「「ニュー・シネマ・パラダイス」の 翌年にこれです。 監督の内にこのギミックとアイデアがすでに存在していた事に驚くしかない。」みんな元気 きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
「ニュー・シネマ・パラダイス」の 翌年にこれです。 監督の内にこのギミックとアイデアがすでに存在していた事に驚くしかない。
大群衆のエキストラたちのストップモーション。凄いよなぁ・・
電話が通じない時の「世界の時間の停止」をあんなふうに見せてくれるトルナトーレ。
泣けてくる映画でした。
仕方ないことではあるが、
成長し、家を出て独立した子どもたちは、それぞれの地で新しい生活を送っているのであり、みんなちゃんと忙しいのだよね。
夏休みに5人の子どもたちと孫たちが全員、誰ひとりとしておじいちゃんの田舎に遊びに来てくれなかった・・
このおセンチな幕開けでこの映画は始まる。
そして行っちゃあ いけないのに、お土産と笑顔と期待をカバンに詰め込んで、老いた父は子らを訪ねるサプライズの旅へと出てしまうのだ。
嗚呼っ!招かれざる客として。
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僕は、
どうしても自分の子供たちの事や
自分の父親の事を思い出すわけだ。
僕の一族は
「大集合」を2回やったことがある。
第1回は「母方の血筋」での大集合。
祖父母とその子どもたち=つまり僕の「母」の兄妹と、連れ合いと孫全員。
祖父母の地元の温泉ホテルで、それはそれは一生の記念に残る楽しい大集合だった。二泊三日、大成功だった。
2回目は、その30数年後の事だ。
あれ(1回目の大成功)を踏襲して、自分が死ぬ前にと、子と孫たちを全員集めての泊まりがけの旅行だった。こんどは僕の「父」が発案者だった。
父は、一族のつながりと、子や孫に伝えておきたい自分の姿。自分の思い。家族の歴史・・それを一同参集の場で家長としてとくと語りきかせ、遺言に代えて披露しようと願ったのだ。
しかし、悲しいかな、
30年前の第1回目は、みんなが小学生で、それも夏休みの期間中だった。大集合とは言ってもそんなに難しいことではなかった
けれども2回目は違う。もうみんな立派な大人である。
子らは全員が職業を持ち、あるいは孫たちは学校が忙しい。
だから、面子が全て顔を合わせたのは飛行場のそばのお蕎麦屋さんの2階で、それも「たった2時間だけ」だったのだ。
・あとから滑り込みで到着した者と、
・先に来ていてもう滞在を終えて戻らねばならない者と、
飛行機の発着の時間の間隙をぬっての、たった2時間だけの大集合だった。
年老いた父の、老眼鏡の奥の落胆の大きさよ・・
思い通りにいかなくってあんなに寂し気な父の目は、正視できないほどだった。
全員が全員、“イベント”への迷惑半分の表情が見えてしまう。それでも発案者の老家長を喜ばすためにみんなが無理をして仕事と学校とバイトを休んで来て、手を振りながら、時計を見ながら、大至急でトンボ返りで戻っていったわけだ。
失敗だった。
やらないほうが良かったのだ。
映画を観ながら、どうしてもあの日の悲しみが胸を襲ってきてしまった。
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なんでシチリアの父親というものは、あんなに寂しがるのであろうか?
そしてなんで父親というものは、年を取ると弱くなり、でも何故あれほど我慢強くて、辛苦と忍耐を受け入れる存在にもなれるのか?
マルチェロ・マストロヤンニ扮するマテオが、歓迎される事を何一つ疑うことなく、道化となり、イタリア各地を巡り、子らを訪ねるのだ。
老人は軽んじるられる。
老人は顧みられることもない。そして
老人は忘れられて、もうお呼びでない存在。
招かれざる存在。
でもそれは表向き、
父親を慮るゆえに、子供たちは苦慮して優しい嘘もつく。
斬新な演出とカメラワークには驚かされた。
トルナトーレが前作「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989)の翌年!ここまでも作風が飛躍して人生を撮影し、
老人の孤独と恐れの心境が、まさにシュールレアリスムの画面で表される。
◆電話はいつも留守電で、全世界が動きを止めて老人の声に耳を澄ませるあのストップモーション、
◆国道の車の流れは行き止まりとなって、迷い出た闖入者の牡鹿が道の真ん中に動けずに立ち尽くしており、
◆5人の子供たちが怪物にさらわれる海辺のシーンは、父親を激しく苦しめる悪夢のスペクタクル。
マストロヤンニがどれほどの大俳優であるか、もう論を待たない。
「ニュー・シネマ・パラダイス」では少年トトの旅立ちと、それを寂しさに耐えて見送り、あたかも親子の縁を切るように自らを制して“息子トト”を見送る映写技師アルフレードが「愛と忍耐の象徴」として描かれていた。また
そのディレクター・カットの「完全版」では「トトは成人して、都会で男女の愛憎を体験してから、アルフレード亡き故郷に帰ってくる」という流れであった。
本作品では、子らの成長と、かの地での活躍を見たくて自分を抑え切れない老境に至った父親の姿を描くことで、あの前作ニュー・シネマ・パラダイスの(父親代わりの)サルバトーレの心中=抑えていた感情を表出させた格好かも知れない。
そしてこれは、いかにも昔のイタリア映画風のスクリーンでありながら、1990年公開という現代の作品。
まったく今現在の僕たちの親子関係の姿。
敢えて、分かっていて、”道化“を演じながら子らを訪ねる父親のロードストーリー。
音信不通や行方不明の子がいるなら、
薄々それに勘づいているのなら、なおさら老いた父には辛い旅だ。
これこそイタリア・ニュー・シネマの手法で、
父と子を、温かく、哀しく、涙で魅せてくれる本作だった。