ハウルの動く城のレビュー・感想・評価
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大人になって面白さに気がついた
久しぶりにTVで観たら、今起きている戦争の話を想像してしまいました。
子どもの頃、ハウルが誰と戦ってるのかわからず、怖い映画の印象でしたが、今観たら、戦争の愚かさと家族の大切さを描きつつ、ユーモアあり、やっぱりジブリ作品は凄いね~と、楽しめました!
壊してみせろよそのbad habit
カカシが出てきたあたりから、オズの魔法使いのようだなと最後まで思いながら観た。
ソフィーはハウルと偶然関わっただけで、ハウルを好きな荒地の魔女に解けない魔法をかけられて老婆にされてしまう。元々、美しく冷たく奔放な母と、容姿が母に似た妹に囲まれて育ち、亡くなった父の帽子屋を守るため、ソフィーは帽子屋に閉じこもるように自己を閉ざしていた。
ただ、マリリンモンローとオードリーヘップバーンくらいタイプが異なるだけで、ソフィーも聡明な顔つきでとても素敵。只でさえ戦争の足が忍び寄っているのに、なぜこの子がこんな目に遭うのか?!と、理不尽極まりない冒頭。一度会ったハウルに密かに心ときめき、老婆姿のソフィーは魔法を解いてもらうため、家を出て1人で荒地に来る。荒地の魔女を探していたが、カカシを助けたらカカシが泊まる家として見つけてきたのはなんとハウルの動く城。
そこで、孤児マルクルと出会い、ハウルと再会し、家を動かす原動力である火のカルシファーと魔法を解く鍵を見つける協定を結ぶ。
でも本当は、カルシファーは星の子だったのね。
原作に基づく解説を読んで初めて、地面に着いたら消えてしまう儚い星の子をかわいそうだと思ったから、ハウルは心と引き換えに星の子に火のカルシファーとして働いてもらっていたとわかった。
映像だけではわからない!
ただ、作中何度も、荒地と美しい自然と戦火の街並みが一瞬で切り替わる描写がある。
同じ家にいるのに、荒野にも、美しい海と山にも、お花畑にも、戦時中にもなりうる。
人間が自然を破壊すれば、人間が戦争をすれば。
ハウルは魔法で巨大なツバメの怪物へと姿を変えて、爆弾を沢山積んだ戦時中の軍機と夜な夜な闘いに行く。
「美しくなければ意味がない」と容姿にこだわるハウルにとっては、カルシファーに差し出した心の穴を埋めるために女の子から心を奪わなければならず、また、多くが戦争がヒートアップしていく国家を遠巻きに見るだけの中、人一倍反戦意識高く自ら戦争を止めに行くのは、育った美しい自然を守りたい美意識ゆえもあるのかもしれない。
一方、「私なんて美しかった事なんてない」と髪色が変わったくらいで怒るハウルに、叫びをぶつけるソフィー。だけど、ソフィーには老婆になっても違和感がないくらいの、悟りを開いたかのような器の大きな優しさがある。それは幼い頃から積み重ねた我慢や寂しさや理不尽ゆえなのかもしれない。老婆になったことで、帽子屋を出て、街を出て、自分の気持ちをアウトプットできるようになったとは皮肉だ。老婆になったからこそ、ハウルとも出会い、見た事のない壮大で美しい自然も見られた。そして、荒地の魔女がかけた魔法は、不安定なのか、ソフィーが心のうちを晒す時、元の姿に戻る。
ハウルは密かにソフィーの寝床を覗き、ソフィーの元の姿を知っている。ハウルとソフィーは何歳差なのかはよくわからないが、賢く優しいソフィーから、ハウルは安心を貰っている。
ハウルは実は戦争を仕掛ける2国から呼ばれている。
でも、魔法で戦争をする気にはならず、魔法で敵の攻撃をかわしてもかわされた爆撃は違う街に落ちるだけ、と持論があり、協力する気はない。
ハウルのかわりに断りに行くソフィー。
