愛のコリーダのレビュー・感想・評価
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感情の振れ幅を見事に表現している
生は有限である。
死は永遠である。
永遠の愛は死を持って完結する。
男は死を覚悟し死を持って女のものとならんと欲し、女はそれに応えた。
表題にも記したが見事な演出である。
俺はかたい男だ
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戦前に実際に起きた女性が不倫相手のブツを切り落として逃走した阿部定事件を題材にした男と女の情事を描いた話。
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劇中ほぼずーっと2人はヤってるんだが、何がすごいって普通の本番を映してること。日本じゃモザイクかかってるけど、恐らく藤竜也のブツがガッツリ映ってるっていう。すごいわ。
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2人とも性欲が異常に強くて、特に女の方は食欲と睡眠欲が全部性欲に注ぎ込まれてる。AVのようだけど、もう見てるこっちの性欲はこの女に全部吸い取られてなんか疲れてくるから、そこがAVじゃなくて芸術なのかなと。
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トイレの時以外ほぼずっとブツを掴まれている男の姿は完全に手綱を握られてるようだし、なんでもお前の好きなようにしていいよっていうあの感じ、なんか見覚えあって腹立つなと思ったら『人間失格』の小栗旬の太宰治だった。
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公開当時は性的描写が過激すぎて裁判にまでなったらしいし、今だに日本はブツを映しちゃいけないっていうルールがあるのに、ネットでAVが大量に見られたり、日本の風俗文化は他の国からしたら性大国と言われてるんだよ。おかしな国だね日本は。
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役者本人のブツはモザイクかかるのにブツの作り物にはモザイクかからないってちょっと意味わからんし。
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【”故、松田英子さんの畢生の一作。性愛を映画倫理規定の極限まで描き、世界の映画界に名を遺した大島監督執念の一作でもある。】
ー 私にとっては、”愛のコリーダ”と言えば、クインシー・ジョーンズの哀愁溢れるディスコ・サウンドである。
だが、調べてみると、彼はこの映画に触発されて、”愛のコリーダ”を作ったとの事であった・・。
”そんなことも知らないのか!””とお叱りを受けそうであるが、年代的にお許し願いたい。-
■感想
・初鑑賞作品である。2000年の、修正なし作品の公開の際も興味なくスルーしていた。
・阿部定事件を、モチーフに描いている事も、知ってはいた。
・このような作品が、東洋の春画の世界を描いていると思われていたのか・・、等と邪推すると、ちょっとなあ・・、と言うのが当時の今作を観なかった正直な感想である。
ー 琴の音とか・・、ちょっとなあ・・。
◆役者さんについて
・後年、現在でも現役バリバリで活躍されている藤竜也さんのインタビューを読んだ記憶はある。確か、衆人環視の中で偽りなき行為を行う際には、相当な集中力が必要であった・・、という内容であったと思う。
同性としては、驚嘆するしかない・・。
・そして、”定”を演じた松田英子さん。
当時、24歳である。
驚きである。正に畢生の演技であろう。
この役のイメージが強すぎて、(それはそうだろう・・。)今作後、スクリーンで活躍される機会は少なく、58歳と言う若さで亡くなっている・・。
<大島渚監督が、フランススタッフと製作し、一世を風靡した作品。(当時のレビュー・・。)
邦画を代表する偉大な監督は、この後、男色に傾倒していくのだが・・・。
主演のお二人には、敬服するしかない作品である。
特に、故松田英子さんに対して・・。>
☆『愛のコリーダ』評
