ドッグヴィルのレビュー・感想・評価
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人間のあらゆるいやらしい面をくまなくリアルに描き切った作品。 一貫...
人間のあらゆるいやらしい面をくまなくリアルに描き切った作品。
一貫して全登場人物が至極不愉快な人ばかり。平和な場面は一瞬しかない。
この映画に快を感じたり気持ちが楽に感じた部分があったなら、それは自分の姿なのだろう。
◇プライバシーの壁がない田舎町
物語の舞台は1920年代のロッキー山脈の廃鉱の町ドッグヴィル。相も変わらぬ町民が生活する小さな小さな町です。
最初に驚くのは、舞台のセットです。大きなスタジオ空間の床に道路表示のように書かれた「ELM.ST」「GLUNEN.ST」といった文字と家の間取り図。そして、壁がありません。町の空間はこのセットだけに固定されています。私はなぜか日本の伝統芸能である能の舞台を想起しました。
20人程度の固定されたメンバーで成り立ち、殆ど外部との交流なしに完結した町に一人の女が登場することによって異変が起こります。女はマフィアと警察の双方に追われている設定です。
前半こそは、女を匿って保護する寛容さと交流を深めていく流れで進みますが、時間の経過とともにじわりじわりと扱いが残酷になり、やがて村ぐるみの「奴隷」扱いに成り果てます。
困っている人を助けるという当たり前の道徳感、共同作業することによる仲間化。誰しも一定の距離を置く他者に対して取る態度です。一方で、時間の経過とともに人間関係の礼儀作法は崩れ始め、馴れ合い、相手の存在を固定化して、日常化します。相手に対して優越的な位置にあることに慣れる時に、道徳観は崩壊し易く、人はあり得ない程に他者の「人としての存在」を蹂躙します。
壁のないセットで繰り広げられる集団生活の醜さは、壁のないセットという特殊な環境下で、想像以上に露骨に露悪的に描き出されます。物語には当事者も傍観者もいますが、それぞれに無責任に欲望を剥き出します。そして、スクリーンの反対側で観ている者に対しては、われわれ人間が本来的に持つ残酷さを改めて認識させます。そんな装置を作り出したのが、この映画の技法です。
この作品は、ラースフォントリアー監督のアメリカ三部作の一つに位置付けられます。エンドロールとともに流れ始める#デヴィッドボウイ🎤David Bowie の♪ Young Americans 🎸がアメリカという国の負の姿、人間の欲望が持つ醜さ、われわれの中に潜む本姓、それぞれの不気味さを思い出させ、長く尾を引く余韻を響かせます。
床に白線で町を描いただけの狭い空間で展開される物語。 最初はなんだ...
床に白線で町を描いただけの狭い空間で展開される物語。
最初はなんだこりゃ?と困惑するが、「狭い町」であることが分かりやすいので、慣れてくると逆に良い。
ギャングから逃げてきた女性を匿う町人たちが、最初は善良ぶっていたが、次第に人間の本性を現してくるのが生々しい。
若く美しい女性の弱味を握っている男たちが何を考えるか、この映画がR-15指定であることからも容易に想像がつくというもの。
ラストもあれが一番よかったと思う。
強力なエグ味。
演劇的表現が気になりDVDは持ってたけど未見であった。年末なのに暇なので見てみたわけです。
やっぱりラースは嫌な話上手いなぁ。
犬の様に卑しい、、、犬の村、、そんなイメージでドッグヴィレッジ、、ドッグヴィルなのね。
最後のシーンで確信したわ。
貧しいアメリカの山奥の村の話、人間の弱さ、愚かさ、汚さ、保身、攻撃性、全ては貧しさのせいなのか?いや違いますな。貧しいから表質しやすいだけ、人間の業です。さらにそれを貧しさのせいにして我慢、許したりすると彼らは何も学ばないのです。
かなり実験的表現を一流の演技者と演出力でこれだけ人間掘り込むのはやはりラース凄いと思う。
報い
山のふもとにある小さな村ドッグヴィルへ、グレースが逃げ込んでくる。トムの働きかけで村人は彼女を匿い、彼女は村に受け入れられるよう人々の手伝いをする。しかし徐々に村人たちは、彼女に対し。
スタジオの床に家の枠線があり、多少の小道具大道具があるだけ、それだけの設定で撮影された実験的作品。たぶん役者たちがとても戸惑ったことに、想像に難くありません。観てる方は、結局舞台みたいなものだなと、慣れてしまいました。
物語の展開と結末は、意外に予想される範囲のものでした。女性を虐げる監督ですが、最後はグレースが報復してよかったかな?