サリバンと、老婆のソフィーはまるで、魔女の宅急便のキキがニシンのパイを取りにお邪魔するお宅の、貴婦人とお手伝いさんそのもの。
なので一見、落ち着いた淑女のサリバンを信用しがち。
だが、同じくサリバンに呼ばれた荒地の魔女は、協力を求められていると誤解して素直に来たら、階段を足で登らされ、とんだ醜態を晒し、疲れて弱っているところで魔力を奪われ、元の姿に戻され、実年齢のとんでもないお婆さんに戻る。怖い、サリバン王宮。
失うものがないから、
こんなところにハウルを行かせられません!と言ってあげられるソフィーの強さ。結局ハウルもソフィーが心配だからと化けてサリバンのところに来てしまい、2人してサリバンに逆らい、サリバンの追っ手にハウルは苦戦することになるのだが。なぜか荒地の魔女ことおばあちゃんと、サリバンの犬もついてきてしまう謎展開。
ハウルはどこの国の戦争にも加担せず、荒地の魔女に寵愛され悪さをすることもなく、ただ自由に生きたかっただけなのに、魔法の力ゆえなのか、モテるからなのか、周りに取り合いされてしまう人たらしだったのだ。
でも本人は、追っ手や悪い魔女に何をされるかと、不安で不安でたまらない1人の青年にすぎない。部屋の中、お守りだらけ。戦争を止めに行っては、巨大なツバメ怪物の姿から戻れなくなりそうなほどに疲れ果て、ネガティブな時には緑のネバネバを身体から出す、家の中では弱すぎる一面がある。その一面を掃除婦として動く城で奉公するうちよく理解するソフィー。
人に見せたくない、ハウルならツバメ緑スライム、ソフィーなら老婆、荒地の魔女なら恥もない要介護おばあちゃんな姿、マルクルなら大人の助けが必要な幼児としての姿を晒し合い、助け合う、動く城での平穏な生活。
そこにも戦争はやってくる。
マルクルは恐らく孤児なのだろう。
戦火で留守番している子供の描写に、どんなに怖くて心細いかと胸が苦しくなる。
街に忍び寄っていた戦争が、あっという間にソフィーの故郷を焼く。
おまけに、高熱だと言っても放置する母親が訪ねてきて、老婆になったソフィーを見ても、私お金持ちと再婚するのと言い放ち、サリバンから預かった監視の虫をわざと置き忘れていく。その虫を密かにカルシファーの火で燃やし、母親と仲直りできた気でいるソフィーには何も言わない荒地の魔女。
ハウルはソフィーを守りたいと戦火からなかなか戻ってこない。
優しさが悪意を遠ざけているようだが実は、変な虫を食べたことでカルシファーの火力は弱り、城を動かす原動力が弱って全員危険に晒される。
やっと家族としてまとまり全員の居場所ができた、その城を守る事よりも、ハウルの命を守るため、ソフィーは城を追っ手が来ない荒地の中に切り替えて、窯に縛り付けられたカルシファーも無理やり家の外に出す。
でも家はまっぷたつ。
おまけに荒地の魔女はハウルの心が欲しくてカルシファーを握り締め、焼け死ぬ寸前。
ソフィーはとっさに荒地の魔女と、カルシファーに水をかけ、火を消してしまった。
ところが、瓦礫で1人になると指輪がハウルの居場所を指し示し、そこはハウルの幼少期。
ハウルとカルシファーの契約をやっと理解して、沼に引き摺り込まれながら待っててねと叫ぶソフィー。
ツバメ姿でボロボロになって戻ったハウルと再開し、キス。カルシファーにもキス。カカシにもキス。
そんな大胆な性格ではなかったはずなのに。
カカシは好きな人からキスされると解ける魔法がかかっていたらしく、解けて隣国の王子に戻り戦争を止めに行く。
ソフィー「ハウルが命を取り戻し、カルシファーが千年も生きられますように」
そしてハウルの心は戻り、カルシファーは心臓を失っても生きられるようになった。
ハウル「身体がとても重い」
