ハウルの動く城のレビュー・感想・評価
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内容以前のプロモーションにひいてしまった
アニメーションとしての表現力は、極限まで磨き上げられている。もちろん、CGの進化によって、アニメはまた違う次元に昇っていくことにはなるが、手描きの手法で、ここまでのクオリティを実現できたのは、ジブリのアプローチが正しかったからと言えるのではなかろうか。
ひとりの天才がいても、集団作業である映画製作において、傑作とはなり得ない。商業ベースに乗りつつ、定期的に質の高い長編を発表し続けることの難しさを、なんとなく想像してみた。『ハウルの動く城』は、その曲がり角にあった作品と言えるのじゃないかと思う。
内容よりも、話題が先行した作品で、夏のイベントと化していたジブリ映画にくさびを打ったんじゃないかと思う。表現の手法としては、主人公が魔法によって自在に若返ったり、年老いたりするという、アニメーションならではの展開にうならされる。それも、あれあれ、まあまあ、と、変化しながらよぼよぼになっていくんじゃなく、ある時は少女の表情。ある時は、腰の重たい老婆にと、場面ごとに変わっていきながら、同じ人物であることを破たんなく示すことが求められる。それこそが、魔法であり、心の向きようで、人はいくらでも若くいられるという、宮崎駿のメッセージに違いない。
その他にも、この映画では、いくつかの挑戦が試みられていると思う。ひとつは、「重さ」の表現。生きている城が、ガタガタと音を立てながら移動する場面や、体重が限りなく重くなる「競歩」のシーンに現れている。どちらかと言えば、鮮やかな飛翔シーンに見られるように、今までの宮崎アニメには「軽さ」を強調したものが多かったように思う。それが、真逆の方向に舵を切ったのだ。戸惑いと感動が同時に襲ってきた。しかし、その当時はその意味をあまり理解できないまま、「宮崎アニメは終わったな…」なんて漠然とつぶやいたりしたものだ。
正直に言うと、内容うんぬんよりも、木村拓哉の存在が大きかった。彼の実力は間違いないと思うのだが、どこか小バカにしたような作品への向き合い方に、始めから嫌な印象しか持たずに映画を見てしまったのだ。見終わった後で、あの声優誰だったの?と思うのとではずいぶん違う。
好きか嫌いか、面白かったかどうかよりも、キムタクはジブリにフィットするのかどうか?が、映画の評価軸になってしまった。残念な作品だった。それも含めて宮崎アニメなのだから、この映画は確実に曲がり角だったと思うのだ。
余談だが、『ミケランジェロ・プロジェクト』日本語吹き替え版で、あまりにもひどい声優が起用されていた。そのひどさゆえ、映画の内容よりも、「誰だ?あの声優」ということになって、調べたら、工藤静香だったという…
夫婦そろってまあ。
宝石箱のような映画
最初に映画館で観たときは、とにかく難解だなあという印象だった。
そこから約二十年ぶりに今回鑑賞した後、一番に感じた印象は、こんなに「恋愛映画」だったんだ!ということ。
地味で自分の容姿に自信がないけど、責任感が強く芯が真直ぐで美しい心を持ったソフィー。キザで格好良くて天才的な魔法の才能を持ちながら、実はピュアでナイーブで気が弱くて、誰にも言えない秘密を抱えているハウル。最初から最後まで、この二人の運命的な出会いと成長を軸に描いていることに、今回初めて気づいた。
そして、心ときめく(近代ヨーロッパの街並みと雄大な自然をモチーフにした)素敵な風景、そこに自然な形で組み込まれている魔法の世界、敵とも味方とも分からない掴みどころがないけど魅力的なキャラクター達がドタバタと繰り広げる映像表現は、まさに「アニメーションの魔法」というべき特別な体験をさせてくれる。城の造形や動きはマニアックでグロテスクでカッコいいし、荒地の魔女やカルシファーの変幻ぶりは見ていて飽きがこない。
本当に宝石箱のような映画だと思う。
最後の急展開な終わり方のドタバタぶりは、いつものジブリ作品に更に輪をかけていて、映画の理解や共感を困難にしている主な原因だと思うし(誰彼かまわずキスばかりするソフィーの行動しかり)、結末は余りにもご都合主義が過ぎる気がするけれど(急に戦争をやめると言い出すサリバン先生然り)、そんなことも全部ひっくるめて、これぞジブリ!という作り手の熱量に溢れた映画だと思う。(若干無理矢理かな。笑)
少なくとも僕は、初見で見たときと比べて(自分でも驚くくらい)純粋に、楽しんで観れました。
不可思議でもまだ好感、
この作品くらいからジブリはつまらなくなった・・・
独特の世界がとても好き!
