎遊学中の筆記や図録を全て我の手元に差し出せ。」
保本は躊躇して一旦出直したいと希望するも荷物の送り受けも済んでいるとし、それ以上は話に掛け合う事は無かった。津川は次に医局の森半太夫を紹介する。半太夫は「ここは大変な事も多いがその気になれば勉強になる事も多い」という。
保本は一方的で無理矢理な流れで養生所の見習いとなった事を認めず、赤ひげの命に背いていたが、ある日、赤ひげと共に余命幾許もない意識のない患者の診察をする。保本の診察では後、半刻程の命であるという。赤ひげは診察は正しいとし、病歴を観て病名を答えろと言われ、胃癌と答えるも赤ひげは否定、膵臓癌が正しいとする。自覚症状が無く判った時は手遅れの場合が多い。病例がごく稀なのでよく憶えておけという。
赤ひげは言う。あらゆる病気に対しての治療法はない。医術などと言っても情け無いものだ。医者にはその症状と経過は判る。生命力の強い個体には多少の助力をすることが出来る。だがそれだけの事だ。現在、我々に出来る事は貧困と無知に対する戦いだ。それによって医術の不足を補う他は無い。貧困と無知との戦い。それは政治の問題だと言う者も多い。誰もがそう言って澄ましている。だが、政治がこれまで貧困と無知に対して何かした事があるか。人間は貧困と無知のままにしておいてはならんという法令が一度でも出た事があるか。しかし問題はもっと以前にある。貧困と無知さえなんとかなれば病気の大半は起こらずに済む。否、病気の陰にはいつも人間の恐ろしい不幸が隠れている。その隠れている不幸をも察して観続ける。その事に対して人として、医術者として何が出来るのかを考え実践していく事が我々に課せられた使命であるのだ。
保本は単なる医術知識だけでは無い、生きた本当の医療の意味を赤ひげを通して学んでいく事になる。患者と生きた医療を学ぶ事により、人間的にも成長していく様が描かれる。養生所に入所している様々な患者、また運ばれてきた患者や往診先での市井の中で病や生活に苦しむ者、それぞれのこれまでの人生やそれを取り巻く人間模様が、病気や怪我そして死というフィルターを通して濾し出されていく様子をそれぞれのエピソードとして描き出す。新出(赤ひげ)の人間性に溢れる医療分野をも越えた社会の中での生き様とも言える時々の判断や決断を見事に描写している。
医学の分野で基礎医学と臨床医学、それぞれの医療や研究があり、医療の現実的問題は諸々あると思うがこの映画を観ると特に臨床医療というものの重要性を感じる。人間性に根ざした医療とは何か。時代を超えてなお変わらない医療の本質とは何かを本作は問いかけている。
原作 山本周五郎
脚本 井手雅人 小國英雄 菊島隆三 黒澤明
主演 三船敏郎 加山雄三 山崎努
共演 団令子 香川京子 桑野みゆき 二木てるみ
土屋嘉男 東野英治郎 志村喬 笠智衆
田中絹代 杉村春子 左卜全 菅井きん 他
オールスターキャストの豪華な配役陣。
狂女役の香川京子氏の鬼気迫る演技、佐八役山崎努氏、長次(長坊)役の頭師佳孝氏、おとよ役の二木てるみ氏、各氏それぞれの演技が卓越して秀逸であり監督の演出と相俟って人間心理の複雑さ、恐怖や悲しみの涙を誘い感動する。
⭐️5