劇場公開日 1999年12月11日

「男性の(性)が安寧の社会で暴発するエキセントリックな映像世界の魅力と恐怖」ファイト・クラブ Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5男性の(性)が安寧の社会で暴発するエキセントリックな映像世界の魅力と恐怖

2020年4月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

「セブン」のデヴィッド・フィンチャー監督とブラッド・ピットが5年振りに組んだ問題作で、原作のチャック・パラニュークの小説は現代アメリカ社会の一局面を表して好評とのこと。この映画を観てまず感じるのは、ジェネレーションXと言われる1960年代生まれの世代意識が色濃く反映されていることである。監督フィンチャーと原作者パラニュークが1962年生まれ、撮影監督のジェフ・クローネンウェスも1962年で、主演のピットがひとつ若い1963年生まれだ。紅一点のヘレナ・ボナム=カーターが1966年でもう一人の主演のエドワード・ノートンがギリギリ1969年生まれと、スタッフ・キャスト共に若い才能で占められている。つまりこの映画の、今30代を迎えたアメリカ人が抱える社会に対する価値観のひとつの特徴を、特に男性の(性)の視点からエキセントリックに且つ切実に表現しているところが興味深い。戦後の目覚ましい経済成長からの安定期に生を受け、物質的には満たされて恵まれた成長をしてきた世代であり、戦争や貧困を経験した上の世代から見れば羨望の対象にいるはずだ。しかし、人として男として生き甲斐を感じられているかとなると疑問が残る。男性の(性)にある攻撃的で自虐的、縦社会の序列に身を置き競争心を掻き立てる性分が、安寧の社会で満たされるのだろうか。全ての男性がスポーツやゲームなどでその欲求不満が解消されれば問題は起きないのかもしれないが、一歩踏み外すとそれは危険な領域に入ることを、この映画は教えてくれている。

主人公は知性豊かなヤング・エグゼクティブで、不眠症でなければ極普通の恵まれた青年である。しかし、ストーリーが進んでいくと共に、この人物の不可解な行動でその精神が病んでいることに気付く。演じるのが今若手ナンバーワンの演技力の持主エドワード・ノートンだから、最終的に観客は主人公のパラノイアにまんまと騙されしまう。特に不平不満があって社会にアピールする必要がない今の若者らしい特徴的な好青年と見せるが、外見だけでその人を判断してはいけないと改めて思わせる。その主人公が理想とする男性像タイラー・ダーデンをブラッド・ピットが完璧な外見として演じている。フィンチャー監督自身、役者ブラッド・ピットに惚れ込んでいるのが判るくらいの演出だ。映画の面白さはエドワード・ノートンの名演で完結しているが、このタイラー役はブラッド・ピット以外の俳優では考えられないし、有り得ないと断言してもいい。人気スターが本来の主役で使われなくても価値があるなんて他にあるだろうか。
この映画の成功は、社会学上のある世代が持つ価値観の考察を、男性の(性)に焦点を絞りテロリズムという最悪の結果に集約した原作の独創性と、それを架空の映像空間にシンボライズした演出の大胆さにある。そして、その一人の主人公の精神と肉体を演じ分けたノートンとピットの俳優としての存在感が圧巻であった。映像では、タイトルバックのCGが素晴らしい。脳内部の拡大ショットから銃口までの音楽と調和した流動のモンタージュ。男同士上半身裸で殴り合う格闘シーンの迫力も凄い。血と汗にまみれて悶絶するまで相手を追い詰めていくショッキングな生々しさ。その行為によって脳内快感を得て生きる喜びに転化する男の(性)の不可思議さ。ラストシーンの現代の社会構造の象徴である高層ビル群が崩壊していく映像の美しさも、表現として不適切だが印象に残る。

1960年代最後の若者の抵抗「いちご白書」は眼に見える外に対するベクトルだったが、30年後の若者は自己改革の自分に向けたベクトルに代わった。肥大化し暴力化したら、目に見えないだけに怖いものがある。この作品は、悩めるジェネレーションXの「精神白書」といってもいい。パラニュークとフィンチャーとピット、そしてノートンによる90年代のアメリカ映画を代表する傑作であると評価したい。
  1999年 12月15日

思い起こすと、日本ではオウム事件の時に思った内容と似ています。なぜ高学歴の分別のありそうな人たちがテロリストになったのか。宗教の問題は複雑で論じることは避けたいですが、精神的な満足感の追求には違いないと思います。そして、大きな戦争から分散したテロリズムに変化した時代の流れを痛感します。

Gustav