ガラクラで作られたお城も、個性あふれる魔法遣いたちも、なんてかわいいんだろう!
荒地の魔女に、魔法で90歳の姿に変えられてしまったソフィが、自分に自信が出た時や、ハウルへの愛情が高まったときに、みるみる若返っていく。特に、マダム・サリマンと対峙するときは、カッコイイ!
本当は「戦争」という重いテーマもベースにはあるのかもしれないが、嫌なことから逃げてばかりのハウルが、愛する者を守る大人の男になっていく姿も良いし、最終的には、ハウル、ソフィ、マルクル、カルシファー、荒地の魔女、ヒン…。みんなで仲良く暮らしていく、ハッピーエンド感も良い。
一個だけ…声優だけは、どうにかならなかったのか!ハウルがキムタクにしか見えなくなってしまう…。残念でならない。
タイトルなし(ネタバレ)
宮崎駿監督の『ハウルの動く城』、テレビ放映で鑑賞しました。
初公開の2004年にも映画館で鑑賞し、その後は、テレビ放映されるのを何度か途中から観ました。
初鑑賞時の感想は「ハナシ的にはよくわからないけど、なんだかすごいなぁ」というのが正直なところでしたが、今回再鑑賞して、ハタと気づきました。
もしかしたら、全然わかっていなかったのではないかしらん、ということに。
戦争が続くある国のこと。
父親の帽子店で日々、帽子を作りつづけていた18歳のソフィーは、ある日、荒地の魔女に呪いをかけられ90歳の老婆になってしまった・・・・
というところから始まる物語をいまさら繰り返す必要はないでしょう。
ソフィーが主役の作品のように思われますが、やはり、主役はタイトルにもあるハウル。
ハウルの立ち位置がよくわからなかったのですが、『紅の豚』、本作、『風立ちぬ』と3本並べると、本作の立ち位置がよくわかります。
ハウルは、平和を愛するが、逆に戦闘も好きな少年の暗喩で、戦争と平和の間で揺れ動く宮崎駿少年の姿でしょう。
ハウルはカルシファーという「火の精霊」の命を救う代わりに、心臓を与えます。
心臓を与えた代わりに得たハウルの能力は、鋼鉄の羽に覆われて空を飛ぶ能力。
ハウルはその能力を使って、人々を救うことを目的に戦場で敵をやっつけますが、人々を救うとはいいつつも、超人(鳥人)としての能力を発揮することが楽しくてたまらない。
そんなアンビバレンツな立場です。
「火の精霊」とカルシファーのことを書きましたが、正しくは火器の流れ弾、爆発の欠片の火花です。
爆発の火花は美しい。
しかし、それは人を殺すためのものだ。
人々を救うためには敵をやっつけなければならないが、それは敵という人を殺すことだ。
人を殺すことに魅了されながらも、平和を願い、平和を愛する・・・
自己矛盾の塊のような存在のハウル。
映画は、最後の最後で、停戦に向かうことになりますが、当初の案では「それでも戦争はつづいた・・・」という字幕が出る案もあったようです。
ウクライナでの戦争が続く中での新年最初に放送する映画として、本作を選んだテレビ局の英断に拍手を贈りたいものです。
大人になって面白さに気がついた
壊してみせろよそのbad habit
カカシが出てきたあたりから、オズの魔法使いのようだなと最後まで思いながら観た。
ソフィーはハウルと偶然関わっただけで、ハウルを好きな荒地の魔女に解けない魔法をかけられて老婆にされてしまう。元々、美しく冷たく奔放な母と、容姿が母に似た妹に囲まれて育ち、亡くなった父の帽子屋を守るため、ソフィーは帽子屋に閉じこもるように自己を閉ざしていた。