ソフィー「心って重いの」
この会話がとても印象的。
心がなかったにしては、ソフィーを喜ばせようとお花畑に帽子屋と同じ部屋を準備したり、ソフィーを守るため飛び出して行ったりと、ハウルは随分積極的。
せっかく帽子屋に縛られていた心を解放し始めたソフィーは複雑な顔をするものの、もうハウルに老婆としてではなく、思いっきり心あらわに好きだと示す準備ができる。
ソフィーが老婆になる呪いは、既にハウルが解いていたけれど、元の姿に自信がないソフィーは自ら老婆になっていた。そして、ソフィーは実は自覚のない魔法使い。
妹のベティーが
「自分の人生自分で決めないとダメよ」
と言ってくれたのに、
ハウルが、
「掃除婦って誰が決めたの?」ときくと、
「そりゃあ私が決めたよ」と答えていたソフィーだが、
本当は生きたい通りに生きられるし、魔法まであった。
「亡くなったお父さんのため」と帽子屋に人生を縛り付けていたが、実は容姿に自信がなく、一歩を踏み出せなかったから。ハウルへの恋の力で変わっていく。ハウルすごい。
セカオワの、自分で自分を分類するなよ壊してみせろよそのbad habitの歌詞を突きつけられ、見事壊したかのようなソフィーだった。
でも、その選んだ人生すら、あっという間に街ごと火で包み込み、「全てを奪い去る戦争」「気が付いたらすぐ側に迫っている戦争」の表現が、血みどろではなくしっかり描かれていて、良い作品だと思った。
複雑すぎて意味不明
トトロやラピュタ、魔女の宅急便みたいに単純明快なストーリーが好みなので、もののけ姫以降のジブリ作品は複雑すぎて苦手。
ソフィは呪いをかけられてどこへ向かったのか?
結局ハウルは何者なのか?
ソフィとハウルはなぜいつの間にか相思相愛なのか?
なぜ諸悪の根源である荒地の魔女と一緒に行動することになったのか?
戦争が起こった背景やハウルがそれを止めようとする理由は?
いろんな要素を詰め込みつつも、謎を散りばめて深く語らないのが粋、みたいな最近のジブリの風潮は個人的には苦手。
映像のスケールが大きいのでつい見てしまうが、結局よく分からないまま終わる。
「カルシファーが千年生き、ハウルが心を取り戻しますように」を聞きたくて見ているような物
初めて見た時は映像はジブリ的魅力にあふれていながらストーリーもセリフも取って付けのパッチワーク風で納得できたとはとても言えなかった。
だからレンタル中は毎日見直し、さらには原作本全巻、解説本なども随時見て自分なりに理解し納得できたような気になった瞬間もあった。
しかし、それから数年経ち十何度目の視聴になる今回、上の知識が完全に蒸発してしまったこともあり「単にとっ散らかっている映画」でしかなかった。苦笑
・・・なんて言ったらそれも嘘で、ファンタジーにうっとり耽溺できた部分がやはり大きく、そして、タイトルに掲げた「「カルシファーが千年生き、ハウルが心を取り戻しますように」」という呪文というか祈りに軽く心打たれ、これがあるからこそ十何度も見ているのだなと思い知らされましたよ。
というわけで、その文言ゆえに個人的にこのハウルは「永遠の映画」となっているようです。少なくとも現時点では笑
追記
徐々に不明部分を思い出してきたが、カルシファーは地球に落下するとすぐ息絶えてしまう「星の子」。
それを不憫に思った子供の頃のハウルが星の子を飲みこみ、ハウルの心臓を得たことで地球上でも生存できる「カルシファー」となり、代わりにハウルが強大な魔術を使えるようになった。
だからカルシファーは悪魔でも何でもない。
ではラスト、ハウルにカルシファーから心臓を移した後、ハウルが息を吹き返したのはいいとして、「星の子」の逆戻りしたカルシファーがなぜ生き永らえることができたのか?