ニコール・キッドマンが、美しすぎます。ナレーターが、ジョン・ハート。最後にデビッド・ボウイのヤングアメリカンズが流れます。
ああもう本当に最悪…
トリアーの底意地の悪さが出た本作
徹底的にヒロインは痛い目に合い、
誰もが彼女を人間として扱わない
「ダンサーインザダーク」の何倍も痛い
ただその分、何倍かは進んだ結論になる
『親切なクムジャさん』や
『かぐや姫の物語』を想起したのだが、
本作の結末が本当にこれで良かったのか、
は定かではない。
カタルシスが不足している気がした。
それは裏を返せば、
私自身が殺された村人だったからなんだけれど。
あの無茶苦茶なセット(?)がシュール
鬼畜(読み仮名:トリアー)さんが相変わらず鬼畜なことする映画。床に間取り描いてあるだけの壁なしセットと聞いて、「またバカなことして」と半笑いで観に行ったら、アレですよ。今度のターゲットは見かけはニコール・キッドマンっす。ジワジワおかしくなる理屈をジワジワとねじ込んでくるのが本当にいやらしい。そして七転八倒しながら最後まで見ると、いやもう薄々途中でわかるのかもしれないが、鬼畜(トリアー)の本当のターゲットが誰なのか気がつくと、ダメ押しされる仕組み。
鑑賞後にステラン・スカラスゲルドのお尻がフラッシュバックしても当方は一切関知しない。
映画?舞台?
思ってたのと違った。
映画ではなく、舞台映像を見ているみたいだった。
家や草は実体はなく、パントマイム(?)で生活している。
時間が長くて途中飽きて料理しながら見たが、最後は釘付けになった。
90分くらいの映画だったら評価もっと上げてたかも。
意外とスカッと映画の部類に入る。
閉塞された村の怖さを実感した。
今やってるガンニバルとか、ミッドサマーとかと題材は似てる。
ニコール・キッドマンってこういう女性として可哀想な役が多い。というか似合ってる。
人間の本性、本能をキリスト教、神話的な要素で余すことなく表現した ...
人間の本性、本能をキリスト教、神話的な要素で余すことなく表現した
現実での人間関係、自身の傲慢さや弱さとも重ね合わせてしまう
想像力を掻き立てられる作品
気持ち悪くもあるし気持ちいい映画
最初に、ニコールキッドマンのスタイルの良さに驚きます(笑)
それはおいといて、人間のよくある善意からの嫌いな人間に対しての徹底的な暴力。出会いの優しい村人から始まり、美人で頭のいい主人公がだんだん疎ましくなっていく様子、自分たちが暮らしてる生活を凝縮したようでした。
面白い作りの映画です。最初は眠たかったけど中盤から目が離せませんでした。
最後、私も同じようにしたと思います。
鬼畜は死すべき‼️殺すべき❓
なんだか、やりきれないし、展開も平坦で、胸が閉塞する。
何より、ヒロインと境遇が重なるところがあるので、世の中に鬼畜が多いのはよくわかる。
でも、自分の手で、殺して良いと言われたら、二の足を踏むであろう。
すでに死んだ両親であり、教師であり、兄弟であり、妻であり子である、私を虐げて殺そうとした鬼畜ども。
死ね、とは思うが、殺そうととは思わない。
彼女も鬼畜になるのであろう。
全てが鬼畜なのだろう。
監督は、アメリカを想像して、撮影したらしい。
セリフが多すぎて、金もないので、舞台劇。
あまりにも、無様で、無惨で、残酷で、吐きそうだ。
舞台劇のような実験映画
二日連続ラース・フォン・トリアー
この人はいろんな発想があってそれをチャレンジするところが素晴らしい
すべては表現のためであることがはっきりとつかみ取れる
こういう方法でしかこのテーマは表現できないよ、と提示される
なにがテーマだった?と言われると言葉に出来ないんだけど
ドッグヴィルに関しては 偽善のなれの果ての命乞い、とメモした。
村が焼き払われるシーンは、セットが軽いので片付けが楽だな~と思ったけど
スタジオだしな…と
エンドロールがまた良く集めた写真で見入る