ただ、マリリンモンローとオードリーヘップバーンくらいタイプが異なるだけで、ソフィーも聡明な顔つきでとても素敵。只でさえ戦争の足が忍び寄っているのに、なぜこの子がこんな目に遭うのか?!と、理不尽極まりない冒頭。一度会ったハウルに密かに心ときめき、老婆姿のソフィーは魔法を解いてもらうため、家を出て1人で荒地に来る。荒地の魔女を探していたが、カカシを助けたらカカシが泊まる家として見つけてきたのはなんとハウルの動く城。
そこで、孤児マルクルと出会い、ハウルと再会し、家を動かす原動力である火のカルシファーと魔法を解く鍵を見つける協定を結ぶ。
でも本当は、カルシファーは星の子だったのね。
原作に基づく解説を読んで初めて、地面に着いたら消えてしまう儚い星の子をかわいそうだと思ったから、ハウルは心と引き換えに星の子に火のカルシファーとして働いてもらっていたとわかった。
映像だけではわからない!
ただ、作中何度も、荒地と美しい自然と戦火の街並みが一瞬で切り替わる描写がある。
同じ家にいるのに、荒野にも、美しい海と山にも、お花畑にも、戦時中にもなりうる。
人間が自然を破壊すれば、人間が戦争をすれば。
ハウルは魔法で巨大なツバメの怪物へと姿を変えて、爆弾を沢山積んだ戦時中の軍機と夜な夜な闘いに行く。
「美しくなければ意味がない」と容姿にこだわるハウルにとっては、カルシファーに差し出した心の穴を埋めるために女の子から心を奪わなければならず、また、多くが戦争がヒートアップしていく国家を遠巻きに見るだけの中、人一倍反戦意識高く自ら戦争を止めに行くのは、育った美しい自然を守りたい美意識ゆえもあるのかもしれない。
一方、「私なんて美しかった事なんてない」と髪色が変わったくらいで怒るハウルに、叫びをぶつけるソフィー。だけど、ソフィーには老婆になっても違和感がないくらいの、悟りを開いたかのような器の大きな優しさがある。それは幼い頃から積み重ねた我慢や寂しさや理不尽ゆえなのかもしれない。老婆になったことで、帽子屋を出て、街を出て、自分の気持ちをアウトプットできるようになったとは皮肉だ。老婆になったからこそ、ハウルとも出会い、見た事のない壮大で美しい自然も見られた。そして、荒地の魔女がかけた魔法は、不安定なのか、ソフィーが心のうちを晒す時、元の姿に戻る。
ハウルは密かにソフィーの寝床を覗き、ソフィーの元の姿を知っている。ハウルとソフィーは何歳差なのかはよくわからないが、賢く優しいソフィーから、ハウルは安心を貰っている。
ハウルは実は戦争を仕掛ける2国から呼ばれている。
でも、魔法で戦争をする気にはならず、魔法で敵の攻撃をかわしてもかわされた爆撃は違う街に落ちるだけ、と持論があり、協力する気はない。
ハウルのかわりに断りに行くソフィー。
サリバンと、老婆のソフィーはまるで、魔女の宅急便のキキがニシンのパイを取りにお邪魔するお宅の、貴婦人とお手伝いさんそのもの。
なので一見、落ち着いた淑女のサリバンを信用しがち。
だが、同じくサリバンに呼ばれた荒地の魔女は、協力を求められていると誤解して素直に来たら、階段を足で登らされ、とんだ醜態を晒し、疲れて弱っているところで魔力を奪われ、元の姿に戻され、実年齢のとんでもないお婆さんに戻る。怖い、サリバン王宮。
失うものがないから、
こんなところにハウルを行かせられません!と言ってあげられるソフィーの強さ。結局ハウルもソフィーが心配だからと化けてサリバンのところに来てしまい、2人してサリバンに逆らい、サリバンの追っ手にハウルは苦戦することになるのだが。なぜか荒地の魔女ことおばあちゃんと、サリバンの犬もついてきてしまう謎展開。
ハウルはどこの国の戦争にも加担せず、荒地の魔女に寵愛され悪さをすることもなく、ただ自由に生きたかっただけなのに、魔法の力ゆえなのか、モテるからなのか、周りに取り合いされてしまう人たらしだったのだ。
