ドッグヴィルのレビュー・感想・評価
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【映画において、如何に意匠、背景を含めた美術の効果が大切かを、逆説的に示した作品。】
ー 今作での、ラース・フォン・トリアー監督の斬新すぎる作品設定 ー床に線を引いただけの空間ー の中での人間模様を描く手法には、主演のニコール・キッドマン始め数名の俳優が大いに戸惑い、彼らは二度とラース・フォン・トリアー監督作品には出演していない。-
■少数しか住人がいない廃れた鉱山町・ドッグヴィル。
作家になることを夢見るトム(ポール・ベタニー)は、ギャングに追われる美しい女性グレース(ニコール・キッドマン)を匿う。
トムは村人たちにその事実を話し「2週間で彼女が村人全員に気に入られる」という条件で同意を得る。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・ストーリー展開は、長尺にしてはシンプルである。だが、その中でドッグヴィルの小さな町の人達のグレースに対する悪意が徐々に醸成されて行く。
・主演のニコール・キッドマンは、舞台の様なセットの中で迫真の演技を披露するが、例えば彼女がチャック(ステラン・スカルスガルド)に犯されるシーンなどは、部屋の壁が一切ないために、どうしても違和感を感じてしまうのである。
監督の意図としては、そこは観客が”想像する”ことを求めているのか、斬新な演出を狙ったのかは、分からないがカメラアングルが、俯瞰した撮影にほぼ徹しているために、サスペンス要素が俳優の演技に頼らざるを得ないのである。
<今作の設定を観ていると、邦画の三谷幸喜監督作の、「ギャラクシー街道」や近作の「スオミの話をしよう」を想起させるが、当たり前だが両作とも今作よりも遥かに内装が凝っている。
どうも、私は映画には”如何に意匠、背景を含めた美術の効果が大切か”を重視し、求めているかと言う事を感じてしまった作品である。>
人間のあらゆるいやらしい面をくまなくリアルに描き切った作品。 一貫...
◇プライバシーの壁がない田舎町
物語の舞台は1920年代のロッキー山脈の廃鉱の町ドッグヴィル。相も変わらぬ町民が生活する小さな小さな町です。
最初に驚くのは、舞台のセットです。大きなスタジオ空間の床に道路表示のように書かれた「ELM.ST」「GLUNEN.ST」といった文字と家の間取り図。そして、壁がありません。町の空間はこのセットだけに固定されています。私はなぜか日本の伝統芸能である能の舞台を想起しました。
20人程度の固定されたメンバーで成り立ち、殆ど外部との交流なしに完結した町に一人の女が登場することによって異変が起こります。女はマフィアと警察の双方に追われている設定です。
前半こそは、女を匿って保護する寛容さと交流を深めていく流れで進みますが、時間の経過とともにじわりじわりと扱いが残酷になり、やがて村ぐるみの「奴隷」扱いに成り果てます。
困っている人を助けるという当たり前の道徳感、共同作業することによる仲間化。誰しも一定の距離を置く他者に対して取る態度です。一方で、時間の経過とともに人間関係の礼儀作法は崩れ始め、馴れ合い、相手の存在を固定化して、日常化します。相手に対して優越的な位置にあることに慣れる時に、道徳観は崩壊し易く、人はあり得ない程に他者の「人としての存在」を蹂躙します。
壁のないセットで繰り広げられる集団生活の醜さは、壁のないセットという特殊な環境下で、想像以上に露骨に露悪的に描き出されます。物語には当事者も傍観者もいますが、それぞれに無責任に欲望を剥き出します。そして、スクリーンの反対側で観ている者に対しては、われわれ人間が本来的に持つ残酷さを改めて認識させます。そんな装置を作り出したのが、この映画の技法です。
この作品は、ラースフォントリアー監督のアメリカ三部作の一つに位置付けられます。エンドロールとともに流れ始める#デヴィッドボウイ🎤David Bowie の♪ Young Americans 🎸がアメリカという国の負の姿、人間の欲望が持つ醜さ、われわれの中に潜む本姓、それぞれの不気味さを思い出させ、長く尾を引く余韻を響かせます。
床に白線で町を描いただけの狭い空間で展開される物語。 最初はなんだ...