そこは思い出せないけれどヒロインがキスをしたことで新しい命を吹き込まれたということなのかもね。
何れにしろ”度を過ぎた物凄いファンタジー”に過ぎないが、その度外れっぷりがある種の爽快感を産み出した一つの例だと思う。
後、ハウルたちが星の子に囲まれた際の呪文の意味も思い出せないが、それはネットなどでその他不明点も含め各自調べたほうが面白いかも。
ダイアナ・ウィン・ジョーンズという比較的マイナーなファンタジー作家
(ル・グインとは違う)を翻訳がポンポン出るような扱いにさせた点では、良かったのかな。
声優陣は別に気にならず。ただもうあんまりワクワクしなくなってきた。
独特な世界観もよかったし、壮大な風景の画、そしてそれにぴったりの久...
独特な世界観もよかったし、壮大な風景の画、そしてそれにぴったりの久石譲の壮大な音楽が心地よい。
ソフィーのハウルを想う気持ち、人を愛する気持ちってとても素敵なことで温かいなぁと思える。
動きます、歩きます、楽しい
不恰好な脚がついて、蒸気をジュンジュン吹きながらギコギコ歩く楽しいお城。
こんな城に、一度は住みたいと思った貴方、さあハウルの手をとってソフィーと旅に出よう。
楽しめる事うけあい、日本の誇る映画監督の作品です。
原作のハウルは、もっと俗っぽい男で、お城は最初から浮いてますよ。
さて最初この映画の監督に抜擢されたのが、今やヒットメーカーとなった細田守。
原作をうまくひねったであろう設定で、お話を作っていたところ、ちょっとやりたくなった宮崎駿に仕事を丸ごとぶっこぬかれてしまいました。
細田守は「ああ、これで自分もアニメの仕事はおしまいか」と絶望したそう。
その後時をかける少女のスマッシュ・ヒットで捲土重来を果たしますが、細田守は「宮崎駿が死んだら全てを話す(やさしい微笑み)」と各所で語っております。
この時も宮崎駿監督は「細田君、大丈夫なのかな……」と心配だけしていたそう。
女性大好きのワガママ男、ハウルと宮崎駿を許す心の広さをもって、いざこの物語を楽しみましょう。
キムタクは主演俳優倍賞千恵子の相手役
天才木村拓哉の名演技に完全に喰われてしまった主演の倍賞千恵子。しかもキムタク脇役だし。まあジブリ史上最悪の駄作と言っても過言ではないだろう。つまり木村拓哉を主役にさせないばかりか、 脇役にしてヒロインである倍賞千恵子から遠ざけてる。 相手役で売ってるのにこの矛盾が映画を潰してる。キムタクは典型的な客寄せパンダ。
ハウルに心臓を盗られてしまいました。私が。(笑)
もうDVDなどで何度も観ていますが、この前の金曜ロードショーも録画をしていたのでまた観ました。何度観てもやっぱり名作。そして、私は何度観てもハウルに恋をする。
自分の心を取り戻して
「お姉ちゃん本当に帽子屋になりたいの?一生あの店にいるつもり?」
妹のこの問いに対するソフィーの答えに彼女のこれまでの生き方が凝縮されています。「私は長女だから。お父さんが大事にしてた店だから。」
自分の気持ちはそっちのけで、置かれた状況や空気を読んで行動する子。自分のやりたい事よりも、周りから期待されている事を優先する子。幼い頃からそうやって自分の気持ちに蓋をしていくうちに自分の本当の心を無くしてしまったソフィー。彼女は荒地の魔女に会うよりも前に自分で自分に呪いをかけていました。
街でハウルに助けられた時も、その見た目の美しさと好青年ぶりにときめきを覚えますが、自分の気持ちに気付けません。