でも本人は、追っ手や悪い魔女に何をされるかと、不安で不安でたまらない1人の青年にすぎない。部屋の中、お守りだらけ。戦争を止めに行っては、巨大なツバメ怪物の姿から戻れなくなりそうなほどに疲れ果て、ネガティブな時には緑のネバネバを身体から出す、家の中では弱すぎる一面がある。その一面を掃除婦として動く城で奉公するうちよく理解するソフィー。
人に見せたくない、ハウルならツバメ緑スライム、ソフィーなら老婆、荒地の魔女なら恥もない要介護おばあちゃんな姿、マルクルなら大人の助けが必要な幼児としての姿を晒し合い、助け合う、動く城での平穏な生活。
そこにも戦争はやってくる。
マルクルは恐らく孤児なのだろう。
戦火で留守番している子供の描写に、どんなに怖くて心細いかと胸が苦しくなる。
街に忍び寄っていた戦争が、あっという間にソフィーの故郷を焼く。
おまけに、高熱だと言っても放置する母親が訪ねてきて、老婆になったソフィーを見ても、私お金持ちと再婚するのと言い放ち、サリバンから預かった監視の虫をわざと置き忘れていく。その虫を密かにカルシファーの火で燃やし、母親と仲直りできた気でいるソフィーには何も言わない荒地の魔女。
ハウルはソフィーを守りたいと戦火からなかなか戻ってこない。
優しさが悪意を遠ざけているようだが実は、変な虫を食べたことでカルシファーの火力は弱り、城を動かす原動力が弱って全員危険に晒される。
やっと家族としてまとまり全員の居場所ができた、その城を守る事よりも、ハウルの命を守るため、ソフィーは城を追っ手が来ない荒地の中に切り替えて、窯に縛り付けられたカルシファーも無理やり家の外に出す。
でも家はまっぷたつ。
おまけに荒地の魔女はハウルの心が欲しくてカルシファーを握り締め、焼け死ぬ寸前。
ソフィーはとっさに荒地の魔女と、カルシファーに水をかけ、火を消してしまった。
ところが、瓦礫で1人になると指輪がハウルの居場所を指し示し、そこはハウルの幼少期。
ハウルとカルシファーの契約をやっと理解して、沼に引き摺り込まれながら待っててねと叫ぶソフィー。
ツバメ姿でボロボロになって戻ったハウルと再開し、キス。カルシファーにもキス。カカシにもキス。
そんな大胆な性格ではなかったはずなのに。
カカシは好きな人からキスされると解ける魔法がかかっていたらしく、解けて隣国の王子に戻り戦争を止めに行く。
ソフィー「ハウルが命を取り戻し、カルシファーが千年も生きられますように」
そしてハウルの心は戻り、カルシファーは心臓を失っても生きられるようになった。
ハウル「身体がとても重い」
ソフィー「心って重いの」
この会話がとても印象的。
心がなかったにしては、ソフィーを喜ばせようとお花畑に帽子屋と同じ部屋を準備したり、ソフィーを守るため飛び出して行ったりと、ハウルは随分積極的。
せっかく帽子屋に縛られていた心を解放し始めたソフィーは複雑な顔をするものの、もうハウルに老婆としてではなく、思いっきり心あらわに好きだと示す準備ができる。
ソフィーが老婆になる呪いは、既にハウルが解いていたけれど、元の姿に自信がないソフィーは自ら老婆になっていた。そして、ソフィーは実は自覚のない魔法使い。
妹のベティーが
「自分の人生自分で決めないとダメよ」
と言ってくれたのに、
ハウルが、
「掃除婦って誰が決めたの?」ときくと、
「そりゃあ私が決めたよ」と答えていたソフィーだが、
本当は生きたい通りに生きられるし、魔法まであった。
「亡くなったお父さんのため」と帽子屋に人生を縛り付けていたが、実は容姿に自信がなく、一歩を踏み出せなかったから。ハウルへの恋の力で変わっていく。ハウルすごい。