強力なエグ味。
報い
山のふもとにある小さな村ドッグヴィルへ、グレースが逃げ込んでくる。トムの働きかけで村人は彼女を匿い、彼女は村に受け入れられるよう人々の手伝いをする。しかし徐々に村人たちは、彼女に対し。
スタジオの床に家の枠線があり、多少の小道具大道具があるだけ、それだけの設定で撮影された実験的作品。たぶん役者たちがとても戸惑ったことに、想像に難くありません。観てる方は、結局舞台みたいなものだなと、慣れてしまいました。
物語の展開と結末は、意外に予想される範囲のものでした。女性を虐げる監督ですが、最後はグレースが報復してよかったかな?
ニコール・キッドマンが、美しすぎます。ナレーターが、ジョン・ハート。最後にデビッド・ボウイのヤングアメリカンズが流れます。
ああもう本当に最悪…
あの無茶苦茶なセット(?)がシュール
鬼畜(読み仮名:トリアー)さんが相変わらず鬼畜なことする映画。床に間取り描いてあるだけの壁なしセットと聞いて、「またバカなことして」と半笑いで観に行ったら、アレですよ。今度のターゲットは見かけはニコール・キッドマンっす。ジワジワおかしくなる理屈をジワジワとねじ込んでくるのが本当にいやらしい。そして七転八倒しながら最後まで見ると、いやもう薄々途中でわかるのかもしれないが、鬼畜(トリアー)の本当のターゲットが誰なのか気がつくと、ダメ押しされる仕組み。
鑑賞後にステラン・スカラスゲルドのお尻がフラッシュバックしても当方は一切関知しない。
映画?舞台?
気持ち悪くもあるし気持ちいい映画
鬼畜は死すべき‼️殺すべき❓
舞台劇のような実験映画
美人は結局大事にされる、ってそりゃそうだ。
三部作のはじまり
まるで舞台劇のようなセット。背景もなく壁もない白線を引いただけの村。他の家で何をやっているのか全てわかるようになっている。奇抜な発想のため集中力なくしては観れない映画なのかもしれない。
プロローグと9章からなる3時間のこのストーリー。途中、かなり眠気を誘うのだが、後半村人の変貌に度肝を抜かされ、スクリーンに釘付けとなってしまうのだ。舞台は多分20世紀初頭で失業と貧困層の社会問題があるころに思われる。貧困が生んだ荒んだ心と閉鎖的な村でのエゴイズム。その犠牲者がグレース(キッドマン)となる。
少年ジェイソンまでもがSM気たっぷりで、まともな人間はいなくなる。そう、彼らはまさしく犬なのである。本能だけで生活し、権力にしつけられることもない。その狂気の沙汰をまざまざと見せつけられる痛い映画だったのだ。こうなってくるとラストも予想できるのだが、エンドロールの背景写真に見られるように単なるギャング映画に終ってないところがすごかった。
【2004年6月映画館にて】
自己分析の心理テスト
人の善意に頼ることがいかに危ういか、善とは悪の仮面であり偽善の一面に過ぎないという性悪説もしくは閉鎖的な部落に起こりがちな悲劇なのでしょうか、朗読劇、百歩譲って舞台劇としても、舞台自体が心眼で見ることを前提としたような囲いを排した奇異な設定である。
人類の歴史を観れば性善説を唱える立場でもなく、かといって世の中悪人ばかりではないことは自明だろう、無理を通すためには閉鎖的なドッグビルという仮想の村が必要だったのだろう。
制作者の意図を善意に解釈するとすれば反面教師として心清き人よ用心あれと言いたいのだろうか、それとも観る人の混乱する様を楽しみたい悪戯なのか。
状況説明のナレーションですら煩わしいが心理描写まで文字を読み上げる手法はかって無声芸術として誕生した映画文化の対極でもあり映画への挑戦あるいは冒涜とも受け取られかねない。既存の価値観、様式の否定からしか自己表現できない人がいても不思議はないがシュールであることイコール高尚な芸術表現と称える気にはなれません。賞賛、許容、困惑、否定と受け取り方次第が自己分析の心理テストのような映画でした。それ以前に診察台に乗った心境で178分という長さに耐えられないかもしれませんね。
アメリカ、鬱
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