荒地の魔女に老婆の姿にされてしまったソフィー。最初驚きはしたものの、悲観的になる事はなく、老婆ならではの知恵と逞しさを見せてくれます。老婆として周囲の世話を焼くうちにソフィー自身の心の壁も薄れていきます。そして、ハウルへの愛の大きさが彼女が自身の心を取り戻す原動力となっています。
「私、あなたの助けになりたいの!」「ハウル大好き!」
自分の気持ちに気付けただけではなく、それを言葉にして相手に伝える事のできる喜び。ソフィーは大きく成長できました。
ハウルの存在によりソフィーは自分の心を取り戻しました。そしてハウルはソフィーによって自分の心(心臓)を取り戻しました。ソフィーとハウル。お互いがなくてはならない存在であり、成長し合える仲。素敵な関係です。
前半のソフィーのように、「これでいいんだ」と自分を無理やり納得させ、自身に呪いをかけて生きてきている人って沢山いると思いますし、私もその一人です。世の中上手く渡っていく為にはそうやって自分を曲げる柔軟性も必要ですが、それをやり過ぎるといつか自分の心を無くしてしまいそうです。自分に言い訳ばかり言って現状を無理に飲み込んでいては、自分で自分の可能性を狭めてしまいます。
自分の心に耳を傾け、勇気を持って一歩踏み出せば希望に満ちた新しい世界が開ける。ソフィーはそんな事に気付かせてくれました。
【深い世界観】
「ハウルの動く城」は、色々な意味で奥深い作品だと思う。
宮崎駿さんが、当初の低い評価に怒ったというエピソードは有名だし、エンターテイメントだけ求めるやつなんか映画観に来なくて良いみたいな発言もしたとか、しないとか😁
まず、映像がすごい。
あの動く城は、緻密に構成されていて、物語の中で起こる出来事を見ても、内部の作りなど含めて、違和感などなく、ユーモアも迫力も満点だ。
そして、魔法でお婆さんにされてしまったソフィーが、気持ちの変化に応じて、若返ったり、また、歳を取ってみたり、とても自然に変化するのだが、内面の変化…、つまり気持ちの持ち様を表していて、この移り変わりも物語に奥深さを加えていると思う。
人は見た目ではない。
見た目でモチベーションが変わるのではなく、老いたのか否かは、心の底持ち様、つまり、内面や、モチベーションが重要であることは、対比される魔女からも明らかだろう。
ここはジブリの作画や動画の真骨頂だ。
そして、人を殺めるのであれば、敵も味方も同じだいうハウルの言葉。
僕達の生きる世界の危うさを示唆しているようだ。
いろいろな示唆に富んだ、僕は大好きな作品だ。
呪いを解いたその先に
"金曜ロードショー" で3回目の鑑賞。
原作は未読。
正直な話、本作がそんなに好きではありませんでした。物語のテーマが理解出来なかったからです。ソフィーがおばあさんから唐突に元の姿に戻ったり、かと思えばまたおばあさんになったり。他にも様々な物事の意味が理解出来ず、「全然面白くなーい」と云う感想になってしまったのでした。
「風の谷のナウシカ」や「紅の豚」などの幼少期から親しんで来た作品は好んで何回も観ていて、ストーリーを記憶していますが、本作は今回の放送が中学生以来の鑑賞となり、殆ど何も覚えていない状態でした。返ってそれが良かったのかもしれません。当時は理解出来なかったことがすんなりと頭に入って来たからです。少しは成長出来てるってことかな?