美人は結局大事にされる、ってそりゃそうだ。
初見時は愚民の心底の闇とは?と見たが、
再見時は美人が居たらどうなるか?だけに見えた。
裏切られ疎んじられる程に、異様に美しく輝く美人女優を見る悦び。
それだけが残る文学風味の珍作。
美人は疎んじられた先で結局大事にされるのよ、ってそりゃそうだ。
だが好きだ。
三部作のはじまり
まるで舞台劇のようなセット。背景もなく壁もない白線を引いただけの村。他の家で何をやっているのか全てわかるようになっている。奇抜な発想のため集中力なくしては観れない映画なのかもしれない。
プロローグと9章からなる3時間のこのストーリー。途中、かなり眠気を誘うのだが、後半村人の変貌に度肝を抜かされ、スクリーンに釘付けとなってしまうのだ。舞台は多分20世紀初頭で失業と貧困層の社会問題があるころに思われる。貧困が生んだ荒んだ心と閉鎖的な村でのエゴイズム。その犠牲者がグレース(キッドマン)となる。
少年ジェイソンまでもがSM気たっぷりで、まともな人間はいなくなる。そう、彼らはまさしく犬なのである。本能だけで生活し、権力にしつけられることもない。その狂気の沙汰をまざまざと見せつけられる痛い映画だったのだ。こうなってくるとラストも予想できるのだが、エンドロールの背景写真に見られるように単なるギャング映画に終ってないところがすごかった。
【2004年6月映画館にて】
自己分析の心理テスト
人の善意に頼ることがいかに危ういか、善とは悪の仮面であり偽善の一面に過ぎないという性悪説もしくは閉鎖的な部落に起こりがちな悲劇なのでしょうか、朗読劇、百歩譲って舞台劇としても、舞台自体が心眼で見ることを前提としたような囲いを排した奇異な設定である。
人類の歴史を観れば性善説を唱える立場でもなく、かといって世の中悪人ばかりではないことは自明だろう、無理を通すためには閉鎖的なドッグビルという仮想の村が必要だったのだろう。
制作者の意図を善意に解釈するとすれば反面教師として心清き人よ用心あれと言いたいのだろうか、それとも観る人の混乱する様を楽しみたい悪戯なのか。
状況説明のナレーションですら煩わしいが心理描写まで文字を読み上げる手法はかって無声芸術として誕生した映画文化の対極でもあり映画への挑戦あるいは冒涜とも受け取られかねない。既存の価値観、様式の否定からしか自己表現できない人がいても不思議はないがシュールであることイコール高尚な芸術表現と称える気にはなれません。賞賛、許容、困惑、否定と受け取り方次第が自己分析の心理テストのような映画でした。それ以前に診察台に乗った心境で178分という長さに耐えられないかもしれませんね。
アメリカ、鬱
随分前に観ましたが。表面上綺麗事ばかりで、偽善的、実は己の保身ばかり考え、スケープゴートを探す。一見善良な市民を装いながら狡猾で残酷な人間像を描き出した傑作です。アメリカ文化の影響を受けた日本にも当てはまることも多く、観たあと三日くらい鬱状態でした。ニコール・キッドマンをイジメる、なんて嫌な奴らだと思うかも知れませんが、間違いなく現実世界では僕たちはその嫌な奴の立場にいます。
とっつきにくい手法で描かれていますが、その観察力は鋭く、観る価値はあります。
衝撃が強すぎて忘れられない映画
観たのはもう14年程前になるか…。
それでも内容と映像が衝撃的で印象に残るシーンがいくつも頭の中に断片的に残っている。
小さな村で起こる醜い出来事。
出てくる村人がとにかく醜悪で、そんな人達を受け入れ続けるニコールキッドマン。
そして最後は…
また観たいけど観たくない。
でも、これだけ忘れられずにいる作品だから十数年経った今、観たら何か自分の中で消化出来るのかもしれない。
考えさせられる映画が好きな方には一度観てみていただきたい映画です。
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