★映画『愛のコリーダ』(1976年日本・フランス合作/大島渚監督作品)評
-映画『愛のコリーダ』は実にさりげなく大島的シーニュを画面に遍在させながらも、観る者にその強制力を剥奪させる独自の演出力が認められる。それはイマージュとリアリズムを犯罪者と被害者、或いは共犯者に共有させ、それを決して愚弄せず、寧ろこの吉と定を崇める対象とする事で齎される神話作用を司るヘゲモニーを握る大島渚監督のノエマが実に濃厚に刻み込まれた、これは第二次世界大戦直前の予行演習にも準える愛の闘争劇として立派に流通する一個のバイブルとも謂えよう。それはどこまでもグロテスクであり、それをファルスに転化させる記号の遍在にこそ目を向けたい欲望に駆られる実に幸福な映画とも謂えよう-
幸福なる時間を創造する映画監督とは、観る者にもその時間を共有させる、まさに天使にも等しいステイタスを誇示する人。この『愛のコリーダ』と呼ばれる映画は、そんな幸福なる瞬間の連続体として君臨する大島渚という固有名詞が生んだ奇跡的と言っても決して過言ではない佳作であろう。
ここには、あくことなく展開される性戯が愛憎のコード化から逸脱する時に齎される生死を賭した四畳半のコロッセウムという仮想のトポスを、事件の現場に変容させる説話が確認されるのだ。それを人は、ヒロインの阿部定にイヴを措定させ不可視の空虚なる空間にアダムにも準える吉の魂を漂わせるエデンの園での、至高なる愛の物語とも謂える。
例えば、吉の息の根を止める定の行為には、殺意というよりも愛情のほとばしりが認識できる。それは、首を締められる時の吉の喉仏を一際強調するかのように、その円形がデフォルメされる。
ここに於いて、大島的シーニュとしての円形というフォルムへの執着が確かめられる。この球形への誘惑は、最初は屹立していた勃起したペニスにも酷似する徳利が、最期には丸型となり定の遊具として独楽の役割を与えられる。それは、吉のペニスが次第に劣等的な位置に追いやられ、サディストとして高ぶる女陰にも似た丸型の徳利が廻す対象として君臨する。ここに、円形の優位が確認されよう。それは吉が劣勢となり、定が女帝としてこの四畳半という空間を占拠する最期に相応しい儀式としてのペニス切断をも向かえる事となる。
しかも映画中盤の夜の場面で、これも大島的シーニュと符合する俯瞰撮影で捉えられる雨中の屋外で番傘を廻しながら定と吉が決して性戯ではなく、遊戯的特権を行使するかのようにお互いが旋回する場面。ここにも、円形へのこだわりが窺えよう。それは屋内の畳部屋で、定を中心に据えすっ裸の少年と少女が彼女の周囲を廻る場面とシンメトリーな関係を保つ。
この二つの場面には大人と子供の遊戯性が、実に他愛のない未熟さを共示として純粋無垢な子供達と男女の酸いも甘いもかぎ分けた恋愛の達人の定と吉の、無償とも謂える未完成の関係を観る者に提示するのだ。ここでは年齢差という差異よりも、幼児性の露呈があり、人間が根源で受け持つ未成熟への憧憬が確認されよう。
更にこれと供応するであろう場面に相当するもうひとつの対となる場面が、最期の円山公園の客席でのイマージュの場面。半裸に近い定を四角い仕切りの中心に据え、その周りを死んだ吉と少女が廻る無人の客席が、その冬の異様さを称える。ここでは廻る二人が理不尽にも親子を演じる事で、生に耽溺する定を中心にしてその周縁を廻る事が冥界に於ける輪廻転生を仮想として具現化させるのだ。ここに於いて、六道遊行に旅立つ吉と仮想の少女は犯罪者として生きる事を決意する定を見守る為に、辺境の死界に追いやられるのだ。それは、未成熟から死を体験して到達した成熟の彼岸とも謂えよう。
そして、この映画に於けるもうひとつの記号体系として、先の傘の場面辺りから画面に実にさりげなく示された定の表象色とも謂える赤が、次第にスクリーンを占有してゆく。それは、タイトルのコリーダ(闘牛)のメタファとも謂える吉の性欲を奮い立たせる色として君臨する。
更に、これと比例するかのように吉のペニスに代表されるリニア的構造への定の嫌悪が明かされてくる。それにつれて定のサディズムをも高じらせ、やがて吉にまで伝播するこの嫌悪感は、憲兵隊の行進とは逆方向を一人吉が歩む事で時代を逆行する、まさにスクリーンという表層の領域で批評性を帯びさせるダイナミズムを観る者に抱かせるのだ。
このダイナミズムは、この映画の天候を左右する。先ずは冒頭から深々と降る雪がやがて雨へと変容する頃には、この凝固した雪が融解して雨となるのも、定と吉の性愛のパトスの高揚が恰も天候にまで関連したかのような激しさを、その性交に纏わせる。
そして二人の飲む酒はやがて二人の体液として、定には吉の肌に浮かぶ汗として自らの性欲を昂然とさせ、吉には女陰が生成する潮を醤油代わりに煮物に付け食する事で、性欲と食欲を同時に満足させる一石二鳥の快楽を完遂させる。
その異常とも謂える液体は、やがて最期には吉の定によるペニス切断から放射された血液へと変貌を遂げる。ここに赤色と血液という恋愛の彼岸を賛嘆する幸福な記号が生産され、流通する為の見事な融合の儀式が成就するのだ。それは、それまでの性交の恋愛形態がいかに未成熟に等しかったかを示す為の異化効果をも孕んだ演出で提示される。この円熟を示唆するダイナミズムとオルガスムス、そして儀式の終焉に相応しい説話的磁場を生成するラストも希有な存在であろう。
映画『愛のコリーダ』は実にさりげなく大島的シーニュを画面に遍在させながらも、観る者にその強制力を剥奪させる独自の演出力が認められる。それはイマージュとリアリズムを犯罪者と被害者、或いは共犯者に共有させ、それを決して愚弄せず、寧ろこの吉と定を崇める対象とする事で齎される神話作用を司るヘゲモニーを握る大島渚監督のノエマが実に濃厚に刻み込まれた、これは第二次世界大戦直前の予行演習にも準える愛の闘争劇として立派に流通する一個のバイブルとも謂えよう。それはどこまでもグロテスクであり、それをファルスに転化させる記号の遍在にこそ目を向けたい欲望に駆られる実に幸福な映画とも謂えよう。
(了)
愛って...?
阿部定さんを知って以来、ずっと観たいと思っていて
やっと、機会があって観ることができました。
いろいろなことを抜かしていると感じました。
定の生い立ちや、なぜ定が吉蔵を殺そうと思ったのかなどです。
これが無かったので
定がただの快楽主義者にしか見えませんでした。
吉蔵は定をなんでも許すということで愛して居たのだと思います。
定は吉蔵を愛して居たのでしょうか...。
それにしても
藤竜也がとてもいい男でした。
性愛と戦争と
おそらく、このフィルムに、日の丸を持った子供たちや、藤竜也が軍隊の行進を避けて道の端を歩くシーンがなかったとしたら、ひたすら性愛に没頭する男と女の情念に関する記録を映したものにしかならなかったのではないか。
ラストで、たぶん大島監督自身によるナレーションが、この事件が1936年に起きたことを伝える。2・26事件が発生した昭和11年のことである。この年代についてわざわざ言及することは、子供たちに日の丸を持たせたり、藤の歩く道に軍隊を行進させたりすることと同じ効果を発揮している。
これらの効果とは、観客が、この性愛を主題とした物語の片隅に戦争の記憶が刻みつけられていることを意識させられるということである。大島監督は、何を狙って戦争の記憶というものをこのフィルムに挿入したのだろう。初めて観た大島作品なので、他の作品にも触れなければ分からないだろう。
論戦を朝までやってるTVのトークショーに彼が出演していたことの意味合いを、何となく感じ始めた。これは、彼の作品群を観なければならないな。
何度見ても圧倒される
人間の本質をいかにフィルムに焼き付けようかという運動をとても感じる映画だった。セックスのために何もかも犠牲にして命すら粗末にしてしまうというのにどうしようもなく絶望感たっぷりで、全然楽しくなさそうなところがすごい。決して幸福でもなさそうだった。それでも深みにどんどん足を踏み入れていくところに圧倒される。
女にもてる人は、この藤達也もそうだけど、とても優しい人で、女の子の物質から精神までとても細やかなケアをする人が多い。単に気の合う合わないの問題もあるだろうけど、なかなか真似できるものではなく、非常に頭がさがる。そして精力のすごさにも頭がさがった。
2000年のリバイバル時にレンタルのVHSで見て圧倒されて、いつかスクリーンで見たいと思っていた。大島監督には申し訳ないのだが、追悼特集でこうして『戦場のメリークリスマス』など傑作が上映されるのはとてもありがたい。
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