ハウルの動く城には呪いのかかった者たちが集まっている。そんな彼ら彼女らが呪縛から解放され、新たな生き方を見出すまでの物語がファンタジックに描かれていて感動しました。
ソフィーが一時的に元の姿に戻ったのは、ハウルへの愛がその時の彼女を突き動かしていたからかなと思いました。これまでは実家の帽子屋を継がなければいけないと云う責任感が彼女自身の呪縛となっていましたが、ハウルと出会い彼を愛するようになったことで、自分ではない誰かのためになりたいと云う想いが芽生えた…。再びおばあさんになってしまったのは、まだ自分に自信が無く、迷いがあったからでしょう。
自らを臆病者と云う呪いで縛り上げ、ゴテゴテといかめしい動く城をつくって逃げ回っているハウルを救おうと、懸命に奔走したソフィーはかっこいいしかわいい。
ジブリのヒロイン、とりわけ宮崎駿監督作品に登場するヒロインは、愛の力でどんな困難も跳ね返していくのが魅力的ですが、ソフィーもまたしかり。自らにかけていた呪縛を打ち破って、ひとりの成熟した女性となりました。
冒頭では大人しい雰囲気の地味な少女でしたが、「ハウル大好き!」と人前で抱きつき、皆に慈愛のキスをするような人格へと変貌を遂げました。「家族」の呪いを解いて、めでたしめでたし。恋は生き方を変え、自分の周りの世界を変えてしまう力をもっているのかもしれないなぁ…
人は知らず知らずの内に、自らに呪いをかけてしまっているもの。自分はこんな人間だと決めつけ、その場から踏み出すことに臆病になり、現状維持を掲げて自己肯定しようとする。
果たしてそれでいいのだろうか。そこから解き放たれた時、新しい道が自ずと拓ける。そんな希望を感じさせるメッセージが籠められた本作を、めちゃくちゃ好きになりました。
[以降の鑑賞記録]
2023/01/06:金曜ロードショー
※修正(2024/03/13)
まさに色んな人にかけられた呪いを解く物語。
何回観たかわからんけど、先日改めて観たら印象に残ってようやく言語化できたことがある。
物語の主軸のひとつに、「美しくあらねばならない」という呪いからの解放がある、というところだ。
これは主人公のソフィーのみでなく、ハウルにも、荒地の魔女に当てはまる。
ソフィーは長女であること、華やかな妹や母とは自分が違う(と感じている)こと、色んな呪いを自分にかけている。荒地の魔女の呪いにかけられる前から既に色んな呪いにがんじがらめにされてたのがソフィーなのだ。
というか荒地の魔女の呪いは内面の年齢というか自己認識のイメージを具現化させる呪いだったのだと思う。
だからソフィーは荒地の魔女におばあさんにされて驚きはするも割とすぐに受け入れているし、物語の進行に伴って見た目年齢が変化してる。
(眠っている無意識ときは本当の姿に戻っているし、ハウルの前で若い姿に戻りかけても「年寄りである」ということ口にした瞬間おばあさんに戻るなど)
最後は若いソフィーに戻るけど、それは荒地の魔女の呪いが解けたというよりは、自分の意思で行動し続けた結果、自分にかけていた呪いをソフィー自身が解いた(意識が変わった)というところなんだろうな。
✴︎✴︎✴︎
続いてハウル。ハウルも美しさに囚われている一人だ。
ハウルは元々美しい青年なのだけど、魔法の力で髪を染め、自分が美しいと思う自分になろうとしている。
それはたぶんカルシファーとの契約で心臓を手放し、「心」が欠けている自分に自信がないことも関係している(愛してくれる女の子を求めるのも同じ理由かな)。
その欠けた部分を、自分の自身のなさを補うために美しさに執着している(そう思うと「美しくなければ生きていても意味がない」発言と癇癪にも納得)。
あと悪魔との契約で怪物のような自分が生まれたことも怖かったのかも。
でもハウルはソフィーを見つけたことで、守りたいものができる。自分の美醜よりも大切にしたいものができたハウルも、「美しくなければ生きていても意味がない」という呪いから解放されている。
✴︎✴︎✴︎
続いて荒地の魔女。
荒地の魔女も、魔法で美しさと若さを保ち続けていた。
かつては偉大な魔女だったらしい彼女も歳を取り、肉体の衰えでできなくなることが増え、おそらくありのままの年齢の自分が受け入れなくなったのかもしれない。
彼女も美しさの呪いに囚われていたといえる。
サリマンに強制的に魔法を解かれた後は、そんな自分を受け入れてくれるソフィーやハウル一家に出会って、彼女も呪いから解放されたんじゃないかと感じた。
そしてラスト、頑なにハウルの心臓を離さない彼女を抱きしめるソフィーに完全に呪いを解いてもらったのではないかと思う。
というかあのシーン、改めて観るととても良かった…。
他にも色んなテーマを含んだ作品だと思うけど、この旧来の固定観点のような「呪い」(たとえば古いジェンダー観など)を解く作品群は最近よく目にするので、そんな中でこの作品を観るととても面白かった。
そして細かいことは差し置いても、改めてハウルはとても魅力的なのだった…。さすがジブリ屈指のイケメン。
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