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◯作品全体
本作に加えて『たそがれ清兵衛』、『武士の一分』は時代劇という括りでありながら山田洋次作品としての存在感も存分に発揮していると感じた。それは時代劇ではなかなか共感しづらい「日常」や「生活」の大事さに触れているからだと思う。
3つの作品に共通する「藤沢周平作品」は日常を大切に扱うところに共通点があるが、山田監督によって映像化された映画たちは、その質感が少し違う。藤沢周平作品での「日常」は主人公が隠し持つ剣術の才能や、その才能を発揮する場面のためにあるように感じる(もちろん、すべてではないが)。封建社会の窮屈感がありながらゆっくりと流れる「日常」の中で、隠していた才能が急に爆発する疾走感が藤沢周平の「海坂藩」ものでは顕著だ。
一方で山田監督は、主人公が隠し持つ才能を「事態を収拾するための力」としてのみ存在し、物語を加速させたり、疾走感を与えるものではない。「事態を収束」という主人公の意思も、義憤にかられる要素はあれど、自身の「日常」や「生活」を守ることに端を発する。
藤沢周平にとっての日常は、極端に言ってしまえば剣劇の導火線としての役割が大きく、主人公の日常を描きながらも主眼は封建社会の文化と閉塞感だ。日常が描かれることは同じでも、その描き方や役割は大きく異なるように感じた。
個人的な好みでいえば、物語の根幹に日常や生活がある山田監督の3作が好きだ。毎日のなにげない仕草や会話からその時代に生きる人たちの感情を読み取ることができることに心地よさを感じる。「海坂弁」の素朴な感じがまた、登場人物の生活の仕草に説得力を与えてるようにも見えて、それがまた良い。城勤めのときの表情と家に帰ってからの表情が全然違うところにも人間味を感じる。そこでこぼれる主人公の個性が生活や日常の色味になっていて、自然にこぼれてくるような会話劇が作品に優しい色味を与えている気がする。
と、べた褒めしておきながらだけれど、本作は他の二作品と比べると今一つだった。
本作は友人・狭間の妻を翻意にした大目付への仇討が、隠された才能を発揮する場面となる。旧友との関係性があまり描かれず、自分の生活や日常を壊してでも「鬼の爪」を使わなければならないという説得力が足りないと感じた。「鬼の爪」の技には驚いたけれど、重厚に語られた主人公・片桐の日常にはリンクしなかった。
狭間が銃撃される場面がやたらにグロテスクだったのもイマイチな理由の一つだ。無残な死はその後のカタルシスにつながるけれど、本作でのその役割は狭間の妻が翻意にされたことで十分だし、作品に似つかわしくないグロテスクさだった気がした。
侍をやめて蝦夷で商人をやろうとするラストも個人的には安直に見えた。才覚のある描写や人間性を作中で表現できていれば良いが、実直ながら不器用で、交友関係も狭い片桐という人物像を見てしまうと成功の未来が見えない。もう少し片桐の未来に商人という道があるという示唆があればよかった。
ただ、描かれる片桐の日常の描写はさすがだった。生活をしているだけなのに仕草や会話に温かみがあって、やはり心地よかった。この心地よさが後半の儚さに繋がっているのが他の二作だったけれど、仇討ちの経緯や片桐の行く末が少しノイズになったな…という感想が残る。
◯カメラワークとか
・登場人物とカメラの距離感が良い。表情を映すことに固執せず、登場人物の自然な仕草が見える距離感だった。
◯その他
・山田監督の時代劇三作は主人公の造詣が巧いなと思う。職場と自宅で見せる表情に変化を付けているのもそうだし、清廉潔白になりすぎず、俗っぽい冗談も飛ばす。現代にも居そうな人物が江戸時代で日常を過ごしているというだけで個人的には魅力的に映った。