セカオワの、自分で自分を分類するなよ壊してみせろよそのbad habitの歌詞を突きつけられ、見事壊したかのようなソフィーだった。
でも、その選んだ人生すら、あっという間に街ごと火で包み込み、「全てを奪い去る戦争」「気が付いたらすぐ側に迫っている戦争」の表現が、血みどろではなくしっかり描かれていて、良い作品だと思った。
複雑すぎて意味不明
「カルシファーが千年生き、ハウルが心を取り戻しますように」を聞きたくて見ているような物
初めて見た時は映像はジブリ的魅力にあふれていながらストーリーもセリフも取って付けのパッチワーク風で納得できたとはとても言えなかった。
だからレンタル中は毎日見直し、さらには原作本全巻、解説本なども随時見て自分なりに理解し納得できたような気になった瞬間もあった。
しかし、それから数年経ち十何度目の視聴になる今回、上の知識が完全に蒸発してしまったこともあり「単にとっ散らかっている映画」でしかなかった。苦笑
・・・なんて言ったらそれも嘘で、ファンタジーにうっとり耽溺できた部分がやはり大きく、そして、タイトルに掲げた「「カルシファーが千年生き、ハウルが心を取り戻しますように」」という呪文というか祈りに軽く心打たれ、これがあるからこそ十何度も見ているのだなと思い知らされましたよ。
というわけで、その文言ゆえに個人的にこのハウルは「永遠の映画」となっているようです。少なくとも現時点では笑
追記
徐々に不明部分を思い出してきたが、カルシファーは地球に落下するとすぐ息絶えてしまう「星の子」。
それを不憫に思った子供の頃のハウルが星の子を飲みこみ、ハウルの心臓を得たことで地球上でも生存できる「カルシファー」となり、代わりにハウルが強大な魔術を使えるようになった。
だからカルシファーは悪魔でも何でもない。
ではラスト、ハウルにカルシファーから心臓を移した後、ハウルが息を吹き返したのはいいとして、「星の子」の逆戻りしたカルシファーがなぜ生き永らえることができたのか?
そこは思い出せないけれどヒロインがキスをしたことで新しい命を吹き込まれたということなのかもね。
何れにしろ”度を過ぎた物凄いファンタジー”に過ぎないが、その度外れっぷりがある種の爽快感を産み出した一つの例だと思う。
後、ハウルたちが星の子に囲まれた際の呪文の意味も思い出せないが、それはネットなどでその他不明点も含め各自調べたほうが面白いかも。
動きます、歩きます、楽しい
不恰好な脚がついて、蒸気をジュンジュン吹きながらギコギコ歩く楽しいお城。
こんな城に、一度は住みたいと思った貴方、さあハウルの手をとってソフィーと旅に出よう。
楽しめる事うけあい、日本の誇る映画監督の作品です。
原作のハウルは、もっと俗っぽい男で、お城は最初から浮いてますよ。
さて最初この映画の監督に抜擢されたのが、今やヒットメーカーとなった細田守。
原作をうまくひねったであろう設定で、お話を作っていたところ、ちょっとやりたくなった宮崎駿に仕事を丸ごとぶっこぬかれてしまいました。
細田守は「ああ、これで自分もアニメの仕事はおしまいか」と絶望したそう。
その後時をかける少女のスマッシュ・ヒットで捲土重来を果たしますが、細田守は「宮崎駿が死んだら全てを話す(やさしい微笑み)」と各所で語っております。
この時も宮崎駿監督は「細田君、大丈夫なのかな……」と心配だけしていたそう。
女性大好きのワガママ男、ハウルと宮崎駿を許す心の広さをもって、いざこの物語を楽しみましょう。
キムタクは主演俳優倍賞千恵子の相手役
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