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初見では、私が期待する黒澤監督映画らしくなく、拍子抜けしてしまった(と言っても、まだわずかしか見ていないのだが)。
『羅生門』『生きる』『天国と地獄』のような、度肝を抜く構成でもない。
『隠し砦の三悪人』『用心棒』『椿三十郎』『赤ひげ』のような、エンターテイメントでも,
ひねりもない。
ただ、ひたすらにじっくりと、カピタンとデルス氏の友情と、その顛末を描いていく。
私的黒澤監督らしさを探してしまうほどに。
実話を素にした映画。デルス・ウザーラ氏は実在した人物。
カピタンであるアルセー二エフ氏が執筆した『ウスリー地方探検記』と『デルス・ウザーラ』を素にしており、この本はソビエト連邦ではロングセラーになっていて、広く知られていたそうな。
それを若い頃に読んだ黒沢監督は、北海道に置き換えて映画化しようとしたが、結実せず。
後年、ソビエトの映画祭に招かれ、ソビエトで映画を撮る話があがった際、最初に黒澤監督が提案した原作は既に他の監督が手を付けている等で叶わず、その代案として、黒澤監督が上げたのが、この『デルス・ウザーラ』。ソビエトでは広く知られた物語としても、黒澤監督がこの話を知っていると知って、ソビエトの人々は喜んだとか。
デルス氏を三船氏でと言う案もあり、三船氏も乗り気だったそうだが、スケジュールの都合で叶わず。個人的には、この映画で演じられたムンズーク氏がご本人かと思うほどに味を出していらっしゃるので、良かった。Wikiに載っているデルス氏ご本人ともよく似ている。
ソビエト出資での映画製作。社会主義バリバリの頃。軍隊が護衛する、ヘリコプターで食料の調達など破格の対応であったともいうが、予算やいろいろな制限がありながらの製作だったと聞く。それで、黒澤監督らしさが出なかったのか、あえて、このような演出としたのか。それでも、映像的には唸るシーンも多い。
とにかく、デルス氏への敬愛に満ちている。
森の民。当然、森への観察眼・耳に優れている。予言のように天候の移り変わりも知る。
極寒の地で、諦めず、そこにある藁とわずかな荷物だけで、避難場所を作り上げる。勿論、すでに使い物にならないカピタンのことも見捨てずに。
でも、それだけではない。後から来る人のためにと、小屋を直し、食べ物やマッチなどを置いておく。それが廻り回って自分の身を助けるから。目先の利益に囚われぬ知恵。自分のものは他の人の物。
道案内の報酬をと言われても、それが悪いことだと言いつつ願うデルス氏。
だますことなど、デルス氏の辞書にはない。だから、クロテンと引き換えに得た利益を、悪い商人に取られても、怒らず、「不思議だ」と頭をひねるだけ。
測量が最終的に何をもたらすのかも理解しない。先祖代々、未だかって経験したことがないことだから。ただ、カピタン達、隊員が、森を汚すことなく、森を歩いているから、無事に歩けるように力を貸す。(『八甲田山』が頭をよぎってしまう)ずっと一人でいた寂しさもあったのか。
カピタンとの友情は、途中、恋人同士かと言うほどの蜜月となるが、カピタンだけでなく、隊員からも慕われる。
渡河のシーンでは、漂流する筏から部下が先に降り、降りこそなったカピタンを突き飛ばして降ろし、デルス氏はあわや濁流に飲み込まれそうになる。それを必死で助けるカピタンや隊員たち。
そんな助けたり助けられたりの行程。デルス氏にとっては当たり前なのだろうが、恩に着せたり、手柄話にしないデルス氏に感服するカピタン。
そんなデルス氏を英雄視する小さなカピタン。
理想化されて描かれているのではないかと思ってしまうほど、尊い。
だが、世の中は残酷に変化していく。
デルス氏には老化が忍び寄る。狩猟で生きている人にとって、わずかでも身体能力の劣化は命取り。身を寄せる家族も、とうに死んだ。村もない。
街の人と森の人。あまりにも、ルールが違い、一緒には生きられない。蜜月の終わり。
第一部では、圧倒的な自然の中、測量と言う技術を持っている教養人であり、軍の士官であるエリートも何の役にも立たず、森と共に生きてきたデルス氏が大活躍する場面を描き切る。
だが、第二部では、デルス氏を騙す商人の話。罠での乱獲。他の村人を襲い、利益を奪っていく人々。そして、身体能力が弱ったデルス氏は、森の人(動物)に殺され、自然に戻るのではなく、強盗殺人にあう。極めつけは、土地開発によって、デルス氏の墓が判らなくなる。と、自然の掟で成り立っていた土地が、欲や開発と言う名の人知によって侵されていくさまを描き切る。
デルス氏が、森の精霊=虎を撃ってしまい、虎におびえるシーンが挟み込まれるが、こじつけて言うのなら、森の神話と、その神話に生きる人の死を表現しているのではないかとも思ってしまう。この森の人は『もののけ姫』のデイダラボッチのように復活はしない。
なんという、一大叙事詩なのか。
それを、腰を据えて、ひたすらに、じっくりと描く。
1992年ブラジルで開催された環境と開発に関する国際連合会議の分科会で、”開発”の名のもとに、搾取され犠牲になった先住民族についての報告が相次ぎ、私のようなド素人にも、何が起こっているかが明らかになる約20年も前に。
1992年、自分たちの命と生活のために闘っていた先住民族の女性・メンチュウさんがノーベル平和賞を受賞する約20年も前に。
1993年国際先住民族年で、かれらに焦点が当たる約20年も前に。
勿論、映像・音楽は凝っている。
出会いの魔女の森のようなシーン。
太陽と月のランデブー。そこに、デルス氏とカピタンの黒いシルエット。神話を語るにふさわしい。
極寒の地と太陽。白いブリザードとオレンジ色の弱弱しい太陽。赤と黒。闇に飲まれそうなオレンジ。氷の照り。命がかかった行程。『アラビアのロレンス』の極暑のシーンを思い出してしまったが、こちらの方が先。
餓死寸前でたどり着いた家。助かったことへの感謝の言葉を述べるカピタン・隊員と、デルス氏。その間を魚を配るこの家の女性。なぜ、わざわざここに女性を配するのか?すでに腹が満たされたカピタン・隊員・デルス氏は魚を受け取らず、女性はウロウロするだけ。良いことを言っているシーンなのに、女性がいることでおかしみが加味される。
第二部の始まりは、みずみずしい緑。空の青と雲。風が渡る気持ちよさ。
カピタンや部隊との再会。鷲の歌。画面向かって左に歌う隊員たち。右下にカピタンとデルス氏。闇と、温かな人のぬくもりのコントラスト。舞台のようだ。
紅葉の美しさ。
正月。木に飾り?食べた後の缶などを吊るしているのか?クリスマスツリーにも見え、ホリディナイトを演出?だが、獣除けのドアベルにも似て。風で鳴るのか?虎の精霊が訪れているのか?危機感を煽る。
他にも他にも。
虎を撃ってしまうシーンはスクリーンとの合成だろうと思う。ロケを多用しているが、一部、合成か?というシーンもあって、その分勿体なくもある。
その世界観と言い、今こそ、この映画を見直すべきなのではないだろうか。
大きな画面で、音響の良い映画館で見たい。デルス氏の真似をして、そこにあるもの、聞こえてくる音に集